壬申の乱

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吉野の冬

672年の冬、大海人皇子と鸕野讃良皇女の夫婦は
わずかな供回りの者とともに、
吉野の仮の宮でひっそりと暮らしていました。

吉野
【吉野】

「あなた、吉野の冬は寒うございます。ささ」
「おお、すまぬな、讃良」

大海人皇子と鸕野讃良皇女夫婦はとても仲がよかったようです。

しかし、都にいる間は政務に謀殺されて、
そういちゃいちゃできるものではありませんでした。

今こそ、吉野の山中で、
人目をはばからず、ぞんぶんにいちゃいちゃできるわけです。
ひしと夫の背に取りすがって、喜ぶ讃良。

都の情勢

しかし、そんな中にも大海人皇子は大津の都に人を遣わし、
都の情勢を探らせていました。

天智天皇が崩御した後、大津の都では
大友皇子が政治を取り仕切っていました。

村国男依(むらくにのおより)が吉野へ都の情勢を伝えてきます。

「ミカドの陵を作るといってたくさんの人が駆り出されていますが、
みな武器を手にしています。あれは墓づくりなどではなく、
吉野へ攻めてくる準備をしているのです」

山科 天智天皇陵
山科 天智天皇陵

「吉野へ食糧が届かないように、朝廷が妨害しています」

調べさせた所、すべて事実でした。

挙兵

「あなた、どうやら朝廷軍との戦いは避けられないようですね」

「ううむ…
俺はただ静かに天寿がまっとうしたかっただけなのだ。
しかし、無残にもその願いは破られたッ!
座して滅ぼされるのを待つわけにはいかないッ」

「男依!」

「ははっ」

「お前たちは一足先に美濃へ向かい、不破の道を封鎖せよ」
「はっ」

大海人皇子は配下の武将村国男依に命じて、
美濃不破の道を封鎖に向かわせます。

不破の道は四方八方から道が集まる交通の要衝です。
後年「関ヶ原」とよばれ
石田三成と徳川家康の合戦の舞台となったことで有名ですね。

この不破の道を封鎖してしまえば
地方の兵力が都に集まってくるのを、防げるわけです。

不破の道
【不破の道】

雨の中の行軍

村国男依に少し遅れて大海人皇子も吉野を出発します。
急なことではじめは馬も無く、やがて合流した部下の馬に乗り換え、
次にお輿に乗り換えての道行でした。

その後ろをウの讃良皇女の御輿と、
草壁皇子の馬が続きます。

一行は大和から伊賀を経て
伊勢の鈴鹿山にかかるころには空模様が怪しくなり、
ざーーっと激しい雨が降り始めました。

鈴鹿山の山中を、雨に衣をぬらしながらの
行軍です。誰もが寒さにふるえますが、
それでも、進んでいきます。

大海人皇子、鈴鹿山へ
【大海人皇子、鈴鹿山へ】

高市皇子、大津皇子の合流

道すがら次々と味方が馳せ集まり、
大海人皇子の軍勢はいつしか数千騎に膨れ上がります。

馳せ集まった中に、
長男・高市皇子(たけちのみこ)と三男・大津皇子(おおつのみこ)の
姿もありました。

高市皇子、大津皇子合流
【高市皇子、大津皇子合流】

「父上の挙兵と聞き、大津より馳せ参じました!」
「おお!お前たちが来てくれれば、こんなに心強いことは無い」

美濃・不破の道へ向かっていた村国男依が
戻ってきて報告します。

「すでに不破の道を封鎖いたしました。
朝廷軍は身動きが取れないでしょう」

「うむ。男依、よくやった!」

一同、鬨の声を上げ、
長男の高市皇子を不破の守りに向かわせ、
遅れて大海人皇子も不破の道に到着します。

大海人皇子軍、不破の関に到着
【大海人皇子軍、不破の関に到着】

その頃大津京では…

一方、大津の都では
「大海人が動く」の報を受け、
上を下への大騒ぎになります。

その頃大津京では
【その頃大津京では】

「ああ…やっぱり殺しておけばよかったのに」
「取り返しのつかないことになった」

群臣たちはあわてふためきます。

大友皇子は、
「いったいどうしたらよいだろう」

「とにかく…東国や西国に人を遣わして
戦ってくれるよう呼びかけましょう」

急遽、東国にも西国にも人を遣わし
大海人と戦ってくれるよう呼びかけます。

しかし、ある者は無視され
ある者は大海人方に捕えられ、
サッパリうまくいきませんでした。

その間にも大海人側は着実に駒を進めていていました。

大海人軍、近江・大和で動く

672年6月29、大和に留まっていた大海人方の将軍
大伴吹負(おおとものふけい)が挙兵し近江朝廷軍と激突します。

大伴吹負 挙兵
【大伴吹負 挙兵】

7月2日。不破に拠点を置いていた大海人は、
第一軍・第二軍、二手に分けて軍勢を出発させます。

第一軍は紀阿閉麻呂(きのあへまろ)らを将軍として、数万人を率いて、伊勢から伊賀を経て大和に抜け、大伴吹負を援護に向かいます。

第二軍は村国男依らを将軍として、数万人を率いて、不破から近江に入り、琵琶湖を取り囲むようにさらに二手に分かれて進み、大津京をはさみうちにします。

この日大海人皇子軍は全軍が鎧や槍の先に
赤い布をつけていました。

敵・味方の区別がつきやすいように、
また、その昔漢の高祖劉邦が宿敵項羽との最終決戦のぞんだ時、
赤い布をつけていた故事にのっとったものでした。

大海人皇子軍、動く
【大海人皇子軍、動く】

近江朝廷軍の混乱

「報告します!
不破の道が、大海人軍によって破られました!」
「大和でも、大海人軍優勢です」
「難波で、近江朝廷軍が破られました!」

大津の宮殿で玉座に座る大友皇子のもとに
次々と悪い報告が届いていました。

「くっ…やはり叔父上にはかなわぬのか…。
父上…私はどうすればよろしいのですか」

大友皇子はこの年24歳。

子供の頃から母方の身分の低さを補うために、
学問にも武芸にも、人一倍努力してきました。

しかし、亡き父・天智天皇にかわって
政治や戦争を取り仕切るには
やはり、あまりに経験不足。

一方の大海人皇子はこの年41歳。

大化の改新以来、兄中大兄皇子(天智天皇)の片腕として
長年政治や戦争を取り仕切ってきた大ベテランです。
大友皇子とはそもそも格が違います。

加えて大海人皇子方には、
武将村国男依(むらくにのおより)、
長男高市皇子(たけちのみこ)、
三男大津皇子(おおつのみこ)
といった優秀な
人材がそろっていました。

最後の激戦 瀬田橋の戦い

近江朝廷軍は犬上川(いぬかみがわ。滋賀県東部。彦根で琵琶湖に注ぐ)のほとりで大海軍に戦いをいどみますが、結果は惨敗。その上、味方同士の争いも起こり、どうにもなりませんでした。

勢いを得た大海皇子軍は大津京を目指して破竹の勢いで攻め上ります。

7月7日息長横河(おきながのよこかわ。醒ヶ井付近)で、
9日鳥籠山(とこのやま。所在地未詳)で、13日、安河(やすのかわ。野洲川。三上山付近) で、

近江朝廷郡を次々と撃破。

大海人皇子軍の進撃
【大海人皇子軍の進撃】

7月17日近江国府のある
栗太(くるもと。滋賀県栗東市)を落とし、
22日、瀬田に到着します。

一方、大和路では。大伴吹負が近江朝廷軍に苦戦していましたが、そこへ紀阿閉麻呂引き入る大海人皇子第一軍が合流。大伴吹負の危機を救います。

7月6日頃。大和盆地の中央で大海軍と近江朝廷軍が激突します。奈良盆地を南北に貫く道を、東から上ツ道、中ツ道、下ツ道といいますが、決戦は中ツ道の村屋神社付近(奈良県磯城(しき)郡田原本町(たわらもとちょう))と上ツ道箸陵(はしのはか。奈良県磯城郡大三輪町)のほとりで行われました。箸陵は卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳のことです。

「かかれーーーっ」
「負けるなーーーっ」

わあああーーー

戦況は一進一退するも、やがて大海軍が優勢となり、近江朝廷軍は北方に撤退を始めます。

「逃がすな!」

大海軍は近江朝廷軍を追撃し、難波にまで至ります。

近江で、大和で、快進撃を続ける大海軍に対して、近江朝廷軍は負けっぱなしでした。

その上、味方同士の争いも起こり、
もう、どうにもなりませんでした。

7月22日。

「こうなったら朕が自ら討って出る!」

大友皇子は自ら御馬にまたがり、蘇我赤兄(そがのあかえ)、
中臣金(なかとみのかね)らを将軍として、
軍勢を率いて、瀬田橋の西に布陣します。

現在の瀬田橋
現在の瀬田橋

一方の大海人軍は武将村国男依を先鋒に、
瀬田橋の東に布陣します。

瀬田橋の戦い
【瀬田橋の戦い】

双方、ものすごい兵士の数で、
列の後ろが見えなかったと『日本書紀』は
記します。

「かかれーっ」

橋の両側からひょうひょうと矢を射あいます。

近江朝廷軍は瀬田橋の中央の橋板をはずし、
そこに細い板をかけていました。

ドカドカドカドカ

大海皇子軍が勢いに乗って橋の上を駈けてきた時、
「それっ」と板をひっぱると、

「うわあーーー」

大海人軍は次々と瀬田川に落とされていきます。
そこへ、

「くらえ!」

近江朝廷軍が次々と矢を射掛けると、

「ぎゃああ」
「うぎゃああ」

川面で泳いでいた大海皇子軍の兵士は次々と射殺され、
瀬田川は血の色に染まりました。

「このままでは埒があきません。私が単身、
切り込みをかけましょう」

大海皇子軍の中に大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)
という者が、駆け出します。

ドカドカドカドカ

「新しい歴史のためにーーッ」

なんてことを叫びながらかどうかわかりませんが、
大分君稚臣は全身に近江朝廷軍の矢を受けながらがむしゃらに
突っ走り、ついに突破口を開きます。

「それっ!一気に攻め込め!」

ワアアー、ワアアー

大海人軍はくさびのように朝廷軍の中に
切り込んでいきます。

近江朝廷軍は混乱状態となります。

「に、逃げろー」
「ひいい死にたくない」

もはや近江朝廷軍が体勢を立て直すことは不可能となり、
ここに瀬田橋の守りは破られました。

大友皇子の最期

7月23日。大友皇子はわずかな供回りと共に西へ逃れます。

大津の長等山(ながらやま)にさしかかった時、
大津京の方角を見やると、煙が立ち上るのが見えました。

長柄山
【長柄山】
※大津京の位置は正確には判明していません。

「ああ…燃えてゆく…
父の築いた大津の都が…」

「皇子さま、このあたりで…」
「わかった…」

味方が次々と逃げ散っていく中、
最後まで大友皇子に従ってきた物部麻呂(もののべのまろ)が、
縄の用意をします。

チチッ、チチッ…

鳥たちがさえずる中、
大友皇子は首を吊って自害しました。

その遺体は武将村国男依によって
大海人皇子のもとに届けられます。

十市皇女は夫を失ったものの、幼い葛野王を連れて逃げ延びました。

古代最大の内乱といわれる
壬申の乱はここに終結しました。

弘文天皇陵

『日本書紀』には大友皇子が天皇として
即位したとは記さていません。

江戸時代。徳川光圀の『大日本史』は、大友皇子は実際には即位したのだが、天武天皇の政権は大友皇子の政権を倒して建てらたので正統性を主張するために大友皇子は即位しなかったのだとしました。

明治政府は『大日本史』の考えを採用し、明治3年、39代弘文天皇の号が贈られ、ようやく歴代天皇の一人として数えられることになりました。

弘文天皇陵は京阪電車別所駅で下車、徒歩5分、
大津市役所裏手の森の中にあります。

弘文天皇陵
弘文天皇陵

弘文天皇陵
弘文天皇陵

うっそうと木が茂って、昼間でもキッキと鳥の声が響き、
なんともいえない厳粛な空気があります。

近くある三井寺は正式名長等山園生寺(ながらさんおんじょうじ)。
大友皇子の子、与多王(よたのおおきみ)が
父の菩提のために建立したと伝えられます。

≫次の章「天武天皇」

解説:左大臣光永

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