壬申の乱(四)倭の戦い・終戦

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こんにちは。左大臣光永です。

「壬申の乱」について、『日本書紀』のほぼ直訳でお話しています。壬申の乱は、天智天皇崩御後の672年に勃発した、後継争いです。結果、天智の弟の大海人皇子が勝利し、天智の息子・大友皇子は自害しました。戦後、大海人皇子が天武天皇として即位しました。

本日は第四回・最終回「倭の戦い・終戦」です。

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近江軍、倭に迫る

前回「壬申の乱(三) 瀬田橋の戦い」からの続きです。

7月1日、(大海人方の)将軍、大伴吹負(おおとものふけい)が(飛鳥から)乃楽(なら)に向かって稗田(ひえだ)に到った日に、人が言うことに、

「河内から近江朝廷軍が大勢攻め寄せてきます」

■乃楽 平城京の地。 ■稗田 奈良県大和郡郡山市稗田町。中世の稗田環濠集落で有名。稗田阿礼をまつる売太(めた)神社がある。大伴吹負軍は飛鳥を制圧後、近江朝廷軍を討つため乃楽めがけて北上していた。その途中の稗田で河内から近江朝廷軍が襲ってきた報告にふれたのである。

稗田環濠集落
稗田環濠集落

稗田阿礼を祀る売太神社
稗田阿礼を祀る売太神社

そこで坂本臣財(さかもとのおみ たから)・長尾直真墨(ながおのあたひ ますみ)・倉墻直麻呂(くらかきのあたひ まろ)・民直小鮪(たみのあたひ こしび)・谷直根麻呂(たにのあたひ まろ)を遣わして、三百の兵士を率いて、竜田で防がせ、また佐味君少麻呂(さみのきみ すくなまろ)を遣わして、数百人を率いて、大坂に駐屯させ、鴨君蝦夷(かものきみ えみし)を遣わして、数百人を率いて、石手道(いはてのみち)を守らせた。

竜田・大坂・石手道
竜田・大坂・石手道

■そこで… 近江朝廷軍が竜田(竜田道)、大坂(穴虫越)、石手道の三つの道のいずれを通って攻撃してくるかわからないので、大伴吹息は三方すべてに守備兵を置く必要があった。せっかく奪取した飛鳥を奪われるのを避けるためである。しかしただでさえ少ない兵力を三分割するのは不利であった。7月4日に不破から援軍が到着するまで、大伴吹負は苦戦をしいられることになる。『日本書紀』は近江方面の記述と倭方面の記述が入り乱れている。近江方面は近江方面で、倭方面は倭方面で、記事をまとめなおしたほうが理解しやすい。 ■竜田 奈良から大坂に抜ける「竜田越え」のこと。奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりから、信貴山麓の丘陵を越えて大阪府柏原市高井田の西で大和川をわたり、長尾街道(大津道)に接続する。 ■大坂 二上山北側の峠を越えて河内に至る「穴虫越」と思われる。当麻(たぎま。現奈良県葛城市當麻町から北に折れ、近鉄南大阪線沿いに二上山の北麓をめぐり、大阪府南河内郡太子町から羽曳野市飛鳥(近つ飛鳥)に到り、竹内街道(丹比道)に接続する。 ■石手道 二上山南側の竹内峠か。当麻から二上山の南麓を抜け、現太子町で穴虫越と合流し、竹内街道(丹比道)に接続する道。

この日に、(不破から遣わされた大海人皇子方の援軍)坂本臣財(さかもとのおみ たから)たちは、平石野(ひらいしの?)に宿った。その時、近江朝廷軍が、高安城に立てこもっていると聞いて出発した。すぐに近江朝廷軍は、(大海人皇子方の)財たちが来たのを知って、税倉(ちからぐら)をすべて焼き払って、皆逃散ってしまった。よって財たちは高安城中に宿泊した。

■平石野 未詳。高安山や信貴山の東麓と思われる。 ■高安城 大和と河内の国境にある高安山の山頂にあった山城。天智天皇6年(667)築城。 ■税倉 税として治められた米・塩などをおさめた倉庫。

明け方、西の方を臨み見れば、大津・丹比(たぢひ)の二つの道から、大軍が迫り、旗や幟がはっきり見える。ある人が言うことに「近江朝廷方の武将、壱伎史韓国(いきのふびとからくに)の軍勢です」と。

大津・丹比の二道から、大軍が迫る
大津・丹比の二道から、大軍が迫る

財たちは、高安城から下って衛我河(ゑがのかは)を渡り、壱伎史韓国(いきのふびとからくに)と河の西で戦う。財たちは、軍勢が少なく、守ることができない。これに先立って、紀臣大音(きのおみおほと)を遣わして、懼坂道(かしこのさかみち)を守らせていた。それで財たちは、懼坂道に退いて、紀臣大音(きのおみおほと)の軍営に留まった。

韓国と河の西で戦う
韓国と河の西で戦う

■衛我河 餌香河とも。大阪府柏原市の石川。大和川にそそぐ。 ■懼坂道 現柏原市田辺(たなべ)から奈良県香芝市に抜ける道。現在、国道165号線となっている。

この時に、河内国司来目臣塩籠(くめのおみしおこ)は不破宮(大海皇子方)に帰順する心があって、軍勢を集めていた。そこに(近江朝廷方の)韓国が来て、ひそかにその計画を聞いて、塩籠を殺そうとした。塩籠は事がもれたことを知り、自殺した。

一日おいて、近江朝廷軍は、あちこちの道から大勢やってきた。大海人皇子方は戦うこともできずに退却した。

この日(7月4日)、(大海人皇子方の)武将・大伴吹負は、近江朝廷軍に敗られて、ひとり一、ニ騎のみを率いて逃げていった。

■墨坂 宇陀市榛原区萩原。大伴負息らは乃楽山で敗れると中つ道を南へ走り、横大路を(現近鉄大阪線耳成駅あたりで)左折。榛原から伊賀方面を目指して敗走した。途中の墨坂で不破からの援軍に出会った。

墨坂に到り、たまたま(大海人皇子方の)置始連菟(おきそめのむらじ うさぎ)の軍勢がやってきたのにあって、ふたたび引き返して金綱井(かなづなのゐ)に駐屯して、散り散りになっていた兵士たちを集めた。

■金綱井 奈良県柏原小綱(しょうこ)町か。 

ここに近江朝廷軍が大坂道から攻めてくると聞いて、将軍吹負は軍勢を率いて西に行く。当麻(たぎま)の巷まで来て、壱伎史韓国(いきのふびと からくに)の軍勢と葦池(あしいけ)のほとりで戦う。時に、(大海人皇子方に)勇敢な武人である来目(くめ)という者があり、刀を抜き、すばやく走り、まっすぐ近江朝廷軍の中に斬り込んだ。騎兵がその後に続いた。

■大坂道 二上山の北側の穴虫越。 ■当麻の巷 「当麻」は奈良県葛城市當麻町。「当麻の巷」は大坂道と石手道が交差する地点。 ■葦池 未詳。一般名詞か固有名詞かわからない。このあたりに多い池の一つと思われる。

近江朝廷軍は皆逃げた。大海人皇子軍は追いかけて、多くの者を斬った。ここに将軍吹負は軍中に命令して言った。

「いったい戦をはじめた元の心は、民衆を殺すことではない。元凶をたたくためである。なので、みだりに殺してはならない」と。

(近江朝廷方の)壱伎史韓国(いきのふびとからくに)は軍勢から離れて独りで逃げる。(大海人皇子方の)将軍吹負ははるかに見て、来目に命じて射させた。しかしあたらず、ついに韓国は走り逃げてしまった。将軍吹負はまた、飛鳥の本営に還った。その時、東方からの援軍が、次々と大勢やってきた。そこで軍勢を分けて、おのおの上(かみ)中(なか)下(しも)の道に当てて駐屯させた。ただし将軍吹負だけは、みずから中道(なかつみち)に当たった。

ここに近江朝廷軍の武将犬養連五十君(いぬかひのむらじ いきみ)は中道(なかつみち)から来て村屋に留まり、別働隊の廬井造鯨(いほゐのみやつこくぢら)を遣わして、二百の精鋭部隊を率いて、将軍吹負の軍営を攻撃させた。

■村屋 奈良県磯城郡田原本町蔵堂(くらどう)。

竜田・大坂・石手道
村屋・箸墓

この時、(将軍吹負は)麾下の軍勢が少なくて防ぐことができなかった。 ここに大井寺の奴で徳麻呂という者以下5人がいて、吹負の軍に従っていた。そこで徳麻呂たちは先鋒となって進んで矢を射た。鯨の軍勢は、進むことができなかった。

この日(7月4日)、(大海人皇子方の)三輪君高市麻呂(みわのきみ たけちまろ)・置始連菟(おきそめのむらじ うさぎ)が、上道(かみつみち)に当たって、箸陵(はしのはか)に戦った。大いに近江朝廷軍を破って、勝の勢いに乗って、さらに(近江朝廷方の)廬井造鯨(いほゐのみやつこくぢら)の軍の後方を断った。

鯨の軍勢は皆逃げ散っていき、多くの軍兵が殺された。鯨は白馬(あをうま)に乗って逃げ、馬が深田に落ちて、進めない。そこで(大海人皇子方の)将軍吹負は、甲斐出身の勇者に命じた。「その白馬に載っている者は廬井造鯨(いほゐのみやつこくぢら)である。すぐに追いかけて射よ」と。そこで甲斐の勇者は追いかけて馬を走らせ、鯨に追いついたころ、鯨は急に馬に鞭打ち、馬はうまく泥から出て、馳せていって、逃げることができた。

将軍吹負はまたふたたび飛鳥の本営に還って軍を立て直した。これより後、近江朝廷軍が倭に攻めてくることはなかった。

■箸陵 箸墓古墳。奈良県桜井市箸中。3世紀はじめに造営された日本最古の前方後円墳。 ■白馬 青みをおびた白い馬なのであおうまと言う。アオサギというと同じ理屈。

神々の託宣

これより先に、金綱井(かなづなのゐ)に軍を立て直した時、高市郡(たけちのこほり)の領主・高市県主許梅(たけちのあがたぬし こめ)が、突然口をつぐんで、物言うことができなくなった。3日の後、まさに神がかりになって言った。

「私は、高市社(たけちのやしろ)にいる、名は事代主神(ことしろぬしのかみ)である。また、身狭社(むさのやしろ)にいる、名は生霊神(いくたまのかみ)である」という。

そこで神意を解き明かして言うことに、

「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)(初代神武天皇)の陵に、馬とさまざまな武器を奉れ」と。

そこでまた言うことに、

「私は(神武天皇の子孫)たる(天武)天皇の前後に立って、不破までお送り申し上げて還ってきた。今また官軍の中に立って、お守り申し上げる」

また言った。

「西の道から軍勢が大挙して襲ってくる。用心せよ」と。

言い終わって正気に戻った。そこでこの一件のため、高市県主許梅(たけちのあがたぬし こめ)を遣わして、神武天皇の陵を祭り拝ませ、馬と武器を奉った。

また、幣帛を捧げて、高市(たけち)・身狭(むさ)の二つの社の神を礼拝して祭った。その後に、(近江朝廷軍の)壱伎史韓国(いきのふびと からくに)が大坂から攻めてきた。

それで時の人は、「ニ社の神の教えられた御言葉は、まさにこの事であったのだ」と言った。

■高市郡 奈良盆地南部。橿原市の大部分と大和高田市の東南部、高市郡明日香村・高取町。 ■高市社 橿原市雲梯町(うなてちょう)宮ノ脇の川俣神社、もしくは橿原市高殿町鴨公(かもぎみ)神社(藤原宮の大極殿跡)。 ■事代主神 大国主神の息子。言葉・託宣の神。 ■身狭社 橿原市見瀬町牟佐坐神社。

また、村屋神(むらやのかみ)が神官に依り憑いて言った。「今、わが社の中道(なかつみち)から、軍勢が攻め来るであろう。社の中道を防ぐべし」と。

すると、いまだ数日を経ずして、廬井造鯨(いほゐのみやつこくぢら)の軍勢が、中道から攻め来たった。

時の人が言うことに、

「神のご託宣はこのことであったのだ」

■村屋神 村屋は奈良県磯城郡田原本町蔵堂(くらどう)。村屋神はこの地にある村屋坐弥富津比売(むらやにいますみふつひめ)神社。

軍事に関する政務がすっかり終わると、(大海人皇子方の)将軍たちはこの三柱の神(事代主神・生霊神・村屋神)の教えられた言葉を(天武)天皇に奏上した。そこで天皇は詔を発して、三社の社格を上げて祭祀を行わせた。

終戦

7月22日、(大海人皇子方の)将軍・大伴吹負は、すっかり倭の地を平定し、大坂を越えて難波に向かった。吹負以外の将軍たちはおのおの三つの道から進み、山前(やまさき)に到って、(淀)川の南に駐屯した。

将軍吹負は難波の小郡(おごおり)で、これより西の諸国の国司たちに、(租税や兵器をおさめる倉の)鍵・(通行手形としての)駅鈴・(馬を徴発するときに使う)伝印(つたへのしるし)を差し出させた(=西国諸国の交通・軍事をおさえようとした)。

■山前 山城国乙訓郡山崎(現大山崎町)説、大阪府枚方(ひらかた)市三矢字山前(さんざき)説、枚方市楠葉(くずは)説では楠葉の久修園院を山崎院とする。 ■難波の小郡 ?? ■鍵 諸国の租税や兵器をおさめる倉の鍵。 ■駅鈴  大化の改新で、全国各地に駅馬が置かれた。その駅馬を出させるには駅鈴というものが必要であった。駅鈴を手に入れるということは、その地を自由に通過できることをさす。 ■伝印 駅におく伝馬を徴発する時の証とする印。

7月24日、それぞれ将軍たちはささ浪に集まって、左大臣右大臣ともろもろの罪人たちを捜索して、捕らえた。7月26日、将軍たちは不破宮に向かい、大友皇子の首を捧げて、軍営の前に献上した。

■ささ浪 滋賀県大津市の琵琶湖西岸一帯。

8月25日、天武天皇は高市皇子に命じて、近江朝廷の群臣の罪状を宣告させた。そこで重罪人八人を極刑に処した。こうして右大臣中臣連金(なかとみのむらじ かね)を浅井(あさゐ)の田根で斬った。

この日に、左大臣蘇我臣赤兄(そがのおみ あかえ)・大納言巨勢臣比等(こせのおみ ひと)とその子孫、あわせて中臣連金の子、蘇我臣果安(そがのおみはたやす)の子らを皆、流罪に処した。

■浅井 滋賀県長浜市田根。

これ以外は皆赦免した。これより先、尾張国の国司、少子部連鉏鉤(ちひさこべのむらじ さひち)は山に隠れて自害した。

天武天皇はおっしゃった。「鉏鉤(さひち)は勇ましき者である。罪もないのにどうして自害したのだろう。何か陰謀があったのか」と。

8月27日、手柄を立てた人達に天皇よりお褒めの言葉と恩賞が与えられた。

9月8日、天武天皇の御車は還ることになり、伊勢の桑名に宿られた。

9月9日、鈴鹿に宿られた。

9月10日、阿閉に宿られた。

9月11日、名張に宿られた。

9月12日、倭京(やまとのみやこ)(飛鳥)に到って、島宮(しまのみや)にお入りになった。

9月13日、島宮から岡本宮にお移リになった。この年に、宮殿を岡本宮の南に造営した。その冬に、(新しい宮殿に)遷られた。これを飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)という。

■阿閉 伊賀国阿拝(あえ)郡。三重県上野市の北半分と甲賀町・島ケ原村。 ■名張 三重県名張市の大部分。 ■島宮 蘇我馬子の邸宅跡。石舞台古墳そばの「島庄遺跡」がそれと見られている。 ■岡本宮 舒明天皇・斉明天皇の皇居。場所は諸説あり。 ■飛鳥浄御原宮 奈良県高市郡明日香村岡の伝飛鳥板葺宮跡(でん あすかいたぶきのみやあと)がそれと見られる。

伝飛鳥板葺宮跡
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京都にゆかりの歴史上の人物を一人ずつとりあげて語っていきます。
第一回は「菅原道真」です。

解説:左大臣光永

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