済南事件

本日は「済南事件」について語ります。

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済南事件。

昭和3年(1928)5月、中国の内乱にともない居留民保護のために出兵した「第二次山東出兵」のさなか、日中両軍が衝突した事件。

前回「山東出兵」から続きです。
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蒋介石の下野

1927年8月13日、蒋介石は南京政府主席の位をみずから下りました。

北伐は順調に進んでおり、南軍の勝利はいまや疑いがないこと、前々から、自分がいるために国民政府内で対立が深まっていることを考えた結果でした。

自由な身になった蒋介石は、ひとまず東京に向かいました。

昭和2年(1927)9月22日、蒋介石は参謀らをしたがえて来日し、11月5日、青山の首相官邸で田中義一首相と会談。

田中首相は北伐の時期について、揚子江以南を統一してから行うべきだと蒋介石に意見を伝えました。

北伐の再開

しかし、蒋介石去って後の国民政府(南京政府と武漢政府の連合政権)は…さっぱりまとまりませんでした。相変わらず不毛な内輪争いばかり続けていました。

それで、汪兆銘から蒋介石に、もどってきてくれと要請があり、蒋介石はヨシキタと、昭和3年(1928)1月4日、「国民革命軍総司令官」として返り咲きます。

2月、蒋介石は馮玉祥(ふうぎょくしょう)、閻錫山(えんしゃくざん)らと話し合ってふたたび北伐軍を組織し、4月10日、北伐が再開されます。

中国の内乱はふりだしにもどり、済南の日本人居留民は、またも危険にさらされることとなりました。

第二次山東出兵

済南総領事や青島総領事から居留民保護のための再度の出兵要請が外務省にとどくと、

昭和3年(1928)4月17日の閣議で出兵が決定し、19日の閣議までに具体的な派兵規模が決まりました。

・天津から歩兵三個中隊
・内地から歩兵八個大隊

のべ5000人規模。

その後、形式どおり田中首相より天皇への上奏が行われ、参謀総長よりの命令が下され、第二次山東出兵が始まります。

田中首相は今回もできるだけ長く青島に軍勢をとどめおき、いよいよ危険という段になってはじめて済南へ兵を進めるという方針を取りました。(青島の西約350キロに済南)

済南周辺
済南周辺

張作霖の北軍にも蒋介石の南軍にも肩入れせず、邪魔もせず、やむをえない場合以外は武力を使わないという方針も、前回(第一次山東出兵)のままでした。

中国政府や欧米列強からの「日本は中国侵略をたくらんでいる」という批判をかわすためだったもありましたが、

そもそも田中首相の対支那政策は一貫性を欠き、動きがにぶいです。単なる優柔不断から様子見していたという面もあったと思います。

その間、中国の内乱は激しさをましていました。各地で(張作霖の)北軍は破られ、(蒋介石の)南軍が済南近くまで押してきました。

昭和3年(1928)4月26日未明より日本軍は順次、済南に到着。居留民の歓迎を受けました。

5月1日夜半、南軍総司令蒋介石が済南に到着。すでに日本軍が済南に入城して治安維持にあたっているところに、蒋介石の南軍が入城してきたわけです。

ふつうなら日本軍と南軍の間に衝突がおきそうなところです。

しかし日本軍も南軍も統制が取れており、相互に多少のすれ違いはあったものの、大きな問題は起こりませんでした。

昭和3年(1928)5月2日は緊張に包まれながらも無事にすぎ、5月3日午前、西田総領事代理が蒋介石と会見。日中関係の親密なることを切望しあいました。

済南事件

しかし。その友好的な会見が行われてるまさに同じ頃、日中両軍の間に戦闘が始まっていました。

発端は、日本側の見解と中国側の見解は食い違います。

日本側の見解では南軍兵士が日本人居留地で略奪を行ったことが発端といい、中国側の見解では日本兵が支那兵を射殺したのが発端といい、

今日まで決着がついていません。

私はこの件については、日本側の見解のほうが事実に近いだろうと思います。

なぜならば、

日本側の記録が詳細かつ具体的であるのに対し、中国側の記録は曖昧かつ矛盾が多い上に、大げさな文学的表現が多いこと、

蒋介石の率いる南軍は訓練を受けた近代軍隊ではなく、組織の統制も取れていなかったことから、

私はこの件に関しては中国側の見解は信ずるに足りないと考えます。

とはいえ中国側の見解がまったくの嘘であるという証拠もないので、

検証は専門家の先生方の研究にゆだねたいと思います。

……

戦闘はすぐに済南商埠地(外国人居留地)内のあちこちに飛び火し、日中両軍の間で戦闘が行われました。

一時は暴動のような騒ぎとなりましたが、3日午前11時には日中双方の間で停戦交渉が行われ、日中双方の各部隊に停戦命令が発せられました。

しかし、命令が行き渡るには時間がかかり、翌4日午前11時ころ停戦協定が成立するまで、各地で激しい戦闘が続きました。

この間、日中両軍が「残虐行為」を繰り返したとされます。暴行・略奪・婦人への陵辱などです。

ただし日本側は南軍の「残虐行為」を多めに見積もり、南軍側は日本側の「残虐行為」を多めに見積もっていることも、例によって、例のことです。

3日、済南事件勃発の事が陸軍中央部に伝えられると、4日、緊急閣議が開かれ、結果、済南への兵力増兵が決議されました。

その夜、日中双方に停戦協定が成立した事が陸軍中央部に伝えられ、軍部も、政府も胸をなでおろしていました。

しかし翌5日に入って、日本人居留民が支那兵によって虐殺された旨が伝えられます。同日午後の閣議で田中首相は、

「今後増兵する場合には徹底的にわが要求を貫くために、大々的に出兵する覚悟が必要である」

と強い姿勢を打ち出しました。

南軍との交渉

さしあたって、済南事件の引き金を引いた蒋介石の南軍に、落とし前をつけさせる必要がありました。

5月5日、参謀本部は南軍との交渉条件を立案し、これに現地の第六師団が若干の修正を加えた上で、

5月7日、南軍の外交部長趙世瑄(ちょうせいせん)を第6師団司令部によびつけて、黒田参謀長より趙世瑄に交渉条件を手渡しました。

1 騒擾および暴虐行為に関係した高級武官の処刑。
2 日本軍の面前で抗争した部隊の武装解除。
3 一切の排日的宣伝そのほかの禁止。
4 南軍は済南および膠済(こうさい)鉄道両側沿線20支里(10キロ)以外の地に隔離。
5 以上の実行を容易にするため12時間以内に辛庄(しんしょう)および張家庄(ちょうかしょう)の兵営を開放する。

以上、12時間以内に返答せよ。

…という、非常に厳しい条件を南軍につきつけました。

趙世瑄はこれを読んで「色を失い」ましたが、とにかく南軍司令部に帰って蒋介石に報告すると、

翌8日、蒋介石より第6師団司令部に「日本側の条件を受け入れる」と回答がきました。

ただし、1の「騒擾および暴虐行為に関係した高級武官の処刑」は日本側も行うこと。

2の「日本軍の面前で抗争した部隊の武装解除」は狭い範囲に限ること。

南軍の一部地域への駐屯を認めること。

などの希望条件をつけてきました。

福田第六師団長は蒋介石の希望条件をすべて拒否し、ここに交渉は決裂しました。

第三次山東出兵

昭和3年(1928)5月8日、第六師団は済南への攻撃を開始。

同日午後の閣議で、済南への増派(追加の派兵)が決議され、名古屋の第三師団が派兵されることになりました。

ここに第三次山東出兵が始まります。

このころ、張作霖はもはや蒋介石の北伐軍(南軍)に勝てる見込みがなくなり、6月3日、列車に乗って北京を出発。故郷奉天に向かいました。

6月4日早朝、南満州鉄道との立体交差にさしかかったところで高架線を爆破され、列車は炎上。張作霖は死亡しました。関東軍の謀略によるものでした。

「張作霖爆殺事件」については次回詳しく語ります。

済南攻撃

翌5月9日までに済南郊外の南軍を一掃し、済南城に砲撃を浴びせかけます。

6月5日、第三師団が青島に上陸。すぐに済南の第6師団と合流。

11月早朝、日本軍が済南城を占領し、戦闘は終わりました。

ここまでしなくても日本側の要求はほとんど通っていたのに、敢えて武力行使を行ったのは、日本にたてつくとこうなるぞという見せしめと、

なかなか追加の派兵に踏み出さない日本政府の尻を叩く意図があったでしょう。

これについては、日本側からも批判が上がりました。

「わが軍隊が支那軍の攻撃に先立ち、まず我より発砲したるはいかに考えうるも居留民保護の範囲を超越している」と。

その後、日本政府と国民党政府(南京政府)の間で交渉が続き、最終的には損害賠償は相殺、謝罪はなしとなり、

つまり日本側が最初にしめした強気な条件から大きく譲歩する形で昭和4年(1929)3月28日に正式文書が調印されました。

これら三度の山東出兵および済南事件により中国民衆の間に、反日感情がいよいよ高まりました。

次回「張作霖爆殺事件」に続きます。

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解説:左大臣光永