壬申の乱(ニ)近江朝廷側の反撃

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こんにちは。左大臣光永です。

前回から「壬申の乱」について、『日本書紀』のほぼ直訳でお話しています。壬申の乱は、天智天皇崩御後の672年に勃発した、後継争いです。結果、天智の弟の大海人皇子が勝利し、天智の息子・大友皇子は自害しました。戦後、大海人皇子が天武天皇として即位しました。

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近江朝廷軍の動き

前回「壬申の乱(一)」からのつづきです。

近江の朝廷は、大海人皇子が東国に入られた(挙兵した)ことを聞き、その群臣はことごとく恐れて、大津京の京内は動揺した。


近江大津宮錦織遺跡 第一地点

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あるいは逃れて東国に入ろうとし、あるいは退いて山や沢に隠れようとした。

ここに大友皇子は群臣に相談して、

「どうしようか」と仰せになった。

一人の家臣が進んで申し上げた。

「謀を立てるのが遅くなれば後れをとります。すぐに強く勇ましい騎兵を集めて、後を追いかけて討つのがよいでしょう」

しかし大友皇子はこれには従わなかった。

そうして韋那公磐鍬(ゐなのきみいはすき)・書直薬(ふみのあたひくすり)・忍坂直大摩侶(おしさかのあたひおほまろ)を東国に遣わし、穂積臣百足(ほづみのおみももたり)と弟五百枝(おといほえ)・物部首日向(もののべのおびとひむか)を倭京(やまとのみやこ)に遣わし、また、佐伯連男(さへきのむらじをとこ)を筑紫(つくし)に遣わし、樟使主磐手(くすのおみいはて)を吉備国(きびのくに)に遣わし、すべてことごとく軍兵を起こさせた。

よって大友皇子は(筑紫に遣わした)佐伯連男(さへきのむらじをとこ)と、(吉備国に遣わした)樟使主磐手(くすのおみいはて)に語って仰せになった。

「そもそも、筑紫の長官、栗隈王(くるくまのおほきみ)と吉備の国司、当摩公広島(たぎまのきみひろしま)と二人は、もとより大皇弟(もうけのきみ)=大海人皇子に従っていたことがある。背くようなことがあるかもしれない。もし従わない様子があったら殺せ」と仰せになった。

こうして樟使主磐手(くすのおみいはて)は吉備国に到着して、(近江朝廷方に味方しろという)符(文書)を授ける日に、(吉備の国司である)当摩公広島をあざむいて刀を解かせた。(広島はこれは磐手を殺す絶好の機会だという動きをしたので)磐手はすぐに刀を抜いて広島を殺した。

佐伯連男(さへきのむらじをとこ)は筑紫に到着した。その時、筑紫の長官である栗隈王(くるくまのおほきみ)が符(文書)を受けて答えて申し上げた。

「筑紫国は、もともと外からの攻撃に備えて守っております。いったい、城を高くして溝を深くして海に臨んで守らせているのは、どうして国内の賊に対する守りでしょうか。今ご命令を承って軍兵を起こせば、国は空っぽになります。もし不慮の事態が起これば、すぐに国家は傾くでしょう。そうなった後で百度私を殺したとしても、何の益がございましょう。どうして天皇(大友皇子)のご威徳に背きましょうか。軽々しく軍兵を動かさないことは、こういうわけです」と申し上げた。

その時、栗隈王の二人の子、三野王(みののおほきみ)・武家王(たけいへのおほきみ)、剣を佩きかたわらに立って退くことがない。ここに佐伯連男(さへきのむらじをとこ)が、剣をしっかり握って進もうとしたが、逆に殺されるかもしれないことを恐れた。

それで、事を成すことはできずに、空しく還ってしまった。

また東方に駅馬をもって遣わされた韋那公磐鍬(ゐなのきみいはすき)たちは、不破に到着しようとするとき、韋那公磐鍬ひとり、山中に伏兵がいることを疑って、後れてゆっくり進んだ。その時、(大海人皇子方の)伏兵が山から出て、書直薬(ふみのあたひくすり)たちの後続を断った。磐鍬はそれを見て、書直薬(ふみのあたひくすり)たちが捕らわれたのを知って、すぐに返して逃げて、なんとか難をまぬがれることができた。

ちょうどこの時、大伴連馬来田(おほとものむらじまくた)・その弟、吹負(ふけい)はともに、時勢が(近江朝廷側に)よくないのを見て、病と称して倭の家に退出した。

■倭の家 所在地未詳。次の「百済の家」と同じ場所と思われる。天の香具山の北に百済という地名があった。天香久山の西麓には百済川が流れている。そのいずれかか。

そうして皇位におつきになるのは、必ず吉野にいます大海人皇子であろうということを知った。そのため、馬来田(まくた)がまず大海人皇子に従った。ただし吹負のみは留まって、一気に名を立てて、困難な状況をくつがえそうと思って、そこで一人二人の同族と多くの豪傑を招いて、わずかだが数十人を集めた。

大海人皇子、野上行宮で作戦の号令をかける

6月27日、高市皇子(大海人皇子の息子)は使者を桑名郡家(くわなのこほりのみやけ)に遣わして、申し上げた。

■桑名郡家 桑名郡は伊勢国最北端の郡。桑名市の大部分と桑名郡多度町・長島町・木曽岬町。郡家の所在地は不明だが三重県桑名市蛎塚新田が有力。この地の懸神社は持統天皇をまつるという伝承を持つ。

「天皇がまします所から遠く離れていて、政治を行うのは不便です。近い所にお遷りください」と。

その日に、天武天皇は皇后(うののさらら)を(桑名郡家)に留めて、不破にお入りになった。

不破郡家(ふわのこほりのみやけ)についた頃、尾張国司守(おわりのくにのみこともちのかみ)小子部連鉏鉤(ちひさこべのむらじ さひち)が二万の軍兵を率いて従った。天皇はこれをお褒めになって、その軍兵を各地に遣わして、所々の道を塞いだ。

天皇が野上に到着なさると、高市皇子が、和蹔(わざみ)より御迎えに参上して、さっそく申し上げた。


野上行宮跡

■不破郡家 現在岐阜県不破郡垂井町宮代。この地には美濃国一宮・仲山金彦神社(南宮神社)や氏寺の宮代廃寺がある。桑名郡家から不破郡家までは、揖斐川右岸。現在の近鉄養老線に沿ったルートで北上したと思われる。 ■和蹔(わざみ) 現在の関ケ原町関ヶ原一帯。柿本人麻呂が高市皇子をたたえた挽歌に「和射見(わざみ)が原の行宮(かりみや)に」とある。

「昨夜、近江朝廷よりの駅馬の使が馳せ来ました。よって伏兵をもって捕らえると、書直薬(ふみのあたひくすり)・忍坂直大麻呂(おしさかのあたひおほまろ)でした。私はどこに行くとききました。二人は答えて申しました。『吉野にいます大海人皇子を討つために、東国の軍兵を起こしに遣わされた、韋那公磐鍬(いなのきみいわすき)の一族の者です。しかし磐鍬は伏兵があらわれたのを見て、すぐに逃げ還りました』と申しました」

その後、大海人皇子は高市皇子に語っておっしゃった。

「いったい、近江朝廷には、左右の大臣と賢き群臣がいて、共に謀を定めている。今私には共に計る者が無い。ただ幼少の子供があるばかりだ。どうすべきか」と仰せられた。

■私には共に計る者が無い 高市皇子を鼓舞し、兵士たちに印象づけるためのパフォーマンスと思われる。

高市皇子は腕まくりして剣を握りしめ、

「近江の群臣が多いといっても、どうして天皇の霊力に逆らいましょうか。天皇は一人のみにましますといえども、私高市は天つ神・国つ神の霊威を受けて、天皇のご命令を受け、多くの武将を率いて敵を征伐しましょう。近江朝廷はどうしてこれを防ぐことができましょう」と申し上げた。

ここに天皇は高市皇子をお褒めになって、手を取り背中を撫でて仰せになった。

「慎重に行え。怠るな」

そして鞍を置いた馬を高市皇子に授け、戦の全権をお委ねになった。高市皇子は和蹔(わざみ)に還った。天皇は、行宮(仮の宮)を野上に築いて、ご滞在になった。

この夜に、雷が鳴り、雨がたいそう降った。天皇は占いをして仰せになった。

「天つ神・国つ神が私をお助けになるのであれば、雷も雨も、やむであろう」

仰せ終わってすぐに雷も雨もやんだ。

6月28日、天皇は和蹔(わざみ)においでになり、軍事を検分してお帰りになった。


和蹔(わざみ)?(関ヶ原 徳川家康最後陣跡)

6月29日、天皇は和蹔(わざみ)においでになり、高市皇子に命じて、兵士たちに号令された。天皇はまた、野上に還って滞在された。

この日(6月29日)、(大海人皇子方の)大伴連吹負(おほとものむらじふけい)は、ひそかに(飛鳥の留守官をつとめる)坂上直熊毛(さかのうえのあたい くまけ)と相談して、一人二人の漢直(あやのあたい)たちに語って言った。

■漢直 東漢直(やまとのあやのあたい)。渡来系氏族。応神天皇の時代に多くの渡来人が来日した中の筆頭が東漢直であったという。

「私は偽って、高市皇子と名乗り、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の道から出て(飛鳥の留守司の)軍営に戦いを仕掛けよう。それでお前たちは内側から応じろ」と言った。こうして百済(くだら)の家で武器を整えて、南門から出た。


現 飛鳥寺

■百済の家 朝鮮の「百済」ではなく、飛鳥の地名。天香具山の西に「百済」の地名がある。また近年、桜井市吉備にも「百済(ひゃくさい)大寺跡」とみられる遺跡が発見されている。

まず秦造熊(はたのみやつこくま)にふんどしを着せて、馬に乗せて走らせて、飛鳥寺の西の軍営の中に、こう言わせた。

「高市皇子が、不破から攻めてきた。兵士が大勢従っている」

すると飛鳥の留守官である高坂王と、近江朝廷が倭で挙兵させるためによこした使者、穂積臣百足(ほづみのおみももたり)たちが、飛鳥寺の西の槻の木の下に集まって軍営を設けた。

ただ百足だけは小墾田(をはりた)の武器庫にいて、武器を近江に運んでいた。その時、軍営の中の兵士たちは熊が叫ぶ声を聞いて、皆散り散りに逃げた。そこへ大伴連吹負(おほとものむらじ ふけい)が、数十騎を率いてにわかに襲ってきた。すると熊毛ともろもろの直たちは、いっせいに大伴連吹負に与した。兵士たちも従った。

■小墾田 小墾田宮。飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。所在地不明であったが近年の調査で明日香村雷丘にあった可能性が高くなっている。

そこで高市皇子のご命令だといって、穂積臣百足(ほづみのおみももたり)(近江朝廷側)を小墾田(おはりだ)の武器庫から呼び出した。

ここに百足は、馬に乗ってゆっくり来て、飛鳥寺の西の槻の木の下まで来た。ある人が「馬から下りよ」という。その時百足は馬から下りることが遅かった。そこでその襟をつかんで、引落し、矢を射て、その一矢を命中させた。そこで刀を抜いて(百足を)斬り殺した。

■斬り殺した 穂積臣百足は壬申の乱における最初の戦死者。

そうして(近江朝廷方の)穂積臣五百枝(ほづみのおみ いほえ)・物部首日向(もののべのおびと ひむか)を捕らえた。しばらく経ってから許して、(大海人皇子方に)従軍させた。

また、高坂王(たかさかのおほきみ)・稚狭王(わかさのおほきみ)を召して、(大海人皇子方に)従軍させた。

やがて、(大伴連吹負は、)大伴連安麻呂(おほとものむらじ やすまろ)・坂上直老(さかのうえのあたひおきな)・佐味君宿那麻呂(さみのきみすくなまろ)らを不破宮(ふわのみや)に遣わして、事の次第を報告申し上げた。

天皇は大いにお喜びになった。それで吹負を将軍に任じられた。

この時、三輪君高市麻呂(みわのきみ たけちまろ)・鴨君蝦夷(かものきみえみし)らともろもろの勇ましき者ども、怒涛のごとく皆将軍(大伴吹負)の麾下に集まり、すぐに近江を襲撃しようと謀った。それで皆の中で特に優れた者を選び、別働隊の将軍および軍監(軍事の監督をする役人)に任じた。

7月1日、将軍大友吹負らは、まず(飛鳥から)乃楽(なら)に向かった。

次回「壬申の乱(三)瀬田橋の戦い」に続きます。

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蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱までの飛鳥時代篇。

そして奈良時代篇では長屋王の変。聖武天皇の大仏建立。鑑真和尚の来日、藤原仲麻呂の乱。長岡京遷都を経て平安京遷都に至るまで。

教科書で昔ならった、あの出来事。あの人物。ばらばらだった知識が、一本の線でつながります。

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松尾芭蕉の紀行文『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更級紀行』

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京都にゆかりの歴史上の人物を一人ずつとりあげて語っていきます。
第一回は「菅原道真」です。

解説:左大臣光永

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