壬申の乱(一)挙兵

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こんにちは。左大臣光永です。5月も終わりましたね。あなたにとってどんな一ヶ月間だったでしょうか?

私は10連休でペース狂いました。私自身はまったく休んでないんですが、世間が休んでいるのでダラダラした空気をまともに受けました。めいわくな連休でした。

本日から五回にわたって「壬申の乱」についてお話します。壬申の乱は、天智天皇崩御後の672年に勃発した、後継争いです。結果、天智の弟の大海人皇子が勝利し、天智の息子・大友皇子は自害しました。戦後、大海人皇子が天武天皇として即位しました。

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壬申の乱については何度もお話してきましたが、今回は一切はしょらず、『日本書紀』のほぼ直訳で語ります。

よって人名・地名がとても多く、ややこしいです。ややこしいのですが、ようするに「近江朝廷方」と「大海人皇子方」が戦って、「大海人皇子方」が勝利した、というだけの話です。

人名がたくさん出てきますが、ようするに「近江朝廷方」と「大海人皇子方」どちらなのか?それさえ把握しておけば、いいのです。

よって、今話題になっている人物が「近江朝廷方」なのか?「大海人皇子方なのか」を意図的に示しながら語りますので理解の助けになるはずです。

また、地図を示しながら語ります。地名のひとつひとつを解説するのは煩雑になるので「注」のほうにゆずりますが、、地図をみながら聴くと、両軍がどう動いたのか、コース取りがよくわかるはずです。

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大海人皇子の吉野入り

『日本書紀』によれば、

天武天皇は天命開別天皇(あめのみことひらかすわけのすめらみこと=天智天皇)の同母弟である。幼少の時は大海皇子(おおあましのみこ)と申し上げた。

天皇は生まれながら人並でないお姿であった。青年になってからは勇敢で、人間わざとは思えない武力があり、天文や占いをよく行われた。

天智天皇の娘・ウ野皇女(うののひめみこ)を正妻として迎えた。天智天皇の元年に東宮として立たれた。

天智天皇10年(671)冬10月、天皇は、病にかかり、たいそうお苦しみになった。ここに、蘇賀臣安麻呂(そがのおみ やすまろ)を遣わして、東宮(大海人皇子)を召して大殿に召し入れた。

さて安麻呂は、もともと東宮(大海人皇子)がご贔屓にされていた者であった。そこで密かに東宮(大海人皇子)を顧みたてまつりて言うことに、「気をつけてお答えください」と。

大海人皇子はここに、隠された陰謀があろうことを疑って、注意深くされた。天智天皇は大海人皇子におっしゃった。「お前に皇位を授けたい」

大海人皇子はすぐに辞退して申し上げた。「私は不幸にも、もともと多くの病があります。どうしてよく国家を取り仕切ることができましょう。どうか陛下、天下を皇后さまにお授けください。そして大友皇子を立てて東宮としてください。私は今日、出家して、陛下のために功徳を修めましょう」

天智天皇はこれを許した。その日に、大海人皇子は出家して法衣を着られた。そうして個人的に所有していた武器をことごとく国家におさめられた。

10月19日、大海人皇子は吉野宮(よしののみや)にお入りになった。この時、左大臣蘇賀赤兄臣(そがのあかえのおみ)・右大臣中臣金連(なかとみのかねのむらじ)と大納言蘇賀果安臣(そがのはたやすのおみ)たちが宇治までお送りして、帰ってきた。ある人の曰く、「虎に翼をつけて放った」と。この日の夕方、大海人皇子は島宮(しまのみや)にお泊りになった。

■島宮 飛鳥川の傍。蘇我馬子が館を建てて島を作ったので島宮という。

10月19日、吉野にお入りになった。この時に舎人たちを召して仰せられた。「私はこれから仏道修行しようと思う。そこで、私に従って仏道修行しようと思う者はとどまれ。もし官に仕えて名をなそうと思う者は、帰って官に仕えよ」とおっしゃった。

しかし退く者はなかった。

再度、舎人を集めて、同じようにおっしゃた。今度は、舎人のうち半ばは留まり半ばは去った。

12月、天智天皇が崩御した。

挙兵

天武天皇元年(668)春3月18日、内小七位(うちのしょうしちい)阿曇連稲敷(あずみのむらじ いなしき)を筑紫に遣わして、天智天皇が崩御されたことを郭務悰(かくむそう)に告げさせた。

■天武天皇元年 『日本書紀』は大友皇子(弘文天皇)の即位を認めず、668年を天武天皇元年とみなす。 ■郭務悰 唐国の使者

ここに郭務悰たちはことごとく麻の衣を来て、三度哀悼の礼をたてまつり、東に向かって首を垂れた。

3月20日、郭務悰らは再度哀悼の礼をたてまつり、(国書をおさめた)文箱と貢物を(大津の朝廷に)たてまつった。

夏5月12日、甲(よろい)・冑(かぶと)・弓矢が(大津の朝廷から)郭務悰らに下された。この日、郭務悰らに下されたものは、全部で絁(あしきぬ)1673匹、布2852端、綿666斤であった。

3月28日、(朝鮮の)高麗(こま)が、前部富加抃(ぜんほうふかべん)らを使者として(日本に)遣わし、(大津の朝廷に)貢物をした。

3月30日、郭務悰は帰国した。

この月に、朴井連雄君(えのゐのむらじ をきみ)が、天武天皇(大海人皇子)に申し上げて、「私は、私用があって一人で美濃国まで行きました。その時、朝廷は、美濃・尾張の両国の国司に命じて言うことに『山陵(みささぎ)を造営するため、あらかじめ人夫を差し出せ』と仰せになりました。しかし人夫一人ずつに武器をもたせてあります。私が思うに、山陵を作るのではありません。必ず何かあるのです。早急に避難しなければ、きっと危ないことになるでしょう」と申し上げた。

またある人が天武天皇(大海人皇子)に申し上げた。

「近江京(おうみのみやこ)(大津)から倭京(やまとのみやこ)(飛鳥)に至るまで、道のところどころに斥候を置いています。また宇治川の橋守に命じて、皇太弟の宮(大海人皇子)の舎人が私用の食糧を運ぶことを阻止しています」と申し上げた。

天武天皇(大海人皇子)はそれを嫌って、調べさせたところ、すべて事実であったことをお知りになった。そこで仰せになった。

「私は、位を譲り世をのがれる外は、独りで病を治め健康になって、ただただ天寿をまっとうしたかっただけだ。しかし今、やむをえず、災難を受けた。どうして黙って身を滅ぼそうか」と仰せられた。

大海人皇子、不破道に入る

6月22日、村国連男依(むらくにのむらじおより)・和珥部臣君手(わにべにおみきみて)・身毛君広(むげつのきみひろ)に仰せられた。

「今聞いたところでは、近江朝廷軍の連中は、私を殺そうと企んでいるときく。だからお前たち三人は、すみやかに美濃国に行って、東宮領である安八磨郡(あはちまのこおり)の管理人である多臣品治(おほのおみほむぢ)に重要な点を告げて、まずその郡の兵士を集めよ。そうして国々の国司たちを通して、諸国で徴兵させ、はやく不破道(ふわのみち)をおさえよ。私は今から出発しよう」と仰せられた。

■安八磨郡 美濃国の郡名。大垣市・安八郡墨俣町などをふくむ。 ■湯沐令 「湯沐(ゆ)」は皇后と東宮に経済基盤として与えた領地。「令(うながし)」はその管理人。 ■不破道 美濃国不破を通過する道。不破の「関」はまだ置かれていなかったと思われる。

6月24日、(天武)天皇が(吉野を出発して)東国に入ろうとされた。時に一人の臣下があって、申し上げた。

「近江の家臣たちは、もともと悪だくみを抱いています。必ずこの悪だくみは天下に及び(実際に彼らは軍勢を率いて進軍してきて)、道路は封鎖されて通れなくなるでしょう。どうして一人の兵士も従えず、手ぶらで東国にお入りになるのですか。私は事が成就しないのを恐れます」と申し上げた。

(天武)天皇はこの意見に従って、(美濃に向かいつつある)男依らを召し返そうとお考えになった。すぐに大分君恵尺(おほきだのきみゑさか)・黄書造大伴(きふみのみやつこおほとも)・逢臣志摩(おふのしま)を旧都・飛鳥の留守官をとつめる高坂王(たかさかのおほきみ)のもとに遣わして、駅鈴をわたせと要求させた。

■留守司 飛鳥京を守る留守官。 ■駅鈴 大化の改新で、全国各地に駅馬が置かれた。その駅馬を出させるには駅鈴というものが必要であった。駅鈴を手に入れるということは、その地を自由に通過できることをさす。

そして恵尺らに語って、

「もし駅鈴を得られないなら、すぐに志摩は帰って報告せよ。恵尺はすぐに近江に行き、高市皇子(たけちのみこ)・大津皇子(おほつのみこ)を召して、伊勢で私と合流せよ」と仰せになった。

こういう次第で恵尺らは旧都飛鳥をまもる高坂王(たかさかのおほきみ)のところへ行き、東宮の命令であるといって、駅令を(さしだすよう)求めた。しかし高坂王は聞き入れなかった。そこで恵尺は近江に行った。志摩はすぐに(吉野に)還って、報告した。「駅鈴は得られませんでした」と。

この日(672年6月24日)、(天武)天皇は出発して東国にお入りになった。事が急であったので、乗り物を待たず、徒歩で行った。

急に県犬養連大伴(あがたいぬかいのむらじおほとも)の鞍を置いた馬にあったので、それにお乗りになる。そうして皇后は輿にお載せして天皇に従わせた。

津振川(つふりかわ)まで来た時、乗り物がやっと到着し、すぐにお乗りになった。この時、始めから従っている者は、草壁皇子・忍壁皇子と舎人(とねり)朴井連雄君(えのゐのむらじをきみ)・県犬養連大伴(あがたいぬかいのむらじおほとも)・佐伯連大目(さへきのむらじおほめ)・大伴連友国(おほとものむらじともくに)・稚桜部臣五百瀬(わかさくらべのおみ いほせ)・書首根磨呂(ふみびとのねまろ)・書直智徳(ふみのあたひ ちとこ)・山背直小林(やましろのあたひ をばやし)・山背部小田(やましろべの をだ)・安斗連智徳(あとのむらじ ちとこ)・調首淡海(つきのおびと おふみ)の一族、二十人あまり、下級の女官十人余りである。

■津振川 宮滝下流で吉野川に合流する津風呂(つぶろ)川か。

その日に、宇陀の吾城(あき。阿騎)についた。大伴連馬来田(おほとものむらじ まくた)・黄書造大伴(きのふみのみやつこおほとも)が吉野宮より追いついた。

■宇陀の吾城(阿騎) 柿本人麻呂が「東の…」の歌に詠んだ阿騎野か。大宇陀町大字迫間の阿紀神社あたり。

この時、屯田司(みたのつかさ。朝廷直轄領の管理人)である舎人(とねり)土師連馬手(はじのむらじうまて)が、天皇の従者たちに食糧をたてまつった。

■屯田司 「屯田」は朝廷直轄領。「司」はその管理人。

甘羅村(かんらのむら)を通り過ぎると、猟師二十人あまりがあった。大伴朴本連大国(おほともの えのもとのむらじ おほくに)が猟師たちの頭であった。すぐに全員召して、天皇の乗り物に従わせた。

■甘羅村 大宇陀町の神楽岡?

また美濃王(みののおほきみ)を召した。すぐに参上して従った。湯沐(ゆ)(東宮の領地)の米を運ぶ伊勢国の荷役の馬五十匹に宇陀郡家(うだのこほりのみやけ)のあたりで遭った。そこで皆米を捨てさせ、それまで徒歩で来た者を乗せた。大野に至って日が暮れた。山が暗くて進むことができなかった。それでその村の家の籬を壊し取って、灯火にした。

■宇陀郡家 「郡家」は郡の役所。奈良県宇陀市榛原町にあったとされる。 ■大野 宇陀郡室生村大野。

夜半になって、隠郡(なばりのこおり)に到り、隠駅家(なばりのうまや)を焼いた。そして村中に呼びかけて、

「天皇が東国に入られるから、人夫どもは集まれ」と言う。しかし一人も来なかった。

■隠郡 伊賀国西南部。名張。三重県名張市。 ■駅家(うまや) 駅の事務所。

横河(よこかわ)に到ろうとした時、黒雲があった。広さ十丈にして天にかかっていた。その時天皇はあやしんで、すぐに灯火をかかげて自ら式(ちょく)を取って、占って、

「天下が二つに分かれる験である。しかし私が最終的に天下を得るだろうか」と仰せになった。

■横河 三重県名張市中村? ■式 占いの器具。

そしてただちに急ぎ進み、伊賀郡(いがのこほり)に到り、伊賀駅家(いがのうまや)を焼いた。伊賀の中山に到って、その国の役人たちが数百の軍勢を率いて従った。

■伊賀郡 伊賀国中部。 ■伊賀駅家 所在地不明。 ■伊賀の中山 上野市の南四十九町説、伊賀国分寺跡に近い上野市下友生(ともともの)付近説がある。

夜明けに、莉萩野(たらの)に到ってしばし乗り物をとめて食事された。積殖山口(つむえのやまぐち)に到りて、高市皇子が鹿深(かふか)から越えて天皇の一行と合流した。民直大火(たみのあたひおほひ)・赤染造徳足(あかぞめのみやつことこたり)・大蔵直広隅(おほくらのあたひ ひろすみ)・坂上直国麻呂(さかのうへのあたひくにまろ)・古市黒麻呂(ふるいちのくろまろ)・竹田大徳(たけだのだいとこ)・胆香瓦臣安倍(いかごのおみあへ)が従った。

■莉萩野 阿山郡佐那具(三重県上野市東北部)。 ■積殖山口 阿山郡伊賀町柘植町。

大山を越えて、伊勢の鈴鹿に到った。ここに、国司三宅連石床(みやけのむらじいわとこ)・二等官三輪君子首(みわのきみこびと)と朝廷直轄領の管理人・田中臣足麻呂(たなかのおみ たりまろ)・高田首新家(たかたのおびと にひのみ)らが、鈴鹿郡(すずかのおほり)に来て、天皇にお目通りした。

■大山 伊賀と伊勢の国境の山。 ■鈴鹿郡 三重県鈴鹿市

こうして五百人の兵士を集めて、鈴鹿の山道(鈴鹿の関)を塞ぎ止めた。川曲(かわわ)の坂下(さかもと)に到って、日が暮れた。皇后がおつかれになったので、しばらく輿をとどめて休まれた。しかし夜に曇って雨がふりそうになった。長く休むことはできず、進んだ。

■鈴鹿の山道 本文に記述はないが、鈴鹿の関と思われる。鈴鹿の関は近江と伊勢をへだてる。そこを封鎖して、近江朝廷軍が進撃してこれなくしたということか? ■川曲の坂下 伊勢国河曲郡。鈴鹿市東部。

すると寒くなって雷が鳴り、雨がとても激しく降ってきた。従っている人々は衣が濡れて、寒さにたえない。そこで三重郡家(みえのこおりのみやけ)に到って、家一軒を焼いて、寒がっている人々を温めさせた。

■三重郡家 四日市の中心部か

この日の夜中に、鈴鹿関司(すずかのせきのつかさ)が使を遣わして申し上げた。「山部王(やまべのおほきみ)・石川王(いしかはのおほきみ)が共に参上しましたので、関のところでとどめ置いております」。天皇はすぐに路直益人(みちのあたいますひと)を遣わして二人をお召になった。

■使を遣わして… 鈴鹿関は「五百の軍」でもって封鎖してあるので、山部王・石川王を通していいのか、天皇にうかがいを立てにきたもの。

6月26日朝、天皇は朝明郡(あさけのこほり)の迹太川辺(とほかはのへ)に、天照大神を遠く望んで拝まれた。この時に、路直益人(みちのあたいますひと)が到着して報告申し上げた。「(鈴鹿)関にとどめいてた者は、山部王・石川王ではありません。これは大津皇子です」と申し上げた。

■朝明郡 四日市市大矢知町(おおやちちょう)の久留部(くるべ)遺跡。 ■迹太川辺 現在の朝明川とする説が有力であったが、2004年の発掘調査により朝明郡が久留部遺跡と明らかになり、迹太川辺も久留部遺跡南の海蔵川北側と推定されるようになった。

すぐに益人に従って(大津皇子)が参上した。大分君恵尺(おほきだのきみゑさか)・難波吉士三綱(なにわのきしみつな)・駒田勝忍人(こまだのすぐりおしひと)・山辺君安摩呂(やまべのきみやすまろ)・小墾田猪手(おはりたのゐて)・埿部胝枳(はつかしべのしき)・大分君稚臣(おほきだのきみわかおみ)・根連金身(ねのむらじかねみ)・漆部友背(ぬりべのともせ)といった仲間が大津皇子に従っていた。天皇は大いにお喜びになった。

■(大津皇子)が参上… 大津から脱出してきた。加太越を越えてきたと思われる。

郡家(こほりのみやけ)に到着しようとする時、(不破に向かっていた)村国男依が、駅馬に乗って駆けつけ、「美濃の軍兵3000人を集めて、不破道を封鎖しました」と申し上げた。そこで天皇は男依の功績をほめ、郡家に到着すると、まず高市皇子を不破に遣わして、軍事のことを監督させた。

■郡家 朝明郡の郡家(こほりのみやけ)。所在地未詳。

山背部小田(やましろべのをだ)・安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)を遣して、東海道の軍兵を集めさせた。また、稚桜部臣五百瀬(わかさくらべのおみいほせ)・土師連馬手(はじのむらじうまて)を遣わして、東山道の兵士を集めた。この日(6月26日)に、天皇は桑名郡家(くわなのこほりのみやけ)に泊まられ、そのまま留まってお進みにならなかった。

■桑名郡家 桑名郡は伊勢国最北端の郡。桑名市の大部分と桑名郡多度町・長島町・木曽岬町。郡家の所在地は不明だが三重県桑名市蛎塚新田が有力。この地の懸神社は持統天皇をまつるという伝承を持つ。

次回「壬申の乱(ニ)近江朝廷側の反撃」に続きます。

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蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱までの飛鳥時代篇。

そして奈良時代篇では長屋王の変。聖武天皇の大仏建立。鑑真和尚の来日、藤原仲麻呂の乱。長岡京遷都を経て平安京遷都に至るまで。

教科書で昔ならった、あの出来事。あの人物。ばらばらだった知識が、一本の線でつながります。

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松尾芭蕉の紀行文『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更級紀行』

そして近江滞在中のことを描いた『幻住庵記』、嵯峨の落柿舎の滞在記録『嵯峨日記』の、原文と、現代語訳、解説をセットにしたCD-ROMです。

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京都にゆかりの歴史上の人物を一人ずつとりあげて語っていきます。
第一回は「菅原道真」です。

解説:左大臣光永

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