世界恐慌下の日本

本日は「世界恐慌下の日本」について。

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昭和5年(1930)、浜口内閣の下、日本は金本位制に移行しました。結果、金の海外流出がすすみ、不況がすすみました。折からの世界大恐慌の影響もあって、日本経済は壊滅的な打撃を受けます。

前回、「張作霖爆殺事件」からの続きです。
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa06.html

金本位制への移行

大正末期から昭和のはじめにかけて。

日本は長い不況に苦しんでいました。

第一次世界大戦中の大戦景気はしょせん水物であり、戦争がおわって(1918年)ヨーロッパ諸国が復興すると、輸出市場はなくなりました。

その上、関東大震災(1923年)が首都圏を襲い、震災後に濫発した震災手形もあって経済はグチャグチャになり、

時代が昭和にかわる(1926年)とともに、金融恐慌が襲い、全国の銀行が次々と倒産しました。

田中内閣の景気刺激対策は失敗し、昭和4年(1929)には完全に行き詰まりました。物価は上がり、為替相場は低落し、輸出輸入ともにふるわず、倒産件数が増え失業者があふれました。

なぜ為替相場が不安定になったのか?

それは、歴代の内閣の行った「景気対策」とは、ようするにお札をバンバン印刷することだったので、

日本円の価値が下がり、国際社会から信用されなくなっていたわけです。

ここらで仕切り直す必要がある。

為替の不安定に苦しんでいた銀行や商社は金本位制への移行を望みました(金解禁論)。

金本位制とは貨幣価値を金の値段を基準としてしめすものです。

第一次世界大戦中に世界のほとんどの先進国は金本位制をやめ管理通貨制に切り替えましたが、大戦後、ふたたび金本位制に復帰していました。この頃すでに世界のほとんどの先進国が金本位制でした(現在はほんどの先進国が管理通貨制)。

日本もその波に乗り、世界のスタンダードたる金本位制に移行することで日本円の信用をあげようとしたわけです。

ただし、金本位制にも弱点があります。

お金の価値=金の保有量なので、前提として国家がそうとうに金を保有していなければならないこと。金の保有量以上の金は動かせないこと。

外国から金を買われて海外に流出すると、日本国内の金保有量が減り、日本がどんどん貧乏になっていく恐れがありました。

昭和4年(1929)7月2日、田中内閣が張作霖爆殺事件の責任を負う形で総辞職し、浜口雄幸内閣が発足すると、蔵相井上準之助の下、金本位制移行の準備にとりかかります。

金本位制移行にともなう一時的な不況の波にそなえて緊縮予算案を組むなどしつつ、

昭和5年(1930)1月11日、予定どおり金本位制へ移行しました。

この日、各地の銀行には営業開始とともに預金者が押しよせ紙幣を金貨とかえました。午後にはデパートで金貨で買い物する者がありました。

世界恐慌の波がじわじわと迫っている時期でした。金解禁によって景気がよくなるかも…庶民もそう考えて、よくわからないながら金解禁を受け入れました。

しかし。

そんな庶民の期待は、無惨に打ち砕かれます。

結果として金本位制への移行はただでさえ弱っていた日本経済にとどめを刺しました。

為替の不安定によって輸出も輸入もふるわないことに加え、ようやく重化学工業化の波がきていたといっても

多くの日本企業はまだ手工業の域を出ておらず、外国と対等に戦えるだけの競争力を持ちませんでした。

そこにいきなり外国との競争原理が持ち込まれたのは、

素人がいきなりプロボクシングのリングに上げられたようなものでした。

しかも、

浜口内閣が金本位制への移行を公布した約一月前の1929年10月24日、アメリカウォール街で株価が大暴落しました。いわゆる「暗黒の木曜日」です。

これはやがて来る世界大恐慌の幕開けでした。しかし浜口首相以下、日本の政治家たちは所詮対岸の火事とみて、楽観していました。

結果、よりにもよって「暗黒の木曜日」の一ヶ月後に金本位制に移行するという愚挙をやってのけました。

金解禁後、欧米列強は日本に次々と送金し、金を買取りました。結果、国内の金がどんどん外国に流出します。昭和5年だけでも2億8800万円ぶんの金が流出し、昭和6年に入っても流出は止まりませんでした。

そのうちに世界恐慌の波が押し寄せ、イギリスがまず金本位制をやめます。

昭和6年(1931)9月に満州事変が起こりますが、

この頃から日本でも「金本位制は無理があった」「やめるべきだ」という声が出てきます。

金本位制をやめるとなると円の価値が下がるのは必定なので、それを見越して内外の投資家がドル買いを進めました。結果、いよいよ金が海外に流出します。

昭和6年(1931)12月の政変で若槻礼次郎内閣が倒れ犬養毅が首相になると、大蔵大臣の高橋是清は12月13日、金の再禁止に踏み切りました。

昭和5年から6年まで、4億3300万円ぶんの金が海外に流出しました。金本位制は日本にとって何一つ得ることのない、愚策でした。

世界恐慌の日本への波及

昭和6年(1931)に入ると日本にも世界恐慌の波が押し寄せました。物価の下落(デフレ)がすすみ、株価は下がり続け、消費は冷え込みました。

失業者が増え農村は貧困になり、国民の購買力が落ち、銀行は国内企業に金を貸さなくなり、ドル買いや海外への投資に向かいました。結果、ますます不況が進むという悪循環でした。

1930年代初頭の日本経済は、まるで底なし沼に引き込まれたかのようでした。

こうした苦しい状況は、やがてファシズムが台頭してくる土壌ともなります。

国民生活も破綻しました。

中小企業は潰れまくり、夜逃げが増え、町に失業者があふれ、儲かるのは質屋ばかり。

大学を卒業しても就職先がなく、「大学は出たけれど」が流行語になりました。

職業紹介所には朝の2時3時から人が押し寄せ、それでも職にありつけるのは数人に1人。

サラリーマンの賃金は下がりボーナスは無くなり、民間だけでなく役場や学校など公務員でさえ、給料の未払いや遅配が進みました。

栄養失調の子供がふえ、

農村では米やまゆといった農産物価格の暴落により生活は極貧となり、娘の身売りがふえました。

「娘身売の場合は当相談所へお出ください」の札が役場前にかかげられました。まともな奉公先が見つかることはまれで、大部分は売春婦にされました。

最上郡西小国村の報告では、15歳以上24歳以下の若い娘467人のうち、23%の110名が売られたとされます。

このような農村の惨状は、昭和10年頃まで続きました。

次回「ロンドン軍縮会議と浜口首相の遭難」につづきます。

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