明治から大正へ(明治天皇崩御・大正政変・シーメンス事件)
昨年の正月にコロナ騒ぎがはじまってから、夢をみることが多くなりました。大学時代の友人と会う夢や、旅行する夢をとくによく見ます。実生活で人と会うことが減り旅行もできないので、夢をみることで補おうとしているのでしょう。あなたはどうでしょうか?
本日は「明治から大正へ」ということで語ります。
日露戦争後、日本は慢性的な不況に見舞われました。増税と公債の発行で戦争を乗り切ったものの、後々まで国民生活に響きました。
加えて、韓国併合後、朝鮮に資本を投入したことによりいよいよ不況は増しました。
各地でストライキやデモ、社会主義運動が多発しました。
こうした混乱は第一次世界大戦による好景気まで続きました。
明治天皇崩御
1912年(明治45)7月29日、明治天皇が崩御しました。7月30日の各新聞には「天皇崩御」の字がならび、紙面は天皇についての記事で埋まりました。大喪の間、学校は休みとなり、人々は喪に服し、祝い事は自粛となりました。
9月13日大喪当日、元陸軍大将・乃木希典夫妻は自宅で殉死しました。新聞は乃木夫妻の殉死を仰々しく報じました。殉死に対する世間の見方は賛否両論さまざまでしたが。明治天皇崩御と、乃木夫妻の殉死により、ひとつの時代が終わったという感があったことは確かでしょう。
夏目漱石は小説『こころ』で、「明治の精神が天皇に始まり天皇に終わった」と、作中人物に語らせています。
「陸軍のストライキ」
日露戦争前から、政権は桂太郎内閣と西園寺公望内閣が交互に担当する取り決めとなっていました。これを桂園(けいえん)時代といいます。
1911年(明治44)成立の第二次西園寺内閣の時、二個師団増設問題というのが起こりました。
上原勇作陸相はじめ薩摩閥が、朝鮮にニ個師団の増設を閣議で訴えたのです。これは中国侵略のためと、年々強まる長州閥の海軍勢力への対抗意識からでした。
しかし西園寺首相は財政上の理由で師団の増設を否決しました。すると、上原勇作陸相は、これは国防を無視するものであり、自分はとうてい陸相にとどまることはできないと、大正天皇に辞表を提出し、やめてしまいました。
当時、陸海軍大臣は現役の武官に限られていました。後任がいなければ内閣総辞職しかありません。
やむをえず、1912年(大正元)12月5日、第二次西園寺内閣は総辞職しました。この事件はつまり、陸軍が内閣に対してクーデターを起こして、勝った、ということです。
軍部が政治の世界でも力をのばしてきたことを、象徴するような事件でした。
世はこれを「陸軍のストライキ」と呼びました。
第一次護憲運動
総辞職した第二次西園寺内閣にかわって組閣されたのは…、
第三次桂太郎内閣
またしても長州閥の内閣でした。長州出身の桂太郎は、第12代、13代に続いて15代目の首相に就任しました。
「また長州閥か!」
「長州のやりたい放題じゃねえか!」
長州閥の軍拡路線・日露戦争後の長引く不況も市民の怒りのタネでした。各地で反対運動や講演会が開かれます。その最大のものとして、
1912年(大正元)12月19日、東京歌舞伎座にて、第一回憲政擁護大会が開かれました。3000人もの人が集まり「剣気堂に満てり」という状況でした。
往年の自由党総理であった板垣退助、政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅…党派をこえて大物政治家が集まりました。
「諸君!今や政治は薩摩・長州の閥族にのっとられ、憲法による政治は危機にひんしている。日露戦争で国民はあれほどひどい目にあったのに、まだ戦争をするというのだ!一部の金持ちだけが儲かり、庶民が苦しむというのもけしからん。我々は桂内閣を弾劾する。閥族政治を根絶し、憲政を擁護すべし」
「閥族打破憲政擁護」
以後、憲政擁護運動は勢いをまします。政党だけでなく、新聞もさかんに桂内閣を批判し、閥族打破、憲政擁護を訴えました。運動は東京のみならず、大阪、名古屋をはじめ、全国へ飛び火しました。
これを「第一次護憲運動」といいます。
(桂内閣の軍拡路線・閥族政治に反発して憲法の政党政治を護ろうという運動)
1913年(大正2)2月5日の議会で、桂太郎首相の施政方針演説が行われたあと、政友会の尾崎行雄により桂太郎内閣弾劾の緊急動議が提出されました。
尾崎は桂太郎のことを「常に玉座の蔭に隠れて、政敵を狙撃するが如き挙動を執って居る」と、厳しく非難しました。
桂は仕方なく、2月9日まで議会を停止しました。
大正政変
1913年(大正2)2月9日、両国国技館で第三回憲政擁護大会が開かれ、1万人が集まりました。
翌2月10日、
桂首相邸には、朝から薩摩の山本権兵衛が馬車を乗り付け、桂に面と向かって言いました。
「山県とあんたは新帝を擁して権力をもてあそび、こういう騒ぎを起こした。辞任すべきだ」
すると桂は、
「私はべつに、首相の位にこだわっているわけではない」
と、そんなやり取りがありました。
憲政擁護派は上野公園や神田の錦輝館(きんきかん)で集会を開き、日比谷の議会前に押し寄せました。
胸に白いバラをさした憲政擁護派の議員が登院してくるとバンザイで迎えられ、桂派の議員が登院すると人力車から引きずりおろされました。
「やめい、やめい」
騎馬警察隊が突進すると、人々は石を投げて抵抗しました。桂太郎がなお議会の3日間の延期を図ったことが伝わり、騒ぎはいよいよ大きくなります。
群衆は、新聞社にも押し寄せました。
「官僚に都合いい記事ばかり書きやがって!」
「御用新聞社め!」
まず都新聞社が、夕方には京橋の国民新聞社が、ついでやまと新聞社、報知新聞社、読売新聞社、ニ六新報社など政府系の新聞社が次々と襲撃されました。
社屋に押し寄せ乱入し、椅子も机もたたき壊し、ガラスを割り、火をつけました。
「桂内閣を倒せ!」
「長州ばかりいい思いしやがって!」
「閥族打破!憲政擁護!」
交番86、電車26台が焼き討ちされ、53人の死傷者が出ました。
騒動は東京だけにとどまりませんでした。大阪で、神戸で、広島で、京都で暴動が起こりました。
こうして1913年(大正2)2月11日、第三次桂内閣は総辞職しました。わずか53日間の短命政権に終わりました。
民衆運動に押されて内閣が総辞職したのは明治憲法下ではこれが唯一の例です。
これら憲政擁護運動から第三次桂内閣の総辞職に至る出来事を「大正政変」といいます。
その日の元老会議で、次の首相にまず西園寺公望が推されましたが、西園寺は辞退して、薩摩の海軍大将・山本権兵衛が首相に就任することになりました。
とはいえ、桂から山本にかわったのは長州閥を薩摩閥に置き換えただけではないか。同じではないかという批判が起こり、組閣には時間がかかりました。
10日間にわたって反対派を説得し、1913年(大正2)2月20日、ようやく山本内閣が発足しました。政友会も山本内閣を支持にまわりました。
シーメンス事件
山本権兵衛は薩摩閥ながら、憲政擁護運動の高まりをみて、藩閥の力を弱める政策をとりました。
なので桂内閣ほど世間の反発はありませんでした。しかし1914年初頭に山本内閣を破局に追い込む、シーメンス事件が起こります。
発端は、1914年1月23日の新聞記事でした。
この日、ロイター通信の電報として、ベルリン地方裁判所でシーメンス・シュッケルト電気会社の東京支店社員カール・リヒテルが恐喝罪で告発された件を報じました。
リヒテルは、東京支社から日本海軍に贈賄した証拠をつかみ、それをネタに会社を恐喝した件で告訴されたのでした。リヒテルは法廷でも贈賄についてしゃべりました。
こうして思わぬ形で海軍の汚職事件があかるみに出ました。
その日の予算委員会で、この件を追求されると、山本首相はしどろもどろになります。
28日には海軍に査問委員会がもうけられ、沢崎寛猛(さわざき ひろたけ)海軍大佐、藤井光五郎(ふじい みつごろう)海軍機関少将が収賄容疑で軍法会議にかけられました。
さらに、もうひとつの汚職事件もあかるみに出ました。
巡洋戦艦「金剛」をイギリスのヴィッカーズ社に発注した際、海軍の松本和(まつもと かず)中将が、ヴィッカーズ社の日本総代理店である三井物産から40万円(4億円)を収賄した件です。
「また汚職か!」
「長州も薩摩も、ロクなやつがいないな!」
各地で内閣弾劾運動が起こりました。内閣が弾劾決議案を否決すると、数万の人々が日比谷に押し寄せ、議会を取り囲み、ふたたび警察隊と衝突する騒動となります。
昨年の大正政変のときと同じく、政府系の新聞社が襲撃されました。
こうして山本内閣は3月下旬に総辞職に追い込まれました。
元老会議は山本の後釜として、貴族院議長の徳川家達を推しますが、本人が辞退しました。ついで山県系官僚の枢密顧問官・清浦奎吾(きようら けいご)が検討されましたが、やはり辞退しました。困った元老会議は大隈重信を指名します。
大隈重信この年76歳。政界を退いて早稲田で隠居していましたが、血気いよいよ盛んでした。午前に禁酒会で演説すれば、午後には酒造組合で「酒は百薬の長である」と弁舌をふるうといわれていました。
1914年4月、第二次大隈重信内閣が発足します。大隈は長州閥よりではありましたが、国民に人気が高かったため、憲政擁護運動は下火になりました。
次回「第一次世界大戦の勃発と日本の参戦」に続きます。
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伊藤博文暗殺事件(8分43秒)
韓国併合(32分11秒)