大正時代の新しい文化・芸術(三)谷崎潤一郎、芥川龍之介、小林多喜二…

こんにちは。左大臣光永です。

数年ぶりに明日香村を歩いてきました。亀石に向かう道の唐突っぷりに、いつも感心します。

えっ、この道?まさかこの道じゃないよね?という細い道に入っていくと、

ふつうの民家の前に、デンと、亀石がある。

なんとも優しくおおらかな感じです。

亀石の隣に無人の野菜販売所と休憩できるベンチがあるのも、よいです。

本日は「大正時代の新しい文化・芸術(三)」です。

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明治末から大正にかけて、文学・芸術の分野でもさまざまな才能があらわれました。

今日はその中から、谷崎潤一郎、芥川龍之介、小林多喜二ほか。

大正時代の新しい文化・芸術(一)島村抱月・松井須磨子・竹久夢二
https://history.kaisetsuvoice.com/Taisyou_bunka1.html

大正時代の新しい文化・芸術(二)平塚らいてう、伊藤野枝、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、永井荷風
https://history.kaisetsuvoice.com/Taisyou_bunka2.html

谷崎潤一郎

東京都出身。日本橋の商家に生まれるも、父が商売に失敗し、苦学。東京大学文化中退。

明治43年(1910)小山内薫らと第二次『新思潮』を創刊。「刺青(しせい)」などを発表し、永井荷風に絶賛されました。

当時、自然主義的傾向の強かった文壇に耽美主義的作風を持ち込み、話題をさらい、

『痴人の愛』など、独特のあやしい美しさの漂う作品群をあらわしました。

唯美主義、耽美主義、芸術至上主義、悪魔主義…

その作風はさまざまに形容されました。

関東大震災を機に関西に移住し、以後、日本の伝統文化、関西の風土に傾倒していきます。

『春琴抄』『細雪(ささめゆき)』『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』など。『源氏物語』の現代語訳も有名です。

昭和5年(1930)親友佐藤春夫に自分の妻千代子を譲る「細君譲渡事件」をおこし世を騒がせました。これをネタに谷崎は「蓼喰ふ虫」を書き、佐藤春夫は「さんまの歌」を書きました。

芥川龍之介

芥川龍之介は東京出身。母の実家である芥川家の養子となり、幼少時を下町気質の残る本所で過ごしました。10歳頃から小説を書き始め、成績優秀のため無試験で一高に合格。そこでも成績優秀で、

大正2年(1913)東京大学英文科入学。翌年菊池寛、久米正雄、豊島与志雄(とよしまよしお)らと第三次『新思潮』を立ち上げ、処女作『老年』を発表。

大正4年(1915)『羅生門』翌5年『鼻』『芋粥』と珠玉の短編を発表。『鼻』は夏目漱石に絶賛され、芥川龍之介の名をいちやく文壇に知らしめました。

海軍機関学校の嘱託教官として一時東京を離れた後、大正8年(1919)塚本文と結婚。

翌年、大阪毎日新聞の記者となったのを機に教官をやめ、東京田端に引っ越します。

室生犀星、萩原朔太郎、菊池寛、堀辰雄らとともに「田端文士村」を形成。その中心人物となるも、

作風はしだいに影をおびたものになり、昭和2年(1927)田端の自宅で自殺しました。最後の夜は、家族で食事し、ごく普通のようすでした。

「将来に対する唯、ぼんやりした不安」ということを『或旧友へ送る手記』に書き記しています。享年36。「芥川賞」にその名を残します。

小林多喜二

小林多喜二は秋田県出身。小樽高商卒業後、現地の銀行につとめましたが、しだいに労働運動、共産主義運動にかかわります。

『蟹工船』はじめプロレタリア文学を発表し、プロレタリア文学の新人として注目されます。

1931年(昭和6)共産党に入党。2年後1933(昭和8)年特高警察に逮捕され、取り調べ中の拷問によって死にました。

『闇があるから光がある』。そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有り難さがわかるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。
(岩波文庫『小林多喜二の手紙』)

岸田劉生

岸田劉生は東京銀座出身の画家。「白樺派」の美術展で武者小路実篤と知り合い、エッセイなど書くかたわら、黒田清輝に師事して日本画を学びフュウザン会(大正時代に結成された美術家集団)でデビュー。娘の麗子を描いた「麗子像」は強烈な印象を残します。

(googleのサジェストワードのトップが「麗子像 怖い」…)

高村光太郎

高村光太郎は上野の西郷像などを手掛けた彫刻家高村光雲の息子で、子供の頃から彫刻に囲まれて育ちました。

東京美術学校の卒業制作「獅子吼(ししく)」は、僧侶が経文を捨てて世の中に出ていく、というもので、その後の光太郎の生きかたを象徴しているようでもあります。

在学中、ロダンの「考える人」の写真をみて衝撃を受け、父光雲に代表される職人芸としての彫刻に対して、芸術としての彫刻があることに気づきます。もともとの父への反発もあり、光太郎は鬱々と悩み続けます。

その間、与謝野鉄幹の主催する東京新詩社に加わり、詩人としてもスタートしました。

1906年(明治39)日本を脱出しニューヨーク、ロンドン、パリに遊学。ロンドンではバーナード・リーチを知り、パリではロダンやボードレールの芸術と生き様に影響を受けました。

帰国後、西洋の彫刻と比べて日本の古い彫刻会を批判。「パンの会」に加わり、デカダン生活に陥っていきます。

生活も精神もすさんでいきました。そんな中、1912年(大正元年)画家の長沼智恵子と出会います。

智恵子は雑誌『青踏』の表紙絵を描いていました。二人は二年後に結婚し、同年光太郎は処女詩集『道程』を上梓しました。

僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる

で始まる表題作は有名ですね。雑誌掲載時は102行ありましたが、詩集『道程』に掲載された時、カットされて9行になりました。

智恵子との出会いにより、光太郎は長いデカダンの闇から抜け出し、彫刻に没頭します。

1916年(大正5)の『智恵子の首』に始まり『裸婦坐像』『女の首』『手』など。なかにも『手』はロダンの影響を受け、ブロンズの手でありながら生々しく脈打つような、力強い造形で光太郎の代表作です。

1918年(大正7)ロダンの訃報をきいてショックを受けますが、以後はロダンから離れた、独自の彫刻を模索し、また詩作にも励み、

智恵子との結婚生活も充実したものでした。

しかし、関東大震災後から智恵子は精神を病み、1938(昭和13)亡くなります。三年後、光太郎は智恵子の思い出をつづった『智恵子抄』を発表します。それは光太郎と智恵子、二人が過ごした時間の証明でした。「レモン哀歌」は今なお愛唱されています。

太平洋戦争中、光太郎は戦争を賛美する詩を多く書きました。戦後はその反省から岩手県花巻郊外の太田村で7年間引きこもり、その生活を『暗愚小伝』という詩にあらわしました。

浅草オペラの流行

浅草では庶民の間で「浅草オペラ」が大流行しました。

日本におけるオペラの歴史は東京帝国劇場に設けられた歌劇部から始まり、イタリアから演出家ローシーを招いて本格的なオペラを上演しました。しかし高尚すぎて一部の知識層しか取り込めず、1916年(大正5)閉鎖されました。ついでローシーが立ち上げた赤坂ローヤル館も1918年(大正7)に閉鎖されました。

本格的な、本場のオペラばかりでは商売にならない。その反省から、笑いを取り入れたり、身近なネタをからめたりして、庶民の感覚に近づけました。

こうして生まれたのが浅草オペラです。

田谷力三(たや りきぞう)、原信子、秋月正夫、藤原義江などのスターが生まれました。

浅草オペラは低俗だ、内容が薄いという批判も当時からありました。しかし、庶民の間に西洋音楽の楽しさを伝えた功績は大いに評価されるべきでしょう。

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