両統迭立 天皇家の分裂

承久の乱後から後嵯峨院政まで

しばらく鎌倉の情勢ばかり追っていましたが、ここで天皇家の情勢を、承久の乱後までさかのぼって、ざっと見ていきます。

承久の乱に敗れたことで、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇が島流しとなりました。後鳥羽上皇は隠岐へ。土御門上皇は土佐へ。順徳上皇は佐渡へ流されました。ただしこのうち土御門上皇は反乱に積極的ではなかったので、後に幕府の温情により、より都に近い讃岐に配流先を変えられます。

承久の乱後から後嵯峨院政まで

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そして幼い仲恭天皇は退位させられ、後鳥羽とは別系統の後堀河天皇が即位しました。御堀河天皇の子が次に四条天皇として跡を継ぎます。しかし四条天皇は12歳で跡取りがいないまま崩御しました。

すると幕府の意向で、土御門上皇の皇子邦仁(くにひと)親王が立てられました。後嵯峨天皇です。土御門上皇は承久の乱の時、討幕に積極的でなかったので、そこを評価されてのものでした。このように、後嵯峨上皇が即位できたのはそもそも幕府の意向でした。

そのため、後嵯峨天皇は即位のはじめから幕府の言いなりでした。後年、何度もモンゴルのへの返書を出すことを朝廷では話し合いながら、幕府から「無視すべし」と言われるとおとなしく従っていたのは、そのためです。

後嵯峨天皇は朝廷の実力者・西園寺家と姻戚関係を結ぶことで立場を安定させていきます。治世4年目にして皇子の久仁親王に位を譲り、後深草天皇を立てます。ついで後深草天皇の13年目には、後深草天皇に、その弟恒仁親王に譲位するよう促し、ここに亀山天皇が即位します。そして後嵯峨上皇は治天の君として相変わらず権力を維持し続けました。

また第一皇子の宗尊親王を第六代将軍として鎌倉に送り、幕府との結びつきも強めていきました。

文永5年(1268年)出家して法皇となり大覚寺にこもりました。

後嵯峨法皇の崩御

文永9年(1272年)2月17日、30年来院政を行ってきた後嵯峨法皇が、亀山殿(現嵯峨・天龍寺)にて崩御します。これより2日前には、六波羅探題南方・北条時輔が滅ぼされる二月騒動が起こっており、京都は騒然としている中のことでした。

「さて誰が故院の跡を継がれるのか」
「それはもちろん、今上帝でしょう」

後嵯峨法皇の跡をついで天皇家の家長となる候補者としては、すでに譲位した後深草上皇、もしくは今上帝である亀山天皇が考えられました。つまり、後深草上皇による院政か、亀山天皇による親政か、です。

承久の乱後から後嵯峨院政まで

ところが生前、後嵯峨天皇は兄である後深草よりも弟である亀山天皇を愛しておられました。そのため兄である後深草に早々に退位させ弟である亀山天皇を即位させ、その後、亀山天皇に皇子(後宇多天皇)が生まれると生後一年にも満たずに皇太子に立てています。

だから、後深草上皇と亀山天皇、二人の候補者があるといっても、大半の人は亀山天皇による親政が行われると思っていたはずです。

ところが、後嵯峨法皇の遺言には、後深草上皇とも、亀山天皇とも、指示がありませんでした。後嵯峨法皇は幕府のいいなりであり、次の治天の君を決めるにも、幕府に意見をうかがいを立てるお考えでした。ならばと鎌倉に早馬の使者が飛びます。ところが鎌倉からの返答は…

「故法皇さまのご遺言を尊重せよ」

貴族たちは困ってしまいました。

「いったい法皇さまは、今上帝と上皇さま、
どちらを選ばれたていたのでしょうか」

そこで天皇・上皇の母であり故法皇の中宮である西園寺姞子(さいおんじきつし)に問い合わせると、

「故院のご意思は、今上帝にあったようじゃ…」

これにより、亀山天皇の親政と決まります。しかし、後嵯峨法皇が天皇家の家長を誰にするか遺言を残さなかったこと。遺言も無いのに後深草上皇が退けられたことは恨みを残し、このことが後の大覚寺統と持明院統の分裂、さらには南北朝の動乱へとつながっていきます。

後宇多天皇から伏見天皇へ

文永11年(1274年)亀山天皇は皇太子世仁親王に位を譲ります。後宇多天皇です。そして自身は亀山上皇となり院政を行います。この年、蒙古が博多湾に襲来する「文永の役」が起こっています。

大覚寺統と持明院統。両統迭立

一方、すっかり世に見捨てられた後深草上皇は思い悩んでおられました。

「このままでは、わが子孫が帝位につくことは
永遠にできぬのではないか。
ああ!なんとはかない。この上は出家するしかあるまい」

後深草上皇が世をはかなみ出家を考えているという噂は、鎌倉にも届きます。

「やれやれ…蒙古襲来で忙しい時期に
やっかいな話だ。だが捨て置くわけにもいかぬ」

幕府は、亀山上皇方、後深草上皇方、双方に了解を取った上で、次の皇太子には後深草上皇の皇子である熙仁(ひろひと)親王(伏見天皇)を亀山天皇の猶子(ゆうし。子に次ぐもの)として皇太子に立てると決めてしまいます。

「やった!これでわが子孫が、将来帝位につける」

後深草上皇は大喜びなさいます。一方、亀山上皇はご不満でした。

「これでは将来、天皇家の家長権が兄の血統に移ってしまう…」

何の対策も無い亀山上皇ではありませんでした。弘安9年(1286年)、後宇多天皇の子である邦治王(くにはるおう)を親王とします。後の後二条天皇です。亀山上皇はどうあっても、兄後深草の系統には家長権を譲らぬ構えでした。

大覚寺統と持明院統。両統迭立

しかし幕府の決定は、亀山上皇にとって非情なものでした。

「皇太子を践祚させ、御深草上皇による院政を行うべし」

「そんなバカな!!」

怒り、悲しむ亀山上皇。しかし幕府の決定には逆らえませんでした。弘安10年(1287年)後宇多天皇は譲位し皇太子熙仁(ひろひと)親王が伏見天皇として即位。そして伏見天皇の父である後深草上皇による院政が始まりました。翌年には伏見天皇に皇子・胤仁親王(後の後伏見天皇)が生まれさっそく皇太子に立てられます。

さらに、亀山上皇にとっての悲報が続きます。

鎌倉幕府第七代将軍として鎌倉へ下っていた惟康(これやす)親王が鎌倉から追い出されたのです。ついで後深草院の皇子で伏見天皇の弟にいあたる久明(ひさあきら)親王が新将軍として迎えられることになりました。

「終わった…わが血筋はもう、どうにもならん」

世をはかなんだ亀山上皇は南禅寺の禅林院にて出家してしまいます。

大覚寺統と持明院統

ここに天皇家は真っ二つに分裂しました。

大覚寺統と持明院統。両統迭立

一方の亀山上皇方は、後宇多上皇が惣領となります。後宇多上皇は嵯峨天皇の離宮であった嵯峨の大覚寺を再興し、後宇多上皇の子孫も大覚寺を拠点としたので、この血統を「大覚寺統」といいます。

一方の後深草上皇方は、伏見天皇の親政時代を経て、皇太子胤仁親王に譲位して後伏見天皇を即位させます。そして伏見上皇が惣領として院政を行います。伏見上皇は里内裏の持明院御所(京都市新町通上立売上ル安楽小路町。同志社大学新町キャンパス北)を仙洞御所(上皇の御所)としていたので、この血統を「持明院統」といいます。

後伏見天皇から後二条天皇へ

永仁6年(1298年)持明院統の後伏見天皇が践祚し、その父である伏見上皇による院政が始まりました。納得いかないのは大覚寺統です。さかんに幕府に働きかけます。

「持明院統ばかりから天皇が出るのはおかしい。何とか言ってくれ」

幕府では、

「どうやら朝廷は幕府なしでは何も決められないらしい」
「ならば、勝手に決めてやりましょう」
「しかしいい加減、面倒になってきたぞ…」

そんな感じだったかわかりませんが、幕府の指示により、次の皇太子には大覚寺統の邦治親王を立てることなりました。

正安3年(1301年)、邦治親王が践祚して後二条天皇となると、その父・後宇多上皇による院政が始まります。今や、大覚寺統と持明院統から交互に天皇を出すという両統迭立の状態になっていました。

後二条天皇から花園天皇、さらに後醍醐天皇へ

さらに天皇家の分裂は続きます。

大覚寺統と持明院統。両統迭立

後二条天皇は大覚寺統。ならば次の皇太子は持明院統から立てるのが道理です。しかし、持明院統の後伏見上皇はまだ14歳。跡取りがありませんでした。

「これはどうしたらよいのか。幕府に判断を仰ごう」

幕府では、

「弟を立てればよい」

ということで、後伏見上皇の弟の富仁(とみひと)親王が、皇太子に立てられました。後の花園天皇です。

7年後の徳治3年(1308年)、後二条天皇は24歳の若さで崩じました。すぐさま皇太子富仁親王が、花園天皇となります。そして花園天皇の父である伏見上皇がふたたび院政を行うこととなりました。

このあたり、非常にややこしいので、系図を見ながら聴いていただければと思います。

次の皇太子は当然、大覚寺統から立てます。そこで、大覚寺統の惣領である後宇多法皇は、後二条の弟である尊治(たかはる)親王を皇太子に立てます。

後二条天皇には皇子がありましたが病弱だったのです。それに加えて、尊治親王は才覚すぐれ、亡き亀山上皇の寵愛も篤いものがありました。そのため、大覚寺統の惣領である後宇多法皇は、後二条天皇の皇子ではなく、後二条天皇の弟である尊治親王を皇太子に立てました。

後の後醍醐天皇です。

古来、皇統が父から子でなく、兄から弟へ相続されようとした場合、争いが起こるのは壬申の乱保元の乱の例を見れば明らかです。今回も、後々の争いの種をまいた形となりました。

文保の和談

幕府としては朝廷が分裂し弱体化していくことは歓迎すべきことではあります。だからこれら天皇家の分裂は、幕府が糸を引いて意図的に引き起こしたものだと主張する人もあります。

しかし幕府が積極的に朝廷を分断させる工作をした記録はありません。そもそも幕府がそんな小細工をするまでもなく、承久の乱以降、朝廷の力はすっかり衰えていました。幕府が工作した、というのは、うがちすぎな陰謀論だと思います。

むしろこの頃になると、幕府もたいがいウンザリしてきたようです。なにしろ、天皇が代替わりするたびに大覚寺統、持明院統双方からギャアギャア問題を持ち込まれるのです。またかよ、いい加減にしろという感じです。

ここらで一度、ケリをつける必要がありました。文保元年(1317年)、幕府から朝廷に使者が飛び、大覚寺統、持明院統の面々を前に、言い渡します。

大覚寺統と持明院統。両統迭立

「一つ。花園天皇が譲位し、尊治親王(後醍醐天皇)を即位させる。
一つ。今後、10年ごとに譲位し、両統から交互に天皇を出す。
一つ。次の皇太子は後二条天皇の子の邦良親王。その次は後伏見上皇第一皇子量仁(かずひと)親王とする。

以上です」

がやがや…

幕府の決定は持明院統、大覚寺統、双方に不満の残るものでした。

持明院統としては、後醍醐天皇についで邦良親王と、二代二十年にもわたって大覚寺統から天皇が出るのが不満でした。

また大覚寺統としては、皇統が尊治系と邦良系、二系列に分裂してしまうことが不満でした。

しかし、幕府にこうキッパリ宣言されてしまうと、大覚寺統も、持明院統も、反論するすべを知りませんでした。文保元年(1317年)、これを文保の和談と言います。

ともかく、強引ながらも天皇家のゴタゴタはいったんは治まりました。時の執権は北条高時ですが、若く愚かな高時にこのように高度な政治的判断ができるはずもありません。実際に文保の和談を画策したのは高時に仕えている長崎円喜でした。

翌文保2年(1318年)、花園天皇は在位10年目にして幕府の指示通り退位し、後醍醐天皇が即位します。当時としては高齢の31歳の即位でした。

「わしは、やるぞ。このゴチャゴチャした時代を、終わらせる」

そんなこともつぶやかれたでしょうか。しばらくは父後宇多法皇による院政が続きましたが、約4年後の元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政をやめたいと幕府に申し出て、ここに後醍醐天皇による親政が始まります。

それが、鎌倉幕府終焉の始まりでした。

次回「正中の変」に続きます。

解説:左大臣光永

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