辛亥革命(一)革命勃発

こんにちは。左大臣光永です。

実家の熊本に帰省しています。

本日は、熊本市植木町(うえきまち)を流れる合志(こうし)川沿いにある「旅館 平山」で温泉に入ってきました。

16畳ほどの小さな風呂で、壁に種田山頭火の句「分け入っても分け入っても青い山」と山々を前にたたずむ山頭火の絵が描いてあります。

お世辞にも上手な絵とはいえないですが、下手な絵は頭の中でデッサンや色彩を修正しながら見る楽しみがあって、よいです。

今日明日の二回で「辛亥革命」について語ります。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Shingai1.mp3

辛亥革命。

1911年-12にかけて清国で起こった共和革命。鉄道国有化問題に端を発し、中国各地で暴動が勃発。革命軍は武昌と漢陽を武力制圧し、黎元洪(れい げんこう)を総督とする中華民国軍政府が成立。

その後、臨時大総統として孫文が選出され、すぐに辞任して清朝軍人の袁世凱が選出された。

1912年2月12日、宣統帝溥儀(6歳)の退位宣言勅書が発せられ、清朝は終焉。アジア初の共和制国家である「中華民国」が誕生した。

本日は第一回「革命勃発」です。

北京議定書と光緒新政

1899年-1900年の「義和団事変」の敗北によって清朝は日本と欧米列強11カ国との間に屈辱的な北京議定書を結ばされました。

一、清国に賠償金4億500万両の支払を課すこと
ニ、北京に公使館区域を設け、北京周辺の警備には外国の軍隊が当たること

ここに清朝の権威は地に落ち、1000年にわたって中国をささえていた儒教イデオロギーもゆらぎました。

「儒教、儒教って、古臭いこといってるから列強の食い物にされるんだ」

という反省から、清朝内部では西太后の主導により政治改革がおこなわれました。

教育を普及し、産業を振興し、近代化をめざしました。これを「光緒新政(こうしょしんせい)」といいます。

光緒新政の具体的な政策としては、儒教教育を西洋式教育に切り替えたこと、欧米、日本留学を推奨したことが挙げられます。

とくに日本へは、さかんに留学生を送りました。明治維新後、わずかな年月で近代化を成し遂げた日本に学ぼうとしたんですね。

1905年-6年には日本国内の中国人留学生は8000人にのぼったと記録されています。

孫文

一方、清朝そのものを打倒しようという動きも出てきました。

その筆頭が、孫文です。

孫文は1866年、広東省香山(こうざん)県のまずしい農家の三男三女の五番目として生まれました。

北京を頂点とする官僚社会のシステムからは完全にあぶれていましたが、孫文の兄はハワイのオアフ島に移住し農場経営と商売に成功していました(後、破産)。

孫文は兄の援助のもと、ハワイで、ついで香港で西洋式の教育を受け、キリスト教の洗礼も受けました。香港で5年間医学学校に通い、医者となりましたが、いつしか革命運動に身を投じていきます。

満州人による清王朝は打倒しなくてはならない。

そして漢民族の国を打ち立てるのだ。

強く思うようになりました。

孫文がそう思うようになったきっかけは、1884年の清仏戦争でした。清とフランスが戦争して、清が負けました。清はベトナムの宗主権を失いました。

当時18歳だった孫文は帝国主義列強の横暴に憤るとともに清朝官僚の無能さに失望しました。

「満州人に国を任せていてはダメだ」

そう強く思い込むようになりました。

この清仏戦争の敗北が孫文が後年革命運動をおこすきっかけとなったとされます。

孫文は1894年ホノルルで、翌95年香港で興中会(こうちゅうかい)なる組織をつくり、

・満州人国家の打倒
・民主国家の樹立

を叫びました。

広州蜂起

1895年旧暦9月9日重陽の節句の日を選び、興中会の会員3000人を香港から広州へ向かう列車にまぎれこませ、広州にいる同志も相応じて武装決起する計画を立てました。

しかし、清朝とイギリスにバレて、計画は未遂に終わりました(広州蜂起)。孫文は香港に逃れ、以後、長い亡命生活に入ります。

1905年(明治38)7月30日、孫文は東京で70名あまりの中国人留学生を集めて、「中国同盟会」の決起集会を開きました。

日本はこの頃、日露戦争の末期で、樺太出兵が行われていた頃でした。

中国同盟会の趣旨は、「韃虜を駆除し、中華を回復し、民国を創立し、地権を平均する」というものでした。

つまり、満州人による清王朝を打倒し、漢民族による国を回復し、民主国家をつくり、土地の個人所有をなくし国有にするということです。

1905年8月13日、中国人留学生による孫文歓迎会が東京で開かれました。約1000人の留学生を前に孫文は、

国土と人口にめぐまれ古い歴史をもつ中国が、最先端の立憲民主制を採用すれば、欧米列強にもまさる大国となると、明るい未来を説きました。

同年8月20日、中国同盟会の結成大会が開催され、孫文を総理、黄興(こうこう)を副総理格の庶務幹事とすることが可決されました。

三大主義

1905年(明治38)11月26日、東京市牛込で中国同盟会の機関誌『民法』が創刊されました。孫文は『民法』創刊の辞において、みずからの革命理論をあらわして、

民族主義
民権主義
民生主義

の三項目を掲げました(はじめ「三大主義」、第一次世界大戦後は「三民主義」とあらためます。教科書では後者のほうがおなじみです)

「民族主義」とは、満州王朝(清)を打倒し、漢民族の国を築くこと。

「民権主義」とは、民権をのばして共和政体を樹立すること。

「民生主義」とは、土地を国有化し個人所有をみとめない社会主義的な世の中をつくることを言っています。

孫文は1895年の「広州蜂起」に失敗して以来、地球を股にかける亡命生活を続けました。

清朝政府から命をつけ狙われながらも、革命の資金集めと同志への指示にあけくれます。

香港、台湾、アメリカ、イギリス、フランス、日本、マレーシア、ベトナム…孫文の行動範囲の広さにはおどろくばかりです。

1894年から1911年まで、中国国内での武装決起を画策すること10度におよび、そのすべてが失敗に終わりました。上海を出た時29歳だった孫文は45歳になっていました。

鉄道国有化問題

中国国内では1908年に光緒帝と西太后が没してから、きわめて限定的ながら選挙も行われ、国会開設の声も高まっていました。

しかし、

1911年5月8日に成立した内閣は、満州人が過半数をしめ、中国民衆を失望させるものでした。

翌9日、民間資本による敷設が計画されていた幹線鉄道を国有化することが決定しました。

「なんだそりゃ!」
「国有化?バカな!」

それまで鉄道に投資していた広東、湖北、湖南、四川が反発し、たちまち暴動が起こります。

四川省省都・成都では、とくに反対運動がさかんでした。7月15日、清国軍により運動の責任者が逮捕されると、釈放を訴える人々に対して清国軍が発砲。数十人が射殺されました。

これに対する抗議活動が激しくなると、中国同盟会会員による革命軍が押し寄せ、成都を包囲しました。

10月10日、革命軍が武昌(武漢の一区)で蜂起し、湖北・湖南を管轄する総督の庁舎を襲撃。総督は長江に停泊中の船に逃れました。

翌11日、革命軍は武昌、漢口、漢陽をあいついで制圧し、黎元洪(れい げんこう)を総督に、中華民国軍政府を組織しました。

次回「辛亥革命(ニ)孫文の帰還」に続きます。

1話2分スピード解説『古事記』
https://sirdaizine.com/CD/speedMyth.html

『古事記』(日本神話)を、【1話2分】ていどで、【簡潔に】解説したものです。

聞き流しているだけで『古事記』の物語が頭に入り、覚えられます。

詳しくは
https://sirdaizine.com/CD/speedMyth.html

解説:左大臣光永