壬申の乱(三)瀬田橋の戦い

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こんにちは。左大臣光永です。

前々回から「壬申の乱」について、『日本書紀』のほぼ直訳でお話しています。壬申の乱は、天智天皇崩御後の672年に勃発した、後継争いです。結果、天智の弟の大海人皇子が勝利し、天智の息子・大友皇子は自害しました。戦後、大海人皇子が天武天皇として即位しました。

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「壬申の乱(一)挙兵」
https://history.kaisetsuvoice.com/Jinshinki1.html

「壬申の乱(ニ)近江朝廷側の反撃」
https://history.kaisetsuvoice.com/Jinshinki2.html

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倭侵攻・近江侵攻

672年秋7月の2日、大海人皇子は紀伊臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)・多臣品治(おほのおみほむぢ)・三輪君子首(みわのきみこびと)・置始連菟(おきそめのむらじ うさぎ)を遣わして、数万の軍勢を率いて、伊勢の大山から越えて倭に向かわせた。

■伊勢の大山 伊賀と伊勢の国境の山。加太越(かぶとごえ)という道がある。

また、村国連男依(むらくにのむらじ おより)・書首根麻呂(ふみのおびと ねまろ)・和珥部臣君手(わにべにおみきみて)・胆香瓦臣安倍(いかごのおみあへ)を遣わして、数万の軍勢を率いて、不破から出て、まっすぐ近江に入らせた。

自軍の軍勢と近江の軍勢と、見分けがつかないことを心配して、赤色の切れを衣の上に着けた。

その後、特に多臣品治(おほのおみほむぢ)に命令して、三千の軍勢を率いて、莉萩野(たらの)に駐屯させ、田中臣下足麻呂(たなかのおみ たりまろ)を遣わして、倉歴道(くらふのみち)を守らせた。

■留守司 飛鳥の留守司・高坂王の配下の下級役人? ■莉萩野 阿山郡佐那具(三重県上野市東北部)。 ■倉歴道 「倉歴」は近江国甲賀郡蔵部郷。ここから湖東の平野に到る道が倉歴道か。

時に近江朝廷は、山部王(やまべのおほきみ)・蘇賀臣果安(そがのおみはたやす)・巨勢臣比等(こせのおみひと)に命じて、数万の軍勢を率いて、(大海人皇子の宮のある)不破を襲おうとして、犬上川(いぬかみのかわ)のほとりに軍勢を駐屯させた。

■犬上川 鈴鹿山脈より発し、滋賀県犬上郡と彦根市の市街地を流れ琵琶湖にそそぐ。近江鉄道本線高宮駅から高宮橋まで、中山道第二の宿・高宮宿跡がのこる。

犬上川
犬上川

しかし山部王が、蘇賀臣果安(そがのおみはたやす)・巨勢臣比等(こせのおみひと)のために殺された(仲間割れ?)。この内乱によって軍勢は進まなかった。

そこで蘇賀臣果安(そがのおみはたやす)は犬上川から引き返して、頸を刺して死んだ。

■この内乱によって… 近江朝廷軍の結束のもろさが描かれる。山部王はもともと大海人皇子に心をよせており、折をみて大海人皇子軍に内通しようとしていたか。それを蘇賀臣果安・巨勢臣比等に見破られて、殺された。殺したほうの蘇賀臣果安も責任を感じて自殺したと。

この時に、近江の将軍羽田公矢国(はたのきみやくに)、その子大人(うし)たちが、自分の一族を率いて(大海人皇子のもとに)来て降伏した。

よって(大海人皇子は)(将軍の証たる)斧鉞(ふえつ)…斧とまさかりを授けて(羽田公矢国を)将軍に任じ、すぐに北方の越国(こしのくに)に入らせた。

■斧鉞 斧と鉞。君主が出征の際、将軍に授け、統治を一任したもの。 ■北方の越国に… 大海人皇子は投降してきたばかりの羽田公矢国を越国に向かわせる。その目的は、愛発関をふせぎ、近江朝廷軍が北国から徴兵することができなくすること。また、近江朝廷軍が北国へ逃げられないようにすること。加えて、琵琶湖の西をまわって三尾城を攻撃させることにあったと思われる。

これより先に、近江朝廷は、精鋭部隊を差し向け、たちまちに玉倉部邑(たまくらべのむら)を攻撃していた。大海人皇子方ではすぐに出雲臣狛(いずものおみこま)を遣わして、これを撃退させた。

■玉倉部邑 岐阜県不破郡関ケ原町玉。玉神社がたつ。

乃楽山・莉萩野の戦い

7月3日、将軍吹負は乃楽山のあたりで駐屯した。その時、(配下の)荒田尾直赤麻呂(あらたをのあたひあかまろ)が、将軍吹負に申し上げた。

「飛鳥の古き京(みやこ)は、本営の地です。固く守るべきです」と。将軍吹負はこれに従った。すぐに赤麻呂・忌部首子人(いみべのおびとこびと)を遣わして、古き京を守らせた。

この時、赤麻呂たちは、旧き都(飛鳥)について、道の橋板を壊し取り、楯に作って、都の巷に立てて守った。

7月4日、将軍吹負は近江方の将大野君果安(おほののきみはたやす)と、乃楽山に戦い、果安に敗られた。軍勢はことごとく逃げ出し、将軍吹負は、わづかに身を逃れることができた。ここに果安は追って八口(やくち)に至り、山に登って飛鳥の京(みやこ)をみると、巷ごとに楯が立っている。伏兵がいることを疑って、ようやく引き返した。

■八口 未詳。文脈からみて平城山と飛鳥の中間で飛鳥よりの土地。天香久山の南麓あたりか。

7月5日、近江方の別動隊司令官・田辺小隅(たなへのおすみ)が、鹿深山(かふかのやま)を越えて、(敵から見つからないように)幡を巻いて、鼓を抱いて、倉歴(くらふ)に到った。

■鹿深山 近江国甲賀郡の山。 ■倉歴 近江国甲賀郡蔵部郷。現伊賀市柘植町倉部(くらぶ)。北東1.8キロの伊賀市上柘植の余野公園には「壬申の乱古戦場」の碑がある。

(田辺小隅は)夜中に兵士たちに(声を出さないように)梅をくわえさせて、城を破り、突如、軍営の中に入った。そうして自分の(近江朝廷方の)軍勢と(大海人皇子方の)田中臣足麻呂(たなかのおみ たりまろ)の軍勢と区別がつきにくいことを心配して、人ごとに「金」と(合言葉を)言わせた。そこで刀を抜いて討つ時に「金」と言わない者はすぐさま斬った。

ここに(大海人皇子方の)足麻呂の軍勢はことごとく混乱し、事が突然起こったためにどうしていいかわからない。ただし(大将の)足麻呂だけは早く察知して、自分だけ「金」と言って、なんとか免れることができた。

7月6日、(近江朝廷方の)田辺小隅(たなへのおすみ)はまた進んで、莉萩野(たらの)の軍営を襲おうとして、たちまちのうちに迫ってきた。ここに(大海人皇子方の)将軍多臣品治(おほのおみほむぢ)が遮って、熟練した兵士たちでもって追撃した。小隅は、独り免れて逃げていった。以後、(小隅の近江朝廷軍が、大海人皇子軍を)襲ってくることは二度となかった。

息長の横河・鳥籠山の戦い

7月7日、村国男依らは近江朝廷軍と息長(おきなが)の横河(よこかは)に戦って破り、その将軍、堺部連薬(さかいべのむらじ くすり)を斬った。

■息長(おきなが)の横河(よこかは) 古くは現米原市醒井の天野川に沿った地域に比定された。ヤマトタケルの伝説にも関わり『東関紀行』や『十六夜日記』にみえる「居醒の清水」で有名。近年、米原市梓河内(あんさかわち)とする説が有力。壬申の乱初の主力部隊同士の決戦だが、記述はそっけない。

7月9日、村国男依らは近江の将軍、秦友足(はたのともたり)を鳥籠山(とこのやま)に討って斬った。

■鳥籠山 坂田郡と犬上郡の境の丘陵。滋賀県彦根市正法寺町(しょうぼうじちょう)の大堀山(おおぼりやま)に比定される。山の南に芹川(せりがわ)が流れる。息長横河で敗れた近江朝廷軍が大津まで撤退しようとしたのを、追いついた大海人皇子軍が芹川を渡す前に討ったと思われる。

鳥籠山(現 大堀山に比定)
鳥籠山(現 大堀山に比定)

鳥籠山(現 大堀山に比定)
鳥籠山(現 大堀山に比定)

芹川
芹川

この日(7月9日)、東海道の将軍・紀臣阿閉麻呂(きのおみ あへまろ)らは、倭(やまと)の京(みやこ)(飛鳥)の将軍、大伴連吹負(おほとものむらじ ふけい)が近江朝廷軍のために敗られたことを聞いて、すぐに軍勢を分けて、置始連菟(おきそめのむらじ うさぎ)を遣わした。千騎あまりを率いて倭京(飛鳥)に急がせた。

安河の戦い

7月13日、村国男依らは安河(やすのかわ)のほとりに戦って、大いに敵を破り、社戸臣大口(こそへのおみおほくち)・土師連千島(はじのむらじ ちしま)を捕らえた。

■安河 野洲川。甲賀郡・野洲郡を流れ、現在の守山市で琵琶湖にそぞく。琵琶湖にそそぐ最大の川。三上山の見晴らしがいい。

安河(現 野洲川)
安河(現 野洲川)

栗太の戦い

7月17日、栗太(くるもと)の軍勢を討って追い払った。

■栗太 瀬田川左岸。現在栗東市から現大津市大江までをふくむ一帯。後に近江国庁が置かれた。記述の簡潔さから本格的な戦闘はなく、安河の戦いの敗残兵を大海人皇子方が追撃したのみと思われる。

栗太(近江国庁跡)
栗太(近江国庁跡)

栗太(近江国庁跡)
栗太(近江国庁跡)

瀬田橋の戦い

7月22日、村国男依らは瀬田に到った。その時、大友皇子と群臣たちは、ともに橋の西に陣営して大きな陣を構えており、その後ろが見えないほどであった。

現 瀬田橋
現 瀬田橋

旗や幟は野を覆い、塵と埃は天に連なり、鉦と鼓の音は数十里先まで聞こえた。次々と乱れ射る矢がふりそそぐことは雨のようであった。

■瀬田 現滋賀県大津市瀬田。瀬田橋があった。昭和63年(1988)の発掘調査で、現在の瀬田唐橋より80メートルほど下流に橋脚基礎遺構が発見された。

(近江朝廷方の)将軍・智尊は精鋭を率いて、先鋒として敵の攻撃を防いだ。橋の中ほどを三丈ばかり切断して、一つの長板を置き、もし板を踏んで渡る者かあれば、すぐに板を引いて落とそうとした。このため(大海人皇子方は)進み襲うことができない。

ここに勇ましい豪の者があった。大分君稚臣(おほきだのきみわかおみ)という。長矛(ほこ)を棄てて甲(よろい)を重ね着して、刀を抜いてすばやく板を踏んで渡った。そして板につけた綱を切って、射られながらも敵陣に入った。

(近江朝廷方の)兵士たちはことごとく逃げ乱れて、まったく引き留めることができなかった。その時、(近江朝廷方の)将軍智尊は、刀を抜いて逃げる者を斬る。しかし留めることができない。それで智尊は橋のほとりで(敵に)斬り殺された。

大友皇子・左右の大臣たちは、なんとか身を免れて逃げた。男依らは粟津岡(あわづのおか)の下に出陣した。

■大友皇子・左右の大臣たちは… 大友皇子が本陣を置いたのは瀬田橋西詰より2キロ大津よりの園山あたりと思われる。 ■粟津岡 「粟津」は瀬田川西岸。大津市膳所町の一部。「粟津岡」はその背後の国分大地あたりか。

琵琶湖西岸 三尾城の戦い

この日、羽田公矢国(はたのきみやくに)・出雲臣狛(いずものおみこま)・ともに(琵琶湖西部の)三尾城(みおのき・みおじょう)を攻めて降伏させた。

高島 乙女ヶ池
高島 乙女ヶ池

■三尾城 「三尾」は琵琶湖西岸、高島郡安曇川町三尾里。「三尾城」は大津京防衛を目的に天智朝に気づかれた朝鮮式山城。明神崎の白髭神社背後の長法寺跡とする説が有力。

大友皇子の最期

7月23日、村国男依らは近江方の武将・犬養連五十君(いぬかひのむらじいきみ)と谷直塩手(たにあたひしほて)を粟津市(あはづのいち)に斬った。こうして大友皇子は逃げ入る所がなく、引き返して、山前(やまさき)に隠れて、自ら首をくくった。その時、左右の大臣と群臣たちは皆逃げ失せていた。ただ物部連麻呂(もののべのむらじ まろ)のみ、また一人二人の舎人が従っていた。

弘文天皇陵
弘文天皇陵

■山前 「山前」を「長等山の前」と見ると、大津京のすぐ近くで自害したことになる。しかし「山前」を「山背国山崎」と見ると、大友皇子一行は長い逃避行をしたことになる。その行程は、瀬田から牛尾越を越えて、小野(京都市山科区小野)に抜け、南下して現在の六地蔵あたりから宇治川沿いに鳥羽に出て、納所(のうそ)で桂川をわたり、山崎に到ったことになる。そのほか、「山前」の説として、大阪府枚方市三矢町(みつやちょう)山崎(さんざき)、枚方市楠葉(くずは)、交野(かたの)市郡津(こうづ)がある。

次回、最終回「倭の戦い・終戦」です。お楽しみに。

■日本の歴史~飛鳥・奈良 dvd-rom版 再入荷しました。
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蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱までの飛鳥時代篇。

そして奈良時代篇では長屋王の変。聖武天皇の大仏建立。鑑真和尚の来日、藤原仲麻呂の乱。長岡京遷都を経て平安京遷都に至るまで。

教科書で昔ならった、あの出来事。あの人物。ばらばらだった知識が、一本の線でつながります。

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松尾芭蕉の紀行文『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更級紀行』

そして近江滞在中のことを描いた『幻住庵記』、嵯峨の落柿舎の滞在記録『嵯峨日記』の、原文と、現代語訳、解説をセットにしたCD-ROMです。

■京都講演~菅原道真 6/22
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京都にゆかりの歴史上の人物を一人ずつとりあげて語っていきます。
第一回は「菅原道真」です。

解説:左大臣光永

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