辛亥革命(ニ)孫文の帰還

こんにちは。左大臣光永です。

庭に毎日すずめが来ます。だいぶ慣れてきて、私が大声で百人一首の歌を唱えても、逃げなくなりました。

毎日聞かせているので、かしこいすずめになるかも思うと、楽しいです。

すずめが歌をおぼえて、パタパタパターと飛んでいって、パシッとくちばしでかるたを取ったらかわいいだろうと妄想します。

前回と今回、ニ回にわたって、辛亥革命について語っています。

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前回「辛亥革命(一)革命勃発」
https://history.kaisetsuvoice.com/Shingai1.html

辛亥革命。

1911年-12にかけて清国で起こった共和革命。鉄道国有化問題に端を発し、中国各地で暴動が勃発。革命軍は武昌と漢陽(現武漢の一部)を武力制圧し、黎元洪(れい げんこう)を総督とする中華民国軍政府が成立。

その後、臨時大総統として孫文が選出され、すぐに辞任して清朝軍人の袁世凱が選出された。

1912年2月12日、宣統帝溥儀(6歳)の退位宣言勅書が発せられ、清朝は終焉。アジア初の共和制国家である「中華民国」が誕生した。

本日は第ニ回「孫文の帰還」です。

孫文、革命の勃発を知る

1911年10月10日、

中国武昌で革命が起こった時、孫文は地球の裏側、アメリカにいました。アメリカ各地で遊説活動をおこなっているさなかでした。

同日、孫文は列車でコロラド州デンバーに到着。

ホテルで暗号解読機を受け取ると、同士からの電報を読んで、孫文はようやく武昌で武装決起が起こったことを知ります。

翌11日午前11時、ホテルのフロントで新聞をみると、「武昌を革命軍が占領」という記事がありました。

孫文があれほど願ってやまなかった革命は、孫文のまったく預かり知らないうちに、行われたのでした!

こうしてはおれぬと、

孫文は行動を開始します。

行動とは、

イギリス、フランスはじめ列強に革命への支援を約束させることです。

すぐに孫文はデンバーを発ち、大陸横断鉄道で東へ。途中、セントルイスで新聞をみると、

「武昌で起こった革命は孫文の命令で決起したのだろう。おそらく孫文が大総統になるだろう」

とありました。

「ふっ、私を買いかぶりすぎだ」

なんて苦笑したかもしれませんね。

10月18日ワシントン着。

翌19日ニューヨーク着。

11月2日、ニューヨークから船に乗りヨーロッパへ。

11月11日、ロンドン着。

外務大臣に接触し、革命を支援してほしい。それなりの権益は譲渡すると匂わせますが、ダメで、イギリスは中立を宣言しました。

11月21日、パリ着。やはり外務大臣に権益の譲渡をエサに革命の支援を求めますが、ダメで、フランスも中立を宣言しました。

こうして孫文のヨーロッパ行きは徒労に終わりました。11月24日、孫文はパリを発ちます。

ちなみに、権益の譲渡をエサに外国に革命の支援を求めるのは、今後も何度も繰り返す、孫文の常套手段です。平たくいうと、

「革命が成功すれば中国の領土を貴国に割譲します。中国の権益も貴国の思いのままです。だから今、革命のために資金援助してください」

という話です。

革命のためなら祖国の土地さえ切り渡す、なりふり構わないところが出てます。

袁世凱の暗躍

この間、中国情勢は混迷をきわめました。

辛亥革命の勃発に驚いた清国政府は将軍袁世凱に革命の鎮圧を命じました。

袁世凱は李鴻章の後継者とみられ、北洋軍を編成し、教育や産業の改革にもあたった人物ですが、政争にやぶれ、失脚していました。それが今回、革命鎮圧ということで駆り出されました。

11月1日、袁世凱率いる北洋軍が革命軍に勝利すると、同日、清国朝廷は満州人が過半数をしめる内閣を解散し、袁世凱をあらたな首相に任じました。

「お前らは満州人の内閣がイヤで革命を起こしたんだろう。ほら、満州人内閣は解散してやったぞ。だから革命なんてやめろ」

というわけです。しかし、袁世凱は、紫禁城の宦官たちよりも一枚上手でした。

袁世凱は革命軍とひそかに交渉し、革命を容認するかわりに自分を革命政府の総統に推すという密約を取り付けます。

12月3日から革命軍代表・伍廷芳(ご ていほう)と清朝代表・唐紹儀(とう しょうぎ)の間で和平交渉が始まりました。

袁世凱は革命軍と清朝政府の間にあって仲介役としての存在感をましていきます。

この間、

革命は中国各地に波及し、広東、四川など十四省が清からの独立を宣言。

清朝に残されたのは首都北京を囲む直隷省と、山東省、河南省、甘粛省の四省だけになりました。

もはや清朝は風前の灯火でした。清朝関係者の安全が保証されるなら、さっさと共和制になったほうがマシという声も出てきました。

袁世凱が革命政権と裏取引をしていることを清朝側も知りながら、だったらもう袁世凱にトップに立ってもらって、さっさと革命を終わらせたいという声が強くなってきました。

一方、革命軍内部でも、

皇帝(愛新覚羅溥儀)を退位させることを条件に袁世凱に臨時大総統に就任してもらおうという声が強くなっていきます。

このように、清朝側も袁世凱を望む。革命軍も袁世凱を望む。このまま行けば袁世凱の臨時大総統就任は確実といった空気の中、孫文がもどってきます。

孫文の帰国

孫文はロンドン滞在中の1911年11月16日、袁世凱の擁立を同志からの電報で知り、これに同意した旨、打電します。

11月24日、パリを出発した孫文はスエズ運河を超え、インド洋を渡り、シンガポールを経由して、12月21日、香港に到着。

広州から駆けつけた広東都督・胡漢民(こ かんみん)はじめ門弟や友人たちが孫文を迎えました。その中には、日本で交流のあった同志・宮崎滔天もいました。

11月25日、上海着。孫文は民衆から熱烈な歓迎を受け、翌26日、中国同盟会幹部と協議、自分を臨時大総統に選出することを認めさせます。

12月29日、17省の代表が臨時大総統の選挙を行い、孫文を選出。

孫文はただちに17省の各都督に打電し、革命の功績をたたえ、袁世凱に対しては私孫文が選ばれたのはあくまでも暫定的な処置である、革命に賛同するならば臨時大総統の地位を譲ると伝えました。

1912年1月1日、孫文は専用列車に乗って上海を出発。沿線の各都市で民衆の熱烈な歓迎を受けながら、午後5時、古都南京に到着。

午後11時、中華民国臨時大総統の就任式典にのぞみました。

旧暦の11月13日=新暦1月1日を選んだのは、中国には天子があらたまると暦もあらたまるという思想があるため、新時代の訪れを演出したものです。

こうして1912年1月1日(新暦)、南京を首都とする中華民国が成立し、孫文が臨時大総統に就任しました。

思えば29歳で上海を出てから16年間の亡命生活の末に辿り着いた地位でした。孫文は45歳になっていました。

古くは漢の王莽、唐の安禄山、近くは太平天国の乱をおこした洪秀全など、歴代の王権に背いた者はいくらもありました。

しかし、孫文はそれら反逆者とまったく違いました。武力でゴリ押しするのでなく民衆に大歓迎されて、アジア初の民主国家を樹立し、歴史の歯車を大きく回転させました。

そしてこの時が、孫文の生涯の絶頂期でした。

孫文の辞任

1912年2月3日、清朝朝廷は袁世凱に臨時政府との交渉を一任し、2月5日、清朝朝廷と臨時政府の間で和平条件の合意がなりました。

皇帝・貴族の既得権益を保護することを条件に、袁世凱が皇帝に退位宣言をさせる。孫文は臨時大総統を辞任し、かわって臨時政府の参議院によって袁世凱が大総統に選出される、という内容でした。

1912年2月12日、宣統帝溥儀(6歳)の退位宣言勅書が発せられました。

・現体制(君主制)をやめ、立憲共和国制をしくこと
・袁世凱が大総統に就任すること
・満、漢、蒙(モンゴル)、回(チベット)、蔵(ウイグル)の五族をあわせて大中華民国とすること
・宣統帝溥儀は年金を得て紫禁城に住まうこと

などが宣言され、ここに300年にわたった清朝の歴史は幕をおろしました。

翌13日、孫文は臨時参議院で辞意を表明し、後任に袁世凱を推薦します。ただし3つの条件をつけます。

一、臨時政府は南京に置く
ニ、新総統は南京で就任する
三、新総統は臨時参議院のさだめる臨時約法(暫定憲法)を遵守する

というもので、袁世凱を北京の旧清朝勢力と切り離し、北京とまったく別の政権を南京に築かせようとする意図が見て取れます。

その奥底には、孫文の袁世凱に対して抱いていた不信があつたでしょう。袁世凱が旧清朝勢力をバックに、革命を私物化するのではないかと。

袁世凱は孫文の要求に従いませんでした。

「北方の秩序維持」を理由に南京にうつることを拒みました。2月29日、北洋軍が実際に北京で反乱を起こし、翌日には天津まで波及します。これは「北方の秩序維持」を必要とする、袁世凱の指示による自作自演でした。

結局、袁世凱は南京には移らず、3月10日、北京で臨時大総統に就任します。

袁世凱政権

袁世凱の中華民国政府ははじめ順調な滑り出しでした。

国会の開設に向けて選挙法を制定しました。まだ制限選挙でしたが、選挙権の条件は大幅に緩和されました。

しかし袁世凱はしだいに反動化していきます。

自分の地位が選挙によっておびやかされることを恐れ、国務総理(首相)の最有力候補と見られていた宋教仁を上海駅で暗殺しました。

そして議会や革命勢力を無視し、独裁政治を行います。中華民国は混乱します。

第二革命の挫折

1913年7月12日、袁世凱の独裁に反発して李烈鈞(りれつきん)らが江西省湖口で挙兵。その後、江蘇省、安徽省、広東省、福建省、湖南省、四川省など各地でも反袁世凱勢力が挙兵。旧清朝官僚の岑春煊(しんしゅんけん)を大将としました。

袁世凱は反乱平定という大義名分を得て鎮圧に乗り出しました。

孫文は袁世凱に当てた通電で「国民があなたに反発しているのだから身を引きなさい」と勧めますが、もちろん袁世凱は聞く耳もたず、

強大な北洋軍の武力をもって、反対勢力を各地で鎮圧しました。いわゆる「第二革命」はこうして失敗に終わりました。

共和政体の崩壊

第二革命鎮圧後、10月6日、袁世凱が国会で正式に大総統に選出されました。

11月4日、袁世凱は国民党を解散させ、翌1914年1月10日、国会の解散を宣言。

同年5月1日、それまでの臨時約法にかわって大総統の権限を強化した「中華民国法」が制定されました。

ここに、辛亥革命によって成立したアジア初の共和政体は1年半ていどで、はやくも瓦解しました。

1916年、袁世凱が死ぬと、中華民国は各地で軍閥が割拠する、戦国時代のような状態になります。

次回「明治から大正へ」に続きます。

解説:左大臣光永