八月十八日の政変

こんにちは。左大臣光永です。今朝、糺の森を散歩したらカラスが地面の一点を、ひたすらほじくってるので、何だと思ったら、セミの幼虫を掘り出してカリンコリン美味しそうに食べてました。なんで埋まってる場所がわかるのか。カラスはすごい!と思いました。

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さて本日のメルマガは「八月十八日の政変」です。

文久3年(1863年)「八月十八日の政変」は、公武合体派のクーデターによって尊王攘夷派の公卿と長州藩兵が京都から追放された事件です。

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この出来事により朝廷における長州(尊王攘夷派)の発言力は失墜しました。

幕末史のターニングポイントとも言える重要な事件です。

ところがこの「八月十八日の政変」、なぜ起こったのか?何と何が対立してこうなったのか?いまいちわかりづらいです。私も時々ごっちゃになります。なので、あらためて整理して、お話します。

現・境町御門
現・境町御門

天誅

幕末の文久2年(1862)あたりから、京都は治安が著しく悪化していきました。「天誅」と称して尊王攘夷派の志士が人を斬ったり脅迫する事件が多発していました。

ターゲットとなったのは幕府要人や、開国論者、外国と取引をしていた商人などです。

尊王攘夷派 対 公武合体派

また、朝廷でも尊王攘夷派の公卿が力を持ちました。彼らは急進的な討幕論者であり、討幕のためなら天誅もやむなしという考えでした。

文久3年(1863)の朝廷は、彼ら尊王攘夷派と、公武合体派が対立していました。

ここで尊王攘夷派と、公武合体派それぞれについて簡単にまとめておきます。

尊王攘夷派は、長州藩が中心です。正確には「急進的」尊王攘夷といった輩です。本来、尊王攘夷とは「尊王」=天皇を敬う、「攘夷」=外国人を打ち払うという意味で、それ自体は討幕でも佐幕でもありません。

しかし長州を中心とした「急進的」尊王攘夷派は、幕府が外国に対して弱腰なので、そんな幕府はもういらない。倒してしまえという所まで考えが進んでいました。

一方の公武合体派は、会津藩・薩摩藩が中心でした。公武合体とは簡単に言うと朝廷と幕府が共存し、手を結ぶということです。その一環として文久2年(1862)2月、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)が14代将軍徳川家茂に嫁ぎました。ただしこれは単純に仲良くやりましょうなんて話ではありません。幕府・朝廷それぞれに複雑な事情と思惑がありました。

幕府は傾きかけた幕府を、朝廷の権威を借りて立て直すため。朝廷は幕府の軍事力を使って攘夷を行う(外国人を打ち払う)ため。つまり朝廷と幕府が互いに相手を利用しようとして手を結んだ結果が「公武合体」でした。

しかし幕府を倒せという尊王攘夷派から見ると、公武合体派は幕府にくみする憎き敵と見えるわけです。

図にまとめると、このようになります。実際には幕府内部も尊王攘夷派・公武合体派内部も一枚岩では無いのですが、わかりやすさのため思いっきり単純化しています。

尊王攘夷派と公武合体派
尊王攘夷派と公武合体派

攘夷親征

文久3年(1863)7月、長州藩重臣および尊王攘夷派公卿は朝廷に働きかけ、天皇自らによる「攘夷親征」を行うことを認めさせます。

これは孝明天皇が大和に行幸し、神武天皇陵および春日大社に参詣し、攘夷の成功を祈願するというものです。全国の尊王攘夷派を決起させる意味がありました。

神武天皇陵
神武天皇陵

しかし孝明天皇はこの「攘夷親征」に乗り気ではありませんでした。

孝明天皇は大の攘夷論者ではありましたが、あくまでも幕府と諸藩主導で攘夷を行うというお考えでした。

また妹の和宮は将軍徳川家茂に嫁いでおり、いわば幕府から人質に取られている形です。その意味でも孝明天皇は幕府と対立するような動きはひかえたいのです。

さて、今回の大和行幸に際し、尊王攘夷派=長州藩には狙いがありました。孝明天皇が大和へ行幸するに際、そのままお輿をうばって長州までお迎えしようというものです。

天皇という玉(ギョク)さえ奪ってしまえば、長州は官軍として、堂々と幕府を倒し、攘夷を行えます。

しかし、長州の計画を見抜いていた人物がありました。

中川宮の奏上

「畏れながら、主上に奏上したき義がございます」

現在の京都御所・清涼殿
現在の京都御所・清涼殿

文久3年(1683年)8月17日。中川宮尊融(なかがわのみやたかあきら)親王は御所に参内し、孝明天皇への直接面会を求めました。

中川宮は剃髪して興福寺一乗院に入られ法親王となられた方ですが、日米修好通商条約の勅許に反対したたことと、将軍・徳川家定の後継者として一橋慶喜を支持したことから大老井伊直弼に目をつけられ、安政の大獄で「永蟄居」、つまりずーーっとひきこもっておれと命じられていました。

しかし井伊直弼が桜田門外の変で斬られた後は許され、政界に復帰していました。その、中川宮が、孝明天皇に直接、奏上します。

「こたびの大和行幸は、中止なさってください。なんとなれば、長州の奸賊どもが、行幸に際しお輿を奪い奉って、乱を起こそうと企んでおります」

「なんと…!!そのような企みであったのか。道理で…話が急すぎると思ったわ」

長州の追放

翌8月18日未明。

中川宮をはじめとする公武合体派の公卿が参内し、九つの門が閉じられ、長州系の公卿がいない中、朝議が行われます。未明から呼び出されて眠そうな目をしていた公卿たちは、話をきいて驚きます。

「では長州を、完全に追い出すのですか!」

「そこまでやっては、長州を刺激しすぎるのでありませんか?」

「なんの、やるなら徹底してやるべきです」

結局、長州を追い出す方向で話がまとまりました。

それまで長州に任じてきた御所の南側、堺町御門(さかいまちごもん)の警護の任を解き、長州系の公卿の参内を禁止し、長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)にただちに京都退去を命じることになりました。

現・境町御門
現・境町御門

そして孝明天皇からほうぼうに宣旨を下します。

「今回の大和行幸は、逆臣にそそのかされたもので、朕の真意ではなかった」

朝、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿たちが参内すると、すでに御所の周りは薩摩・会津の兵士たちがびっしりと固めていました。

「どうなっているのじゃ。いったい何がどうなっている!」

「けして通すなと申し受けております」

「なんじゃとおー」

一方、長州の兵士たちは連絡を受けて堺町御門に押し寄せますが、しかし、自分たちの持ち場であるはずの堺町御門は、すでに薩摩・会津の兵士たちが固めていました。

現・境町御門付近
現・境町御門付近

「なんじゃこりゃあ。いったい、なんのまねじゃあ。どけーーッ」

「どかぬ!!」

双方、大砲を構え、小銃を構え、にらみ合いとなります。

新選組の前身たる壬生浪士組も、局長芹沢鴨以下、知らせを受けて駆け付けました。

御所を守る薩摩・会津。

今にも御所に発砲しそうな長州。

敵味方固唾をのんで一触即発の空気の中、にらみ合うことまる半日。

七卿落ち

しかし結局、衝突には至りませんでした。

午後五時頃、わらわらと長州藩兵の引き上げがはじまります。2400名余りが四陣に分かれて撤収していきます。ついに、戦には至らなかったのでした。ほっと胸をなでおろす警護の武士たち。そして長州藩兵は東山の妙本院に移動し軍議を開きます。

「本国に戻りましょう。今は是非もございません」

翌19日の朝、一行は出発します。その場に七人の尊王攘夷派の公卿の姿がありました。三条実美(さんじょうさねとみ)、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、四条隆謌(しじょうたかうた)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、錦小路頼徳(にしきこうじよりとみ)、澤宣嘉(さわのぶよし)の七名です。小雨降りしきる中、七人の尊王攘夷派公卿たちは長州兵に警護されながら、まず大和の十津川に入り、はるか西の方長州を目指します。いわゆる七卿落ちです。

この時、長州藩士久坂 玄瑞(くさか げんずい)は甲冑に身を固め、公卿たちの護衛にあたっていましたが、都落ちの様子を今様の名文に残しています。

世はかりこもと乱れつゝ、茜さす日のいと暗く、瀬見の小川に霧立ちて、へだての雲とはなりにけり。


朝な夕なに聞馴れし、妙法院の鐘の音も、なんと今宵は哀れなる、いつしか暗き雲霧を、払ひ尽くして百敷の都の月をしめで給ふらむ

文久3年(1863)八月十八日の政変。この出来事により長州を中心とした尊王攘夷派は京都から一掃され、その発言力は失墜しました。

以後、長州人はひそかに京都に潜伏し、巻き返しを図るようになります。

次回「池田屋事件」に続きます。お楽しみに。

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というわけで発売中です。

新選組 結成篇・激闘編
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上巻「結成篇」は近藤勇・土方歳三・沖田総司らの少年時代から始まり、試衛館道場時代、そして浪士組募集に応じての上洛した壬生浪士組がやがて新選組となる中で、八月十八日の政変。初代局長芹沢鴨の暗殺といった事件を経て池田屋事件に至るまでを語ります。

下巻「激闘篇」は禁門の変から第一次・第二次長州征伐、薩長連合、そして大政奉還と時代が大きく動く中、新選組内部では山南敬助の処刑、伊東甲子太郎一派との対立。近藤勇は時勢にあらがおうとするも叶わず、鳥羽伏見の戦いで惨敗した新選組は江戸へ下り、甲州勝沼、下総流山と転戦するも、ついに近藤勇が捕えられ、板橋で処刑されるまでを語ります。

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解説:左大臣光永