山東出兵

本日は「山東出兵」について語ります。

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前回「初の普通選挙」から続きです。
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山東出兵。昭和2年(1927)から昭和3年(1928)にかけて、田中義一内閣の時、中国で蒋介石の国民政府軍が北伐を開始したのにともない三度にわたって山東に出兵した出来事。

当初の目的は山東省済南の日本人居留民の保護だったが、昭和3年(1928)5月に日中両軍が衝突した「済南事件」の後は、あきらかに「居留民保護」の範囲を超えた武力行使が行われ、中国民衆の間に反日感情が高まる結果となりました。

※「山東出兵」は第一次から第三次まで三回行われ、それぞれ意義が異なります。本日は第一次山東出兵を中心に語ります。

1920年代の中国情勢

1920年代の中国(中華民国)は蒋介石の南京政府による全国統一が進んでいましたが、いまだ各地に軍閥が割拠する、戦国時代ともいえる情勢でした。

※軍閥…国内の各地に割拠し、特定地域を支配する勢力のこと。中華民国成立後の1912-1928年は特に軍閥による内乱がつづいたため「軍閥時代」とよぶ。

さらに、1915年の「対華二十一箇条要求」以後、中国各地で反日感情が高まり、日貨排斥運動が起こっていました。

若槻内閣外相、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)は中国に対して、逆らわず、争わず、不干渉という立場を取ったため、

「軟弱外交」といって批判されました。

一方、田中義一率いる政友会は対華強硬路線でした。

昭和2年の政友会臨時大会における田中義一の演説に、その姿勢がよくあらわれています。

「中国情勢が現在のような混沌としたことになることは、我々は前からわかっていた。軟弱外交が原因である。

内政不干渉、などと言ってる場合ではない。

とくに支那の赤化(共産主義化)は大問題である。支那の内政問題ですませられない。全東亜にとっての、ひいては全世界にとっての危機である。

わが帝国は自衛の意味からも、東亜全体の平和維持の責任からも、黙っていてはいけない」と。こういう姿勢を打ち出しました。

昭和2年(1927)4月、若槻礼次郎内閣が金融恐慌の責任をとる形で総辞職し、田中義一内閣が発足しました。発足直後に田中首相は対支那方針を語ります。

・支那国民の正当なる要望に対しては、深い同情を有する。

・支那国民が要望を達成するための手順については、シナ国民に反省と熟慮を求める。

・支那における共産党の活動如何によっては、わが国の立場として、また東アジア全局に重大なる責任を感じている日本の立場として、無視できない。

言葉を慎重にえらんではいますが、中国に対する強い領土欲が見え隠れします。

第一次山東出兵

昭和元年(1926)7月、蒋介石の南京政府(国民党右派)と汪兆銘の武漢政府(国民党左派+共産党)は、北方軍閥を倒すため北伐の軍を起こしました。

ただし南京政府と武漢政府も手を結んだわけではなく、スキあらばお互いを倒そうと目論んでいました。

いわば、南京政府、武漢政府、北方軍閥の三つ巴状態でした。

南京政府…蒋介石。国民党右派。反共。
武官政府…汪兆銘。国民党左派。共産党員をふくむ。後に反共に転じ共産党員を追放。

こうした1920年代の中国情勢は非常にわかりづらく、難しいのですが、

事の本質は「中国は広すぎる」ということだと私は思います。

中国の歴史上、あの広すぎる国土を、一つの国家なり勢力が支配していた時期、というのが、むしろ短いわけです。

いくつかの勢力が入り乱れ、戦争したり同盟したりを繰り返す、いわゆる群雄割拠の状態こそが中国のスタンダード状態といえます。

中にも、1920年代の中華民国で起こった内乱は激しく、各地で軍閥(地方勢力)が割拠したため軍閥時代とよばれます。

……

1927年5月末には蒋介石の北伐軍は徐州(江蘇省徐州市)を占領しました。

田中内閣はそれまで中国の内乱に対しては慎重に距離を置いていましたが、徐州の北300キロ、山東省済南には2233人の日本人居留民がいました。

南北両軍がこの付近で戦争すれば、日本人が犠牲になります。

済南周辺
済南周辺

済南は海から600キロも離れ、海軍による保護が期待できないため、陸軍によるはやめの居留民保護が必要でした。

昭和2年(1927)5月28日、

田中義一首相および鈴木荘六(そうろく)参謀総長はそれぞれ別に参代し、山東出兵を天皇に上奏しました。

同日、鈴木参謀総長は関東軍司令官武藤信義(のぶよし)大将らを招き、命じます。

「関東軍からまず歩兵第33旅団を青島(チンタオ)に派遣せよ。青島についたら済南前進に備えて待機せよ」

「ただし」

「武力の使用は、国家および国軍の威信を保つため、もしくは任務達成上、やむをえない場合に限る」

政府の方針は、今回の目的はあくまでも居留民保護である。日本軍は北軍(張作霖)、南軍(蒋介石)のいずれにも肩入れしないし、妨害もしないという方針を立てました。

ここに第一次山東出兵が始まります。

日本軍上陸

昭和2年(1927)5月31日、満州の歩兵第33旅団は大連から出港し、青島に入港しました。

6月1日、歩兵第33旅団は青島市内に入り、済南総領事からの連絡を待ちます。

同日、蒋介石の南京政府、汪兆銘の武漢政府、張作霖の北京政府はそれぞれ別個に日本へ抗議してきました。

この出兵は中国の主権侵害であり条約違反だと。

日本側が、これは侵略ではない。居留民の保護がすめばすみやかに撤退する。支那のどの政府にも肩入れするつもりがないと説明すると、

張作霖の北京政府、蒋介石の南京政府はすぐに納得しましたが、共産党員の多い武漢政府はなかなか納得しませんでした。

また中国の民意も、山東出兵に反発していました。これは内政干渉だ。これによって日中両国の関係は破壊されるだろうと。

6月に入ると各地で日貨排斥運動、国交断絶運動が起こります。日本人の経営する店の窓が割られたりしました。

その間も蒋介石の南軍と、張作霖の北軍は日本軍そっちのけので各地で内戦を続けていました。

7月4日、ようやく済南への派兵が決定。7月6日、鈴木荘六参謀総長から歩兵第33旅団に派兵命令が伝えられました。

7月7日早朝、歩兵第33旅団は青島に一個中隊だけを残し、順次出発。翌8日、済南に入りました。

中国の新聞はこぞって日本を非難しました。ついに日本が野望をむき出しにしたと。反日運動もいっそう激しさをましました。

とくに上海では反日運動が激しく、対日経済絶交大同盟なるものが組織され、日本製品の輸入を厳しく取り締まりました。

撤兵

そのうちに、武漢政府と南京政府が「反共」(反共産主義)の旗印のもと対立を弱め、北伐も停止しました。

ひとまず済南の日本人が危険にさらされる心配はなくなったわけです。

すると南京の国民政府から、上海の日本領事館に連絡がとどきました。

「(もう戦争の危機は去ったのだから)日本軍はすみやかに撤兵せよ。済南居留民の生命財産の安全は国民政府は力を尽くしてこれを保護する」と。

日本軍としても、北伐が停止し居留民の危機が去った以上、山東に居座る理由はありませんでした。

昭和2年(1927)8月24日の閣議で撤兵が決議され、30日から順次撤兵が行われました。一部は青島から満州へ。一部は青島から内地に引き上げていきました。

当初の目的であった「居留民保護」はとくに行われませんでした。その必要がなくなったので。

こうして第一次山東出兵は終わりました。日中の衝突は
ほとんど起こらず、済南の居留民も無事でした。

北伐の停止、というまったくの偶然に助けられたとはいえ、第一次山東出兵における田中内閣の采配は、危機管理という意味から一定の評価をしてよいと私は思います。

東方会議

さて、第一次山東出兵と相前後して、

昭和2年(1927)6月27日から7月7日にかけて、田中内閣は東京霞が関の外務省に日本・中国・朝鮮駐在の官憲全員を集めて、アジア問題を話し合わせました。

いわゆる東方会議です。

会議の内容は(中心人物であった外務次官森恪(もり かく)によると)、

・満州の主権は支那にあるが、支那にだけあるのではない。日本にも参加する権利がある。

・満州の治安維持には日本があたる。満州は日本の国防の第一線だから、日本が守る。

・満蒙の経済的発展においては機会均等、門戸開放を旨とする。

・これらを実行するのに障害があれば、それが支那からくるものでも、ロシアから、アメリカからくるものでも、日本は国力をもってこれに反抗する。

・とにかく、満蒙のことは日本が主体となってやる。

というのが要点でした。

日本は現状、条約(九カ国条約)によって行動に枷をはめられている。だからその枷を精神的に叩き壊さなくてはならない。

その第一歩として日本人が満蒙において自由に行動できる権利を手に入れなくてはならないという考えが根底に流れています。

田中上奏文

東方会議終了直後、「田中上奏文」なる怪文書が世をさわがせました。

これは田中首相による朝廷への上奏文という形式をとっており、

「支那を征服せんと欲すれば、まず満蒙を征服せざるべからず。世界を征服せんと欲すればまず支那を征服せざるべからず」にはじまる4万文字もの上奏文でした。

中国を足がかりに全世界を日本の支配下に置くための壮大な作戦を論じていました。

しかしこの「田中上奏文」はまったくの偽物というのが現在の定説です。

日付や事実関係に間違いが多いこと、上奏文の形式として信用がおけないことから、何者かが偽作したものであるというのが定説です。

しかし中国、アメリカ、ソ連は折しも進行中であった第一次山東出兵とからめて、この怪文書を「田中メモランダム」とよんで、騒ぎ立てました。

これこそ日本が侵略の意図をもっている証拠であると!

「田中メモランダム」は中国の新聞に事実であるとして発表され、また日本共産党の手で逆邦訳され、日本叩きの絶好の材料とされました。

次回「済南事件」に続きます。

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