第一次長州征伐

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禁門の変で御所に発砲した長州藩は朝敵となりました。孝明天皇は幕府に長州征伐の勅命を下し、徳川慶勝(よしかつ)を総督とする征長軍が組織されます。しかし西郷隆盛の交渉により、戦は避けられ、三家老切腹・四参謀の斬首という処分で片がついた、という出来事です。

長州藩の内紛

文久3年(1863)から翌元治元年(1864)にかけて、長州藩を取り巻く情勢は目まぐるしく動きました。八月十八日の政変禁門の変四国連合艦隊による下関砲撃

そんな中、長州藩首脳部でも対立が深まっていました。

俗論派と正義派 長州藩の内紛
俗論派と正義派 長州藩の内紛

椋梨藤太(むくなし とうた)以下の「俗論派」は萩にいる毛利家重臣たちが中心でした。彼らは幕府に対して「謝罪・恭順」を主張しました。前の禁門の変のことは謝罪し、幕府に逆らわず、それによって毛利家の存続をはかろうという考えでした。

対して、周布政之助(すふ まさのすけ)以下の「正義派」は奇兵隊をはじめとする諸隊の隊士が中心でした。彼ら「正義派」は「俗論派」のいう謝罪・恭順路線は長州が潰されるだけだから、外には恭順をよそおい、内には武装を固める。いざ攻め込まれたら徹底して戦うという「武装・恭順」を主張しました。

(ただし「俗論派」「正義派」という名称は勝った側(正義派)が後から名付けたもの)

俗論派の「謝罪・恭順」路線でいくのか?

正義派の「武装・恭順」路線でいくのか?

山口における長州藩首脳部会議は大いにもめます。

9月25日から26日にかけての会議では、正義派の井上聞多(いのうえ もんた)が藩主を説得し、藩論は「武装・恭順」路線に、つまり、外には恭順を装いながら、内には武装を固めるという方針に傾きかけました。

しかし、26日の夜8時ころ、井上聞多は俗論派の先鋒隊隊士に襲撃され、重傷を負います。全身50針以上を縫合する大手術を受けて、一命はとりとめましたが。同じ夜、周布政之助がすまいとしていた山口矢原(やばら)の吉富藤兵衛宅で自刃しました。

井上聞多の負傷、周布政之助の自刃により、10月に入ると正義派はすっかり勢いを失いました。

かわって「謝罪・恭順」路線の俗論派が長州藩の政権を握りました。これは幕府にとっては、「かんたんに講和に持ち込める」という有利な条件が整ったことを意味していました。

征長軍の結成

孝明天皇の勅命のもと、幕府は長州への大規模な反撃を開始しようとしていました。

総督には前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)。副将には越前藩主松平茂昭(まつだいら もちあき)が任じられました。

なにしろ禁門の変で長州は御所に発砲したのです。藩主の謹慎ていどですませるわけにはいきませんでした。

★ここが大事なとこなんで、よく聞いてください★

長州征伐は徳川幕府と長州藩の戦いのようにイメージされがちですが、ちがいます。天皇家と長州藩の戦いです。徳川幕府は天皇の勅命を受けて長州征伐を「代行」したに過ぎません。

しかし後年徳川幕府を倒し政権をにぎった長州にとって、過去に長州が御所に弓引いて朝敵となった事実は非常に不都合でした。

そこで、我々は朝廷と戦ったのではない、腐りきった幕府を倒すための、正義の戦いをしたのだと声高に宣伝しました。

朝敵であり反逆者である長州が政権を握り、現在までその政権が続いております。

集められた兵力は35藩から15万。すでに長州征伐軍(征長軍)は大坂に集結し、出撃に備えていました。

10月22日、征長軍は大坂城で軍議を開き、総攻撃の日を11月18日と定めました。

しかし実際のねらいは武力で長州を打ち破ることではなく、講和に持ちこむことにありました。

そこには征長軍参謀西郷吉之助の意向が働いていました。

西郷は考えました。

目下長州藩首脳部は二派に分かれて争っている。ここがねらい目である。今なら講和に持ちこみやすいと。

三家老切腹・四参謀斬首

元治元年(1864)11月3日、西郷隆盛は岩国に到り、翌4日、岩国藩主吉川経幹(きっかわ つねもと)と会見します。

「長州が禁裏に討ち入ったのは、家臣の暴走と理解しております。
寛大な処置にあずかれるよう、薩摩は協力を惜しまぬつもりです」

そこで西郷が示した幕府側の要求は、

・藩主父子の蟄居謹慎
・三家老の切腹
・四参謀の斬刑
・三条実美ら尊王攘夷派の公卿五人の長州からの追放
・山口城の破却

長州藩主はこの条件をすべて受け入れました。

11月11日から12日にかけて、三家老…福原越後、国司信濃、益田右衛門介は切腹させられ、四人の参謀…宍戸左馬之介・佐久間左兵衛・竹内正兵衛・中村九郎は萩の野山獄(処刑場)で斬られました。

彼らは藩主から命じられて京都に攻め込んだのですが、帰ってきたら君命で死ねといわれたわけです。トカゲのしっぽ切りとはこのことです。

奇兵隊をはじめとする正義派はこの処分に反対でした。しかし幕府との恭順路線を主張する俗論派が与党の座にあったので、どうすることもできませんでした。

三家老の首はすぐに広島に届けられます。

この時長州征伐軍総督、徳川慶勝はまだ広島についていませんでした。それで、尾張藩付家老成瀬正肥(なるせまさみつ)・目付戸川鉡(とがわはんざぶろう)らが広島城下の国泰寺(こくたいじ)にて首を受け取りました。

「たしかに…」

すぐさま広島から総督徳川慶勝に連絡が飛びます。連絡を受けて、徳川慶勝は、諸藩に総攻撃の延期を通達します。

ほどなく徳川慶勝は広島に入り、岩国藩主吉川経幹を呼び出し、残る講和条件をしめします。

・長州藩主父子の自筆謝罪文の提出
・山口城の破却
・三条実美ら尊王攘夷派の公卿五人の長州からの追放

事後処理

西郷隆盛は講和成立しだい、即時撤兵するがのぞましいと考えました。11月の寒い時期に大軍をとどめておくことは兵士たちに酷だし、幕府が衰退している今、反乱をこころみる者も出るかもしれぬからです。

即時撤兵のためには早急に講和条件が達成されたのを見届けねばなりません。

藩主父子の自筆謝罪文はとくに問題もなく提出させました。山口城の破却は、屋根瓦をはがす程度の形式的なことですませました。

公卿五人の受け入れ先だけがなかなか決まりませんでした。そこで西郷隆盛自ら筑前黒田家にかけあった結果、筑前で受け入れと決まりました。公卿五人は翌慶応元年(1865)2月、太宰府の延寿王院に移りました。

12月27日、総督徳川慶勝より、諸藩に撤兵令が出されます。

こうして戦は避けられました。しかし徳川(一橋)慶喜は不満でした。肥後藩の長岡良之助宛の手紙にウップンをぶちまけています。

「征長総督(徳川慶勝)の英気はいたって薄く、芋に酔っているのは酒よりもはなはだしい。芋の銘柄は大島(=吉之助=西郷)と申すそうだ」

芋焼酎の銘柄「大島」は薩摩の西郷隆盛のこと。徳川慶勝が西郷隆盛という芋焼酎に酔わされて、みすみす長州討伐の機会をのがしてしまったことを皮肉っています。皮肉にしてもインテリは言うことが小洒落てますね。

次回「高杉晋作の挙兵」に続きます。お楽しみに。

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解説:左大臣光永

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