高杉晋作の挙兵
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元治元年(1864)12月、高杉晋作が長府城下の功山寺で決起し、保守派(俗論派)を倒すまで、お話します。
俗論派からの政権奪取
元治元年(1864)11月の長州征伐は、武力衝突には到りませんでした。長州藩は、三家老の切腹・四参謀の斬首・山口城の破却といった条件を受け入れ講和に応じました。
戦は避けられました。これは幕府への恭順路線の「俗論派」が、「正義派」をおさえて政権を握ったこと、征長軍参謀西郷隆盛がその機をみて、講和に持ち込んだことが大きかったと言えます。
俗論派と正義派 長州藩の内紛
幕府軍による長州征伐以前から、長州は俗論派一色となり、正義派は退けられていました。10月21日、奇兵隊はじめ諸隊への援助が禁止されます。これは事実上の諸隊解散命令でした。
10月24日、正義派の要人が次々と萩の野山獄(のやまごく、処刑場)に捕らえられます。
「まずい。ここはいったん退こう」
高杉晋作は萩を脱出し山口へ。ついで下関から博多にわたり、筑前藩士月形洗蔵(つきがた せんぞう)宅に、ついで福岡郊外、平尾山荘の野村望東尼(のむら もとに・ぼうとうに)のもとに身をよせました。
野村望東尼は筑前藩士野村貞貫(さだぬき)の未亡人で、和歌をたしなみ、尊王攘夷派の志士をかくまったりしていました。
晋作は野村望東尼のもとで10日ほど潜伏していましたが、その間、三家老と四参謀が処刑されたことを知りました。
「こうなったら一戦するのみ」
晋作は俗論派と戦う覚悟を決め、下関に向かいます。
出発に際し、晋作は奇兵隊の同志大庭伝七(おおばでんしち)に手紙を書いています。
「自分が死んだら墓前に芸妓を集めて、三味線でも鳴らしてほしい。墓の表には
故奇兵隊開闢総督(こきへいたいかいびゃくそうとく)高杉晋作即
西海一(さいかいいちの)狂生(きょうせい)東行墓(とうこうのはか)
遊撃将軍谷梅之助也
と書き、裏には
毛利家恩顧臣(もうりけ おんこのしん)高杉某(たかすぎなにがしの)嫡子也
と書いてほしい」
高杉晋作の伊達男っぷりが出てるじゃないですか。
諸隊の協力を得られず
元治元年(1864)11月25日、高杉晋作は下関に入ります。その頃、長府城下には奇兵隊・御楯(みたて)隊・八幡隊といった諸隊数百人集まっていました。彼らは藩から解散を命じられていましたが、三条実美(さんじょう さねとみ)以下の公卿五人を長府城下の功山寺(こうざんじ)にかくまい、待機していました。
12月12日夜、高杉晋作はほろ酔い気味でしたが、功山寺東となりの修繕寺(現存せず)に駐屯する御楯隊を訪ねます。
「武力決起しかない!君等はなにをぐずぐずしているのだ!」
「ばかな。今は動く時ではない」
「我々は五人の公卿を擁している。軽率な決起はつつしむべきだ」
「今、赤根さんが交渉してくれている。結果が出るまで待て」
奇兵隊総督赤根武人(あかね たけと)はこの時、萩におもむき、俗論派と交渉中でした。われわれはけして騒ぎは起こさない。そのかわり、逮捕されている正義派要人の処刑をとりやめてくれ。そして解散命令を取り下げてくれと。
晋作はひときわ声を荒げます。
「君等は赤根武人に騙されているのか。そもそも武人は大島郡の一土民に過ぎぬ。どうして国家の大事、藩主父子の危急を知ろうか。君等は予を誰と思うのか。予は毛利家三百年来の家臣なり。どうして武人がごとき一土民と比べえよう。予はこの挙を止めることはできない」
(『長州諸隊略歴』より意訳)
本当に晋作がこう言ったかはわかりませんが、言ったとしたら、身分に関係ない奇兵隊を作ったわりには晋作の思考はまだ身分制にとらわれているように見えます。
結局、遊撃隊総督石川小五郎・同軍監高橋熊太郎の二人がわずかに同調しただけでした。
「よくわかった。君等がやらぬなら、俺は一人でもやるぞ」
晋作はいったん下関に立ち返ります。
功山寺決起
12月14日、高杉晋作はふたたび長府に来ると、力士隊を率いる伊藤俊輔を下関から招き、遊撃隊の石川小五郎・高橋熊太郎を味方に引き入れました。遊撃隊・力士隊あわせて約50人説、80人説、100人説などあります。
「もはや我々だけでやるしかない」
12月15日深夜、高杉晋作らは甲冑に身を固め、雪の降りしきる参道を進み、功山寺を訪ね、三条実美公はじめ五人の公卿に暇乞いをしました。
「もはや口舌(くぜつ)の間にて成敗の論、無用なれば、これよりは長州男児の腕前、御目に懸け申すべし」
(もはや話し合いはできませんので、これよりは長州男児の腕前をお目にかけましょう)『回天実記』十二月十五日条
「進め」
満月に白く輝く雪の道を、晋作らは一路、西へ。目指すは下関新地開所。
※おそらく晋作と幹部クラス数名が馬にのり、あとは徒歩で続いたと思われます。
16日の明け方、下関着。新地開所を包囲。
ターーーン
空砲を発射。
奉行と交渉の末、若干の資金と食糧を差し出させました。また俗論党の役人、寺内弥次郎右衛門・井上源右衛門を萩に追放させ、晋作らは北隣の了圓寺に立てこもりました。ここまでで刃傷沙汰はおこりませんでした。
「食い物だ!」「たまんねえ!」
もともと長州藩から諸隊解散命令が出ていたので、彼らは食糧を絶たれており、腹ぺこでした。寺に上るとお供え物の米やお神酒を餓鬼のようにむさぼり飲み食いました。
軍艦を得る
同日12月16日、高杉晋作は決死隊18名を率いて三田尻の海軍局に向かい、交渉の末、軍艦「癸亥丸(きがいまる)」を手に入れました。
海軍局にも俗論党政府に反発を持つものが多く、晋作の決起に好意的であったので、ここでも武力衝突は起こりませんでした。そのまま下関まで回航しました。
「高杉が決起した!」
「本当にやるとは!」
長府にいた奇兵隊以下諸隊は動揺しました。彼らはひとまず情勢を見守ろうということで、御楯隊のみを五人の公卿警護のため長府に残留させ、奇兵隊以下の主力は長府から六里の山中にある伊佐(いさ)に移りました。
絵堂の戦い
「下関で高杉晋作ら挙兵」
知らせはすぐに萩の俗論党政府に届きました。
12月19日、萩の俗論党は野山獄に拘束していた正義派の要人七人を斬ります。彼らは奇兵隊総督・赤根武人が交渉して、事を起こさないかわりに処刑を延期されていたものです。そっちが約束を破ったのだから、斬るのは当然だという話になりました。
12月24日、毛利宣次郎が鎮撫総奉行に任じられ、翌25日、軍勢を率いて萩を出発しました。
「政府軍が追討に乗り出したぞ!」
「もう戦うしかない!」
ここに到り、高杉晋作に協力しなかった諸隊も、政府軍に対する反感を強めました。
12月27日、幕府征長軍は長州藩の恭順を認め、総督徳川慶勝より、諸藩に撤兵令が出されました。徳川慶勝や西郷隆盛は、長州藩の内紛にかかわるのは益なしと見て、サッと退いたのです。
正月元日、長州政府の使者が伊佐を訪れ、奇兵隊以下の諸隊に通達します。
「各隊は武装解除の上、山間部へ退去せよ」
「なんじゃそれは!!」
しかも、赤根武人による交渉は反故にされ、野山獄に投獄されていた同志七人は12月19日に斬られていました。
ここに到り、高杉晋作の武装蜂起に反対していた隊員たちも、ことごとく高杉支持に回りました。
正月6日夜半、山縣狂介(やまがた きょうすけ、山県有朋)ひきいる奇兵隊、はじめ諸隊が、山口近郊の絵堂(えどう)まで進んできた政府軍に夜襲をしかけました。
「死んどきゃあ!!」
「国賊が!!」
以後16日まで10日間、政府軍と諸隊の間に武力衝突が繰り返されました。14日には高杉晋作・伊藤俊輔・遊撃隊の石川小五郎らも合流しました。
正月16日までには政府軍は完全に撤退しました。
勝ちに乗じた正義派の諸隊は、2月14日から15日にかけて萩に進撃します。
俗論派の椋梨藤太はじめ12人は吉川領岩国に亡命するため萩を出ましたが、捕らえられ、野山獄で斬られました。
俗論派と正義派 長州藩の内紛
「毛利元就公、および歴代藩主の方々に深くお詫びいたします。国内に大乱を起こしたことを」
2月22日から24にかけて、藩主父子は臨時祭を開催し、初代毛利元就公はじめ代々の藩主の霊にわびました。
この行事により、一連の長州内乱に終止符がうたれました。
次回「長州「四境戦争」前夜」に続きます。お楽しみに。
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京都にゆかりの歴史上の人物を一人ずつとりあげて語っていきます。
第一回は「菅原道真」です。