伊能忠敬(四)『大日本沿海輿地全図』

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こんにちは。左大臣光永です。夕方、雨がやんだのでベランダに出ると、比叡山の方角に、虹がきれいに出てました。おおーっと見ていると10分くらいで真ん中が消えて、左足が消えて、右足が消えて、見えなくなりました。おもしろかったです。

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本日は「伊能忠敬の生涯」の第四回、『大日本沿海輿地全図』です。

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江戸帰還

文化11年(1814)5月23日、伊能忠敬率いる測量隊は足かけ4年にわたる九州の測量を終え、江戸に戻りました。

「年を取った…」

この年忠敬70歳。すっかり白髪が増え、目は深く落ち窪んでいました。特に今回の九州行きは老体に響きました。道行きの困難さに加え、五島列島の福江島で長年の片腕であった幕府天文方下役・坂部貞兵衛(さかべ さだべえ)が亡くなったことが大きくこたえました。

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江戸府内測量の許可を得る

翌文化12年(1815)伊能忠敬は江戸府内を測量する許可を、幕府に求めます。これまでの測量行は、すべて江戸の大木戸の外から始まっていました。機密上の理由から、江戸府内を測量することは認められなかったのです。

江戸日本橋からは奥州街道・日光街道・中山道・東海道・甲州街道の5つが出ていました。そのいずれも、過去16年間で測量してきました。しかし肝心の日本の中心である江戸の測量ができないと、これまでの地図を一つに継ぎ合わせることができないのです。

伊能忠敬は幕府に対して切々と江戸測量の必要を説きました。ついに幕府も根負けして許可を出しました。

第九次測量

伊能忠敬は江戸府内測量の許可を得るのと並行して、伊豆七島の測量も計画していました。

「先生、ムチャですよ。しばらく休まないとお体を壊します」
「なんの、自分の足で調べる。今までずっとそうしてきた。伊豆七島も、やるぞ」

しかし忠敬の体は弱っていました。結局、忠敬は参加できず、伊豆七島の測量は弟子たちに任せました。

文化12年(1815)4月27日、測量隊は江戸を出発。下田から伊豆七島を目指します。

まず三宅島を測量し、ついで八丈島に渡り大賀(おおか)郷の陣屋に迎えられます。大賀郷には備前宇喜多氏の家紋(剣片喰)が多く見られました。関ヶ原で西軍副総帥を努めた宇喜多秀家は、八丈島に流され、その子孫が、脈々と息づいているのでした。

八丈島の海岸は切り立った断崖が多く、測量は困難を極めました。西山と三原山には数回上って、方位を測りました。

測量隊は八丈島を後に、三宅島周辺の島々を測量するつもりが三日三晩漂流して三浦半島の三崎に流れ着きます。ふたたび三宅島に向かい、御蔵島(みくらじま)→神津島(こうづしま)→新島(にいじま)→式根島(しきねじま)→利島(としま)と測量し、

下田近くの須崎(すざき)につくと、大島にわたって測量。また下田に戻り、熱海で越年。約一ヶ月熱海で休養した後、富士山麓を測量し江戸にいったん戻るも、

ふたたび八王子→熊谷→と測量しながら文化13年(1816)4月12日、江戸に戻りました。今回の測量行はほぼ一年がかりでした。断崖絶壁があったり、三日三晩漂流したり、命がけの測量行でした。

それほどまでに力を尽くして伊豆七島の測量をしたのは、国防上、重要だったからです。伊豆七島は江戸湾へのコース上にあり、外国船が日本に来る際は通過する可能性が大いにありました。

第十次測量

最後の第十次測量は江戸府内を測量しました。

第一次から第九次の調査では江戸府内の測量はしていません。そのため各地の地図がバラバラに存在している形でした。しかし江戸府内の測量データが仕上がれば、それらを一つに繋げることができます。

文化12年(1815)2月3日から19日まで予備調査が、翌文化13年(1816)閏8月8日から10月23日まで江戸府内測量が行われました。

伊能忠敬は予備調査には参加したが文化13年の江戸府内測量には参加できなかったようです。

予備調査ではそれまでの測量の出発点である千手・品川・板橋・高輪などと日本橋を測線で結びました。これにより東日本・西日本のすべての地図が江戸を軸に一つにつながりました。

翌文化13年の江戸府内測量では江戸府内の屋敷・道路・海岸・河岸・橋・寺や神社など詳細に記した6000分の1の地図が作られました。

「地球の大きさを知りたい」

それがそもそもの始まりでした。単純な探究心から出たことでした。それがいつしか全国の道を歩き海岸を、島々を測量し、多くの人々を巻き込んで、日本全国の地図を作るという途方もない大仕事に発展していったのです。しかもその仕事はいよいよ完成に近づいていました。72歳の伊能忠敬は、感慨を深くしたことでしょう。

地図をまとめる

これより足掛け17年間にわたる測量データをまとめ上げる作業に入ります。深川黒江町の家は手狭なので、八丁堀(はっちょうぼり)亀島町(かめじまちょう)の桑原隆朝(くわばら たかとも)宅に移ります。桑原隆朝は妻ノブの父です。ここを地図御用所と称して作業場とします。多くの弟子を使って、地図の作成を精力的に行いました。

その間、間宮林蔵がたびたび亀島町の忠敬の家を訪ねてきては、地図づくりを手伝いました。

しかし、翌文化14年から忠敬は持病のぜんそくがひどくなります。体は目に見えて弱ってきました。地図作りにもなかなか参加できなくなりました。それでも病床から弟子たちに指示を出し続けました。

文政元年(1818)4月13日、伊能忠敬は地図の完成を見ぬまま帰らぬ人となります。享年74。墓は遺言により、上野源空寺の、師である高橋至時の墓の隣に、立てられました。

『大日本沿海輿地全図』の完成

伊能忠敬は亡くなりましたが、その死は伏せられ、地図作りが継続されます。

忠敬の死後、忠敬の師である高橋至時の息子・幕府天文方・高橋景保(かげやす)が中心となって地図作りを進めました。忠敬が亡くなったことで作業の進みは遅くなりました。

忠敬の死後三年目に、ようやく完成します。

『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』。ふつうには『大日本輿地全図』と言われます。

大図214枚・中図8枚・小図3枚からなり、別に『大日本沿海実測録』という14巻の本がそえてありました。序文と判例、各地の地名と緯度、各地の間の距離を記したものです。

『大日本沿海輿地全図』は江戸城大広間にて老中・若年寄の閲覧を受けた後、将軍の図書館である「紅葉山文庫」におさめられました。

近代測量術もまだ知られていない時代、17年間にわたり、文字通り二本の足で全国を歩き、日本地図を完成させた伊能忠敬。つくづく、その仕事の大きさに驚かされます。

約50年後、明治政府は近代三角測量法による新しい日本地図の作成にかかります。その際も、伊能忠敬の地図にはほとんど誤りがなく、大いに役立ちました。

次回、最終回「伊能忠敬(五)忠敬の人となり」に続きます。お楽しみに。

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「耳で聴く」歴史解説音声
「江戸幕府の始まり」「崩れゆく江戸幕府」
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「江戸幕府の始まり」

二代徳川秀忠から七代徳川家継の時代まで。

江戸の町づくり・春日局・徳川家光と鎖国の完成・島原の乱・由比正雪の乱・明暦の大火・徳川綱吉と生類憐れみの令・新井白石と宣教師シドッチ。そして元禄文化の担い手たち、松尾芭蕉や井原西鶴、近松門左衛門や初代市川團十郎など。

「崩れゆく江戸幕府」

八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、天保14年(1843)に水野忠邦が失脚するまで。

江戸幕府前半48話・後半32話に分けて解説した音声つきdvd-romです。在庫終了しだい販売終了します。お申込みはお早めに。
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■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

解説:左大臣光永

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