光明皇后(九)大仏開眼
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こんにちは。左大臣光永です。
世間は今、テレワーク、テレワークいってますね。実際に自宅勤務に切り替えた方も多いかと思います。いかがですか?おそらく快適すぎて元に戻れないと感じているのではないでしょうか。満員電車?会議?なんてムダだったんだと。そうなんです。いったん自宅で仕事できる体制を作ると、会社通勤というものがいかにムダかと、バカバカしくなります。もろろん自宅勤務できない職種も多いですが、自宅勤務できる仕事なら自宅勤務に切り替えてくべきです。そうなれば自宅勤務できない職種の人にとっても、交通渋滞が緩和され、満員電車がなくなり、ストレスが減り、社会がよくなります。
本日は光明皇后の第九回「大仏開眼」です。
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光明皇后(一)父と母
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光明皇后(八)大仏造営の詔
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となります。
仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。
天平勝宝8歳(756)娘の孝謙天皇が即位すると皇后宮職の機能を拡大し「紫微中台(しびちゅうだい)」としましたが、これが藤原仲麻呂の台頭をまねきます。
前回は、天平15年(743)紫香楽宮で大仏造営の詔が出された後、恭仁宮から難波宮、紫香楽宮を経て、天平17年(745)聖武天皇が平城京にもどってくるまで語りました。本日は第九回「大仏開眼」です。
奈良の大仏
大仏造営事業の再開
聖武天皇一行が平城京に戻って3ヶ月後の天平17年(745)8月23日、大和国国分寺である金鐘寺(こんしゅじ)において、大仏造営事業が再開します。
この日聖武天皇はみずから袖に土を入れて運び、光明皇后はじめ役人たちもこれに習い、大仏の基壇を固めました(『東大寺要録』)。紫香楽宮にあった大仏の材料も、次々と平城京に運び込まれます。
金鐘寺は聖武天皇の第一皇子、基王(もといのみこ)の菩提を弔うための「山坊(さんぼう)」が発展して大和国国分寺となったものであり、さらに寺域を広げて東大寺になります。
大和国国分寺である金鐘寺=後の東大寺の本尊として盧遮那仏を造営することで、金鐘寺=東大寺を全国の国分寺・国分尼寺を総括する「総国分寺」として位置づけ、盧遮那仏を中心とする壮大な曼荼羅世界を、現実世界の上に描き出す、という壮大なプランだったようです。
しかし、国分寺・国分尼寺の造営、度重なる遷都、そして大仏造営。これら相次ぐ大事業は、国家財政を疲弊させ、人民を消耗させました。
難波行幸
天平17年(745)8月末、聖武天皇はふたたび難波に行幸し、その難波で、9月から病の床につきました。
難波宮跡
病をしずめるため天下に大赦が行われ、神仏に祈願が行われました。そのかいあってか、聖武天皇はいったんは健康をとりもどし、平城京にもどりました。
聖武天皇の体調不良と新薬師寺
しかしその後も聖武天皇はしばしば病の床につきました。もはやまともに政務を行える状態ではなく、光明皇后が政務を代行していたと思われます。
天平19年(747)3月、光明皇后は聖武天皇の病平癒を祈願して、新薬師寺を建立しました(聖武天皇が光明皇后の眼病平癒のために建立した説も)。
新薬師寺 本堂(食堂)
宝亀11年(780)の落雷で伽藍のほとんどが焼け、唯一焼け残った食堂(じきどう)が、以後、本堂になっています。
新薬師寺
本堂内部は円形の土壇の上に本尊の木造薬師如来坐像を中心に十二神将立像がまわりを取り巻きます。十二神将像は一躯をのぞいて天平時代のもので、特に伐折羅大将(ばさらたいしょう)の怒髪天をつく迫力ある表情はみどころです。
金の産出
大仏の造営は大方スムーズに進み、天平21年(749)までにはほとんど完成していました。唯一の心配は、大仏に塗る金が不足していたことですが、これも、思わぬ方向から救いがありました。
天平21年(749)2月22日、陸奥で、金が産出した知らせが届きました。
4月1日、聖武天皇は光明皇后・阿倍内親王以下、百官を率いて東大寺に行幸し、盧遮那仏の前で感謝の宣命をささげさせました(この時まだ大仏殿はない)。また百官に官位がふるまわれました。
この時、聖武天皇は南に向いた盧舎那仏像を北に向いて拝みました。すなわち中国の「天子南面す」の思想にのっとり、仏こそ帝王であり、自分は仏に仕える臣下であることをしめしたのです。
黄金出土を記念して、天平21年あらため天平感宝(てんぴょうかんぽう)元年と改元されます。
この頃、大伴家持は越中守として越中に赴任していましたが、金の産出によって従五位上に一段昇進しました。『万葉集』に、大伴家持が金の産出を祝った歌として、
天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
陸奥(みちのく)山に 黄金花咲く
(『万葉集』18巻 4097)
(天皇の御代が栄えよと、東にある陸奥の山に黄金の花が咲いた)
譲位
天平感宝元年(749)7月2日、聖武天皇は譲位し、安倍内親王が孝謙天皇として即位します。孝謙天皇24歳。聖武天皇は49歳。まだ引退にははやい年でしたが、金の産出によって、大仏の完成に目処が立ったことと、体調不良によって譲位に踏み切ったと思われます。
ここに改元して天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年となります。
天平勝宝元年(749)閏5月21日、聖武上皇は大安寺はじめ奈良の五大寺はじめ諸国の寺寺に墾田を寄進し、みずからの病気平癒を祈願させています。
遣唐使の派遣
天平勝宝4年(752)、遣唐使がふたたび派遣され長安に入ります。大使は藤原清河。副使は吉備真備・大伴古麻呂(おおとものこまろ)。
藤原清河は北家藤原房前の四男で、光明皇后の弟です。出発に際し、平城京郊外の春日で安全祈願が行われ、光明皇后が歌を詠みました。
大船(おおふね)に 真楫(まかじ)繁貫(しげぬ)き この吾子(あこ)を 韓国(からくに)へ遣(や)る 斎(いわ)へ神たち(万葉集巻19-4240)
(大船に楫をたくさん取り付けて、この子を唐の国に送り出します。どうか守ってください神々よ)
それに清川が答えて、
春日野に 斎(いつ)く三諸(みもろ)の 梅の花 栄えてあり待て 還(かえ)り来るまで
(春日野に祀ってある梅の花よ。花盛りのまま待っていてくれ。私が帰ってくるまで)
しかし清河が日本に戻ってくることは二度とありませんでした。往路、船が嵐にあい、ベトナムに漂着。陸路唐国に帰り、唐王朝に仕え、そのまま一生を終えました。
ちなみに清河の船団にはかの鑑真和上が乗っており、やはり嵐にあいながら鹿児島の坊津にたどり着き、天平勝宝6年(754)、平城京に至りました。
大仏開眼供養会
天平勝宝4年(752)4月9日、東大寺で大仏開眼供養会が開かれます。天平15年(743)に大仏造営を発願してから9年目のことでした。
奈良の大仏
聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、高位高官が並び、華やかな儀式でした。
インドの僧菩提僊那(ぼだいせんな)が、大きな筆を持って足場に登ります。筆から後ろにのびた緒を、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、政府高官たちが握ります。
最後の仕上げとして、大仏に目玉を描き入れると、
ワーーーッ パチパチパチパチ
大仏殿からは、一せいに拍手と歓声が上がります。インドや中国から1000人の僧侶が招かれ、集まった人の数は一万人を越えました。
儀式の後は晴れやか音楽とともに、インドや中国の踊りが披露されます。その賑わいは東大寺の外までも響き渡ります。
『続日本紀』には「仏法東に帰してより、斎会の儀、かつて此くの如く盛んなるは有らず」とあります。
鑑真和上による授戒
大仏開眼供養会の二年後の天平勝宝6年(754)2月、鑑真和上の一行が平城京に到着しました。
鑑真和上は742年(天平14)、日本からの留学生、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)の要請に応じて日本への渡航を試みましたが、4度の航海はすべて失敗に終わりました。このたび、藤原清河の遣唐使帰国にともない鑑真和上も帰りの遣唐使船に乗り込み、途中嵐にあい難破しながらも、鹿児島の坊津に上陸し、大宰府を経て、平城京につきました。渡航を決意してから12年目のことでした。
東大寺南門では平城京の僧侶や役人たちがこぞって鑑真一行を迎えました。
東大寺別当良弁(ろうべん)が鑑真一行を大仏殿に案内します。そこには、つい二年前開眼供養を終えたばかりの金銅の盧舎那仏像が鎮座していました。
東大寺大仏殿
奈良の大仏
「これは聖武太上天皇が天下の人々を勧誘して造られた金銅の像で、高さが50尺もあります。唐にはこれほど大きな像はありますか?」
聞かれて鑑真は、通訳を通して、
「ありません」
と答えたと。
以後、鑑真一行は東大寺を当面の滞在場所とします。
4月はじめ、東大寺の大仏殿前に戒を授けるための壇(戒壇)を設けました。まず聖武上皇が、ついで光明皇太后が、ついで孝謙天皇が菩薩戒を受けました。ついで430人あまりの沙弥(僧)が具足戒を受けました。これが日本発の登壇授戒です。
東大寺 戒壇院
5月1日、天皇らが授戒した壇の土を運んで、大仏殿の西側にあらたな戒壇院を築きました。治承4年(1180)平重衡の焼き討ち、永禄10年(1567)三好・松永の兵火で焼失し、現在の戒壇院は享保18年(1733)再建されたものです。
次回「光明皇后(十)正倉院御物」に続きます。
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