保元の乱

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1156年(保元元年)7月11日未明…

バカラッ、バカラッ、バカラッ、バカラッ

夜明け前の京都の町にひづめの音が響き渡ります。何百という軍馬の群れが鴨川の西から押し寄せてきました。

「なな、何事だ」

京都の人たちは驚きます。今まで合戦は多くありましたがどれも地方の話でした。平安京に都が定められて初めて、目の前を軍馬の群れが走っているのです。

「いよいよ武士の世の中になったんだなあ…」

人々は恐れおののきました。

天皇家の家督争い

1156年(保元元年)保元の乱は天皇家の家督争いと摂関家の内部抗争がむすびついて起こった争いです。

鳥羽上皇は第一皇子である崇徳上皇を忌み嫌っていました。なぜなら実の子では無かったからです。崇徳上皇(顕仁親王)は不倫の子でした(と、 一説には言われています)

不倫相手は鳥羽上皇の祖父、白河法皇です。祖父白河法皇と妻待賢門院彰子との間の不倫で生まれたのが顕仁親王、後の崇徳上皇でした。

鳥羽上皇と崇徳天皇
【鳥羽上皇と崇徳天皇】

祖父の子は叔父にあたることから、鳥羽上皇は顕仁親王のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌いました。

「叔父子」の話は『古事談』にのみ書かれており、真偽のほどは賛否両論ありますが、その後の鳥羽上皇と崇徳上皇の関係を見るに、かなり信憑性が高いのではないか、と言われています。

鳥羽上皇はその治世の間、あの手この手で崇徳上皇から皇位と院政を行う権限を奪いました。これが保元の乱の直接の原因となりました。

摂関家の内部抗争

そこに摂関家の内部抗争が問題がからみます。

関白藤原忠実には長男忠通、次男頼長がいました。そして忠実は温厚な長男忠通より学識ゆたかな次男頼長を愛していました。忠実は長男忠通を嫌う一方次男頼長をろこつに支援します。

忠実が実子でありながら忠通を憎んだのは、白河法皇に忠実が退けられていた時、白河法皇に取り入って関白になったからとも言われています。

また忠実は、後三条天皇の御世に摂関家の所領が荘園整理によって大幅に削られたため、摂関家の回復につとめていました。その役をになえるのは、聡明博学な次男の頼長しかいないと考えました。このことも忠実が忠通を遠ざけた理由の一つかもしれません。

また、忠実と忠通が対立したのは摂関家を分断しようという白河上皇の策謀だったかもしれません。わざと忠通を取り立て、忠実を邪険に扱うことで摂関家の分断をはかったような節も見られます。

こうしたことで摂関家が二つに割れ、対立が激しくなっていきます。

ついに忠実は、長男忠通に、言ってきました。

「藤原氏の氏の長者の権限を、弟の頼長に譲れ」
「なんです?、そのようなこと、認められません」
「なに、認められぬと?」
「当然でしょう!」
「けしからん!親に逆らうのか。この不孝者が!」

父忠実は、息子忠通の館に人をやり、藤原氏の氏の長者の証である朱器(朱塗りの器)、台盤(食膳)、はかり、所領地の証券を蔵の鍵をぶちこわし、強引にうばいました。

こうして忠実は長男忠通を退け、次男頼長を藤原氏の氏の長者とします。しかし近衛天皇が17歳で崩御すると忠実・頼長父子が呪詛したためだと噂が立ち鳥羽上皇はお怒りになります。

これに先立つ仁平元年(1151年)頼長は、院の近臣中納言家成との間でいさかいを起こしており、この頃から鳥羽上皇との中に亀裂が走っていたようです。そこに、今回の呪詛事件です。鳥羽上皇のお気持ちは一気に頼長から離れます。

「忠実・頼長め。わが子を呪い殺すとは、けして許さぬぞ。
それに引き替え長男の忠通はおだやかで、信頼できる」

こうして忠実・頼長父子は鳥羽上皇に遠ざけられ、かわって長男忠通が寵愛を受けます。後白河天皇の時代になると、忠通は関白に至ります。後白河天皇は忠通を信頼し、後白河-忠通の結びつきは強くなっていきました。

一方、失意の忠実・頼長父子は崇徳上皇と結びつきます。

「そうか…そのほうたちの境遇には、朕も共感できるところがある」

崇徳上皇・藤原頼長の周りには鳥羽院体制から締め出された不平分子が集まりました。その中には凋落した源氏の棟梁、為義の姿もありました。

こうして…

後白河天皇-忠通  ×  崇徳上皇-頼長

という対立図式ができてきいきます。

鳥羽上皇の崩御

そんな中、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽上皇が崩御します。

「なに父上が…!」

崇徳上皇は知らせを受けてすぐに鳥羽殿へお輿を走らせます。生涯自分のことを実の子では無いと忌み嫌ってきた父ですが、やはり父親であり、愛していました。

ところが、鳥羽殿についた崇徳上皇の車は院近臣たる藤原惟方らに遮られ、中に入ることは許されませんでした。生前鳥羽上皇は「崇徳に自分の死に顔を見せるな」と遺言していたとも言われます。

「なぜじゃ。息子が父の死に目にあえないなど、理不尽にもほどがある」
「上皇さまの御遺言です。どうかお引き取りください」

押し合い圧し合い問答が続きますが、結局崇徳上皇は父の死に目に会えなかったばかりか、死後見舞いをすることも許されませんでした。

崇徳上皇はガックリとうなだれて、引き揚げて行かれました。

後白河天皇方の挑発

そして後白河天皇方の挑発が始まります。

7月5日、後白河近臣・信西は三条東殿に崇徳方が集まって内裏を襲おうとしていると言いがかりをつけます。翌6日検非違使をもって三条東殿を襲い、邸宅や家財を没収してしまいます。こうして崇徳上皇方が蜂起した際に拠点となる場所を奪いました。

三条東殿跡あたり(現中京区 姉小路通))
三条東殿跡あたり(現中京区 姉小路通)

さらに信西は没収した文書の中に頼長によるクーデター計画が記されていたと言いがかりをつけて、頼長を配流に決めます。ここに至り、崇徳上皇と藤原頼長はどうしても決起さぜるをえない状況に追い込まれました。

崇徳上皇 鳥羽殿を脱出

鳥羽上皇崩御後、崇徳上皇は鳥羽の田中御所にありましたが、
9日抜け出し、白河の前斎院(詢子内親王)の御所へうつります。
しかし前斎院の御所は手狭だったのか、すぐに隣の白河殿へうつり
軍兵を招集します。

白川北殿跡(現京都大学熊野寮)
白川北殿跡(現左京区 京都大学熊野寮敷地内)

白川北殿跡(現京都大学熊野寮)
白川北殿跡(現左京区 京都大学熊野寮敷地内)

「大丈夫であろうな。朕は勝てるのであろうな」
「上皇さま、ご安心ください。すでに上皇さまをしたって、
多くのたのもしい武士が集まっております」

崇徳上皇を乗せたお輿は夜中、白河北殿に入りました。

保元の乱 関係図
【保元の乱 関係図】

為朝の案が蹴られる

白河北殿には平忠正・源為義・源為朝らが集まっていました。

源為朝はこの年17歳。弓の名手で、七尺(2m)の大男。強弓を引くために左腕が右腕よりも4寸(12cm)も長かったと伝えられます。あまりに乱暴が過ぎるため父為義より勘当されて九州に流されていましたが、その間、強弓をもって九州各地を制圧し、鎮西八郎為朝の名で恐れられました。

作戦会議の中、為朝が発言します。

「勝利するには夜討ちが一番です」

しかし藤原頼長は為朝の意見を退けます。

「これは帝同士の国争いである。夜討ちなどもっての他。
朝になって大和や吉野から援軍が来るまで、動くべきではない」

藤原頼長はこの年37歳。父忠実の寵愛を受けて、兄忠通をおしのけて左大臣に至りました。古今の学問に通じあらゆることを記憶しており「日本一の大学生(だいがくしょう)」と異名を取りました。

一方で職務には容赦が無く、遅刻した職員の家を焼き討ちにするなど極端な行ないが目立ちました。宇治に別荘があったため「宇治のたけだけしい左大臣」という意味で宇治の悪左府」とも呼ばれていました。「左府」は左大臣の中国風の言い方です。

頼長に夜討ちの案を蹴られた為朝は大声でわめきます。

「後白河方についた兄義朝は、今夜必ず夜襲をしかけてきますぞ
味方は逃げまどうことになりますぞ」

そして、事実その通りになったのでした。

後白河天皇方 ~ 義朝の案が採用される

一方、後白河天皇-忠通のもとには平清盛・源義朝・摂津源氏の源頼政らがつき、高松殿に陣取りました。

高松殿跡(現高松神明神社)
高松殿跡(現中京区 高松神明神社)

7月10日夜、高松殿では作戦会議が開かれていました。指揮を執るのは少納言入道信西です。

高松殿跡(現高松神明神社)
高松殿跡(現中京区 高松神明神社)

信西(1106-1160)。出家前の俗名を藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言いました。藤原といっても摂関家ではなく、不比等の長男武智麻呂を祖とする藤原南家の出身です。歴史ある家柄ではありますが、この時代にはすっかり中流貴族に落ちぶれていました。

高松殿跡(現高松神明神社)
高松殿跡(現中京区 高松神明神社)

通憲は頭脳明晰で「諸道に達せる才人なり(『尊卑文脈』)」と評されますが、家柄が悪いために出世できませんでした。失望した通憲は39歳で出家し、信西と名乗りました。

その後いろいろあって、後白河天皇に重用されるようになっていました。

信西の前に召し出された源義朝が言います。

「戦には先制攻撃しかありません。
夜討ちをかけましょう」

信西は言います。

「なるほど夜討ちですか。私は詩歌管弦であれば
多少の心得がありますが、戦となると全くの素人です。
その点義朝殿は東国育ち。数々の修羅場をくぐってきた古ツワモノです。
私は戦慣れした義朝殿の意見を採ります。
すぐに夜討ちの準備にかかってください」

夜討ち決行

11日未明、後白河天皇方600騎は三隊に分かれ、敵崇徳上皇方がたてこもる白河北殿を目指します。

二条大路からは平清盛率いる300騎が、大炊御門大路からは源義朝率いる200騎が、近衛大路からは源義康率いる100騎が、それぞれ押し寄せます。この間、後白河天皇は高松殿に隣接する三条殿でひたすら勝利を祈っておられました。

保元の乱
【保元の乱】

源為朝と平重盛

バカラッ、バカラッ、バカラッ、バカラッ

平清盛率いる後白河天皇方300騎は、鴨川を渡り白河北殿に押し寄せ、矢を放ちます。

ひょうひょう!
ひょうひょう!

対する崇徳上皇方の守りには、

「我こそは鎮西八郎為朝なりーーッ」

ビョウ、ビョウ、ビョウッ

「ぐはっ」「くうう」

為朝の引く強弓のもと、清盛配下の伊東六、山田是行らの将兵が次々と討たれていきます。

「くうう、為朝恐るべし。退け。退けーーッ」

清盛は退却を命じます。しかし長男の重盛が、

「父上、そのような弱気でどうされます!
重盛は、刺し違えてでも為朝を討ちます!」

バカラッ、バカラッ、バカラッ

「こら重盛、戻れッ、
父の言葉が聞けぬのか!重盛ーーッ!!」

一方、大炊御門大路を進む義朝軍も苦戦を強いられていました。大炊御門大路の真正面が白河北殿です。

ワーーッ、ワーーッ

後白河天皇方の源義朝には心配がありました。父の為義と弟の為朝は敵である崇徳上皇方についていたのでした。どちらが勝っても家が残るようにという考えからでしたが、やはり不安がありました。

(できれば父や弟たちと、戦場でやりあいたくない…)

義朝率いる後白河天皇方と、崇徳上皇方は一進一退するうちに、はるかに東山の山際が、しらじらと明るくなってきます。

白河北殿突入

「火を放てーーッ!!」

午前8時。後白河天皇方が白河北殿に火を放ち、一気に御所になだれ込みます。

ワーーッ、キャーーー

朝の白河北殿は地獄絵図となりました。たちまち御所全体に火がまわり、崇徳上皇方は死にもの狂いで逃げ出します。白河北殿は焼け落ち、崇徳上皇も藤原頼長も命からがら逃げ出します。

4時間あまりの合戦はこうして、後白河天皇方の勝利に終わりました。

この日の合戦で、名だたる武将は一人も戦死していません。後白河天皇方は崇徳上皇方を本気で攻めようとは思っていなかったとも考えられます。

できれば平和的に降伏してほしい。しかしどうにも降伏しないのを見て、仕方なく火をかけた、といったところかもしれません。

保元の乱 追撃戦

白河北殿の東側の退却路はガラ空きでした。火をつけられると崇徳上皇方は大挙して東へ逃れます。今の京都市立動物園などがあるあたりです。後白河天皇方は崇徳上皇方を追撃し、白河の法勝寺を捜索し、源為義が宿所にしていた円覚寺(えんかくじ)を焼き払いました。

悪左府頼長の最期

藤原頼長は逃げる途中、首に矢を受けてしまいました。

「うう…父上…父上…」

白河で傷を受けた藤原頼長は洛北へ迂回し、西山から大堰川を舟で下り木津について奈良に入り、父忠実に面会を申し入れたが拒まれます。忠実は自分に類がおよぶことを恐れたのでした。頼長はやむをえず母方の叔父にあたる千覚律師の宿坊に入るも、14日絶命したと伝えられます。

崇徳上皇 捕縛される

一方、崇徳上皇はほうぼうの知人を訪ね歩きますが、誰もかれも関わりを持つのを恐れました。

「叩けども音せず。世界広しといえども立入らせ給うべき所もなし」(『保元物語』)

合戦の翌日、髪を下し弟の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)を頼って仁和寺に入ります。しかし覚性法親王は無言で後白河方に通報します。後白河方の追手が押し寄せます。

仁和寺
仁和寺

仁和寺
仁和寺

「上皇さまですね。ご同行願います」
「くっ…」

かくして崇徳上皇は後白河天皇方に引き渡され、処分を待つこととなりました。

捕えられた鎮西八郎為朝

鎮西八郎為朝は近江坂田のあたりでとらえられるも、彼の弓の力をおしんだ朝廷によって死罪はまぬがれ、肩の腱を抜かれて二度と弓を引けないようにして大島に流されたといわれます。しかし大島を脱出して子孫が琉球で王になったという伝説も伝わります。

苛烈をきわめた戦後処理

戦闘そのものは4時間ほどで終わりました。悪左頼長は戦死。崇徳上皇は讃岐に流罪と決まりました。あっけない幕切れでした。

讃岐
【讃岐】

しかし保元の乱が苛烈だったのはむしろ、戦後の処理のほうでした。平安時代初期の810年薬子の変以来350年間公式には行われていなかった死刑が復活します。しかも、ただの死刑ではありません。

後白河の近臣・信西は源平に分かれて戦った武士に対し、同族に刑を執行させました。

清盛は敵対した叔父忠正を斬らされます。義朝にいたっては、実の父為義と弟五人の首をはねさせられました。ちょっと想像してみてください。実のお父さんの首をはねる。もちろん本人ではなく家人がやるのですが、言葉にならないものがあったと思います。

つづき 信西と藤原信頼

解説:左大臣光永

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