伊能忠敬(一)五十にして立つ

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こんにちは。左大臣光永です。京都の寺はどこも金取られてしかも高いですが、立派な作りの解説書がついてくる場合もあり、そういう時は、高くてもいいなあと思えます。特に東寺と大覚寺の解説書は、デザインもよく情報もつまっていて、うれしくなります。

さて先日新発売しました。「崩れ行く江戸幕府」ご好評をいただいております。8代将軍徳川吉宗から水野忠邦の「天保の改革」まで。江戸幕府後半の事件や人物について語っています。
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本日からこの商品にあわせて、「伊能忠敬の生涯」をお届けします。伊能忠敬。養子に入った伊能家の商売を大いに盛んにし、49歳で隠居した後は、日本地図作成という大事業に乗り出しました。「中高年の星」とか「ウォーキングの元祖」とか言われることも多いですね。

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伊能忠敬像
伊能忠敬像

出生

伊能忠敬は延享2年(1745)2月11日、上総国山辺(やまべ)郡小関(こせき)村に、小関貞恒(こせき さだつね)の第三子として生まれました。幼名・三治郎(さんじろう)。上に兄が一人、姉が一人いました。

父・小関貞恒は小関村の名主である小関家に婿入りしていましたが、もとは神保(じんぼ)氏と言いました。三治郎が六歳の時、母が亡くなると、父小関貞恒は小関家を出て、実家である上総国武射(むさ)郡小堤村(おんづみむら)の神保家に戻りました。

しかし三治郎だけは小関家に残されて、10歳まで小関家で養育されました。10歳の時、実家の神保家に戻されます。

少年時代の三治郎=伊能忠敬についてわかっていることはほとんどありません。しかし養育された小関家は名主、実家の神保家もそれなりの家柄ですので、しっかりした教育を受けたと思われます。その中で、暦学や天文学にも興味を持ったのでしょう。

伊能家の養子となる

三治郎の秀才ぶりは評判になり、やがて下総(千葉県北部)の佐原(さわら)村の伊能家から養子にほしいという話がきます。

佐原の町並み
佐原の町並み

佐原村は利根川に注ぐ小野川に沿った水郷です。江戸と銚子を結ぶ大切な港の一つであり九十九里の干鰯(ほしか)や塩の集積地として栄えました。現在も、小野川沿いに古い町家や土蔵が立ち並びます。

佐原の町並み
佐原の町並み

その佐原村の名家・伊能家は代々佐原村の名主をつとめました。酒造業・金融業・運送業などを営む大商人です。佐原村のみならず周囲一帯に力をもっていました。

その伊能家に跡取りがいなかったために、娘サチに婿を取らせて家を継がせたのです。しかしその婿が早世したため、早急に次の婿を入れる必要がありました。そこで三治郎が選ばれた、というわけです。

この時、サチは21歳。三治郎より4歳年上でした。三治郎としてはどんな気持ちだったでしょうか。婿入り直後に林大学守鳳谷(ほうこく)より「忠敬」の名乗りを与えられます。ここに「伊能忠敬」が誕生したのです。

以後、伊能忠敬は49歳で家督を息子の景敬(かげちか)に譲るまで、伊能家を切り盛りし、商売を大いに盛んにしました。伊能家の資産額は今の貨幣価値で45億円と推定されています。

伊能家当主は代々名主に任じられましたが、忠敬も36歳の時、名主となり、39歳の時は村方後見となります。村方後見とは村役人全体をまとめるリーダーのことです。また天明の飢饉をはじめとした飢饉や凶作の時は、伊能家の米蔵を解放して、領民に与えました。

利根川が氾濫し堤防が壊されると、伊能忠敬は私財を投じて修復工事にあたりました。

また忠敬は利根川の治水工事に関わり利根川の測量地図を作っています。後の日本地図(伊能図)の原型となる仕事でした。

五十にして学問する

寛政6年(1794/95)12月、49歳の伊能忠敬は家督を息子の景敬に譲り、勘解由(かげゆ)と名乗ります。

「伊能家の商売のことはじゅうぶんにやった。ここらでお前に家督を譲る。これからは学問がしたいのだ」

「は、学問でございますか…」

「わしは若い頃、数学や暦学を多少はやった。しかし中途半端であった。それがずっと気がかりだったのだ」

翌年、妻ノブが死ぬと伊能忠敬は江戸に出ます。深川黒江町(東京都江東区門前仲町)に住まい、幕府天文方・高橋至時(たかはし よしとき)に弟子入しました。

高橋至時伊能忠敬より19歳年下。胸を病んでおり色白でした。もと大坂定番の与力でしたが、暦学・天文学の権威・麻田剛流(あさだ ごうりゅう)に学び、商人出身の間重富(はざま しげとみ)と並び秀才と評されていました。麻田剛流の推薦により江戸に登り、老中松平定信のもと、寛政暦という暦の制定にたずさわりました。

そんな高橋至時ですが、伊能忠敬は19歳も年上です。はじめは戸惑いました。

「失礼ですがあなたの年で学問を始めるなど、聞いたこともない。それに私はこの通りの若造です。あなたのような目上の方に教えるなど、とても」

「いや、学問に身分も年齢も関係ありません。私は学問においては赤子同然。どうか弟子にしてください」

高橋至時はついに根負けして、伊能忠敬を弟子入りさせました。

高橋至時はふつう、中国の暦法から教えるのを常としていましたが、伊能忠敬はすでにそれを会得していたので、西洋流の天文学から教えることにしました。

教えてみると伊能忠敬は誰よりも熱心でした。暦学・天文学の知識を身に着けていきました。あまりに熱心なので、師の高橋至時は「推歩先生」とあだ名をつけました。「推歩」とは計算のことです。

また忠敬はみずから天体観測のための器具を購入し、自宅に置いて毎日観測しました。

30年間の商いでじゅうぶんな蓄えがあり、金には少しも困りませんでした。そして忠敬は、勉強のための資金を惜しむつもりは全くありませんでした。

地球の大きさを知りたい

高橋至時のもとで暦学・天文学を学ぶにつれて、伊能忠敬はある考えを抱きはじめます。

「地球の正確な大きさを知りたい」

当時、地球が丸いという知識は知られていました。北極があり、南極があること、緯度と経度という概念も知られていました。

しかし地球が実際にどれくらいの大きさなのかは、わかっていませんでした。

伊能忠敬は考えました。

地球の大きさを知るには、子午線(北極点と南極点を結んだ円弧)の長さを知らねばならぬ。子午線の長さを知るには、緯度一度あたりの正確な距離を測り、それに180を懸ければよい。

そこで忠敬は、深川黒江町の自宅と、浅草の暦局(れききょく。幕府の天文方役所)がほぼ南北にあることに目をつけました。忠敬は深川黒江町の自宅と暦局の距離を何度も歩いて測定しました。

そして両地点での北極星の高さを測定しました。そうすれば、両地点の緯度の差がわかるので、その数字をもとに緯度一度あたりの正確な距離を出せるはずだ…そう考えたのです。

伊能忠敬はその結果を高橋至時に報告しますが、

「こんなに短い距離では誤差が生じてしまいます。少なくとも蝦夷地までの距離を測らなくては」

「蝦夷地…!」

途方もない話でした。いったん話はお開きになりました。しかし高橋至時はひそかに伊能忠敬の熱心に感じ入り、なんとか測量を実現させてやりたいと考えました。

当時、蝦夷地にはロシアが進出し、密かに貿易を行ったり、乱暴したりしていました。蝦夷地沿岸の守りを固めることが必要でした。そのためには、蝦夷地の正確な地図が必要でした。しかし当時、そんな地図はまだ作られていませんでした。

「いけるのではないか…」

緯度一度の距離を計るという話では、頭の固い幕府の役人たちは理解すらできない。だが地図を作るという名目ならば…

高橋至時はさかんに幕府に働きかけます。ロシアの脅威に備えるには、蝦夷地の正確な地図が必要です。そのための、心強い人材も用意しておりますと。ついに幕府は高橋至時の意見を容れ、蝦夷地までの幕府要路を通れるように許可を出しました。

寛政12年(1800)2月のことでした。

次回「蝦夷地・東日本測量」に続きます。お楽しみに。

発売中

聴いて・わかる。日本の歴史~崩れゆく江戸幕府
http://sirdaizine.com/CD/His09.html

八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、天保14年(1843)に水野忠邦が失脚するまで。江戸幕府後半約130年間の歴史の流れを32話に分けて解説した音声つきdvd-romです。詳しくはリンク先まで。

■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

解説:左大臣光永

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