新選組 第04回「沖田総司と試衛館の面々」

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

沖田総司の少年時代

沖田総司は天保13年(1842年)
奥州白河藩士沖田勝次郎の長男として
江戸の白河藩下屋敷(したやしき)に生まれます。

近藤勇と土方歳三が農民出身で武士に憧れを持っていたのに対し、
沖田総司は生まれながらに武士の子だったわけです。

幼名を惣次郎といいました。ミツ、キンという二人の姉がいました。
母は名も経歴も不明で、
おそらく総司が生まれてまもなく亡くなったと思われます。

沖田家の家禄は2俵2人扶持という低いもので、
生活は楽でありませんでした。

弘化2年(1845年)総司が4歳の時、父勝次郎が亡くなります。

長男の総司はまだ4歳と家督を継ぐには幼かったせいか、
ここで沖田家は婿養子を迎えます。
長女ミツが日野宿の農民井上林太郎を婿にとって、
林太郎が沖田家の家督を相続します。

その後次女のキンも嫁に出たので、
総司は天然理心流三代目として試衛館道場を営む
近藤周助のもとに里子に出され、
内弟子として住み込むようになります。9歳の時でした。

長男でありながら跡取りではない。

複雑な立場です。

年齢的にも多感な時期ですから、
いろいろと思い悩むこともあったかもしれませんね。

しかし総司は孤独をふりはらうように剣術の修行に没頭し、
メキメキと腕を上げていきます。

「エイヤア、エイヤア、」

「おお、沖田くん。
今朝も朝から精が出るなあ」

「あっ近藤先生、おはようございます。
まあ外にやることもないですからね」

「なんだ若い者が寂しいこと言うじゃないか。
沖田くん、懸想している女子でもおらんのかね?」

「よ、よしてください近藤先生。私は剣一筋ですよ」

現在の四谷にある試衛館跡地を歩いていると、
そんなやり取りも聞こえてきこうに思います。

沖田は内弟子ということで、住み込みですから、
自然と剣の修行にうちこむ時間も長くなり上達も早いものでした。

沖田家の文書によると、12歳の時には白河藩の剣術指南役と
立ちあって勝利したということです。
もっとも年齢は少しサバ読んでるのかもしれませんが…。

沖田総司の剣術

さて沖田の剣術は「突き」に特徴がありました。

刃を外に向けてまず稲妻にような強烈な突きをヤッと突き、
手ごたえがあってもなくてもその突き出した刃を
糸を引くようにひっこめ、ヤッとまた一突き、
またスッと引っ込めて、ヤッと三突目を繰り出します。

ヤッ、ヤッ、ヤッ。

これら三回の突きが一連の流れになって、
対戦相手にたたきこまれると、

ドダーーッ

と、敵は吹ッ飛ばされ、

ま、まいったーー

となるわけです。

立ち会いにおける沖田の掛け声は、
師の近藤と同じく、高く、細く、するどいものでした。
剣術の型においても、声においても、
師の近藤の影響を強く受けました。

なにしろ沖田は道場住み込みで、通いではないので、
自然と、近藤の影響を受けることも大きかったわけです。

近藤勇の道場 試衛館は
そう儲かっているわけではありませんでしたが、
それでも近藤は何人もの食客(居候)を出入りさせていました。

そんな近藤を慕ってか、よほど居心地がよかったのか、
個性的な面々が試衛館には集まりました。

山南敬助

山南敬助は近藤より1歳年上で仙台藩出身です。

近藤勇と立会いを希望し、打ち負かされて以後、門弟となりました。
もともと北辰一刀流と小野派一刀流を学んでおり、
そのため天然理心流を覚えるのも早かったといいます。

沖田総司とともに武州各地に剣術を教えに出向きました。
性格は温厚で人に好かれ、近藤は信頼していました。

藤堂平助

藤堂平助は北辰一刀流を使ったといわれ、
自分を津藩主・藤堂泉守の落とし種だと言いふらしていました。

原田佐之介

原田佐之介は伊予松山藩の足軽出身で、大坂にいた時に、
後の新選組幹部の谷三十郎から、宝蔵院流槍術を学びます。

原田の腹にはいわくがあります。故郷伊予にいた頃ある者と口論になり、

「切腹の作法も知らぬ下郎め」
「なに。切腹ぐらい。ほれこの通りじゃ」

ズバッとやったのでした。

「俺の腹は金物の味を知っているんだ」

原田はそう言ってほかの隊士たちに腹の傷を見せては自慢していました。

斉藤一

斉藤一は江戸の生まれで、経歴に謎が多い人物です。

小野派一刀流の使い手で、人を斬って
京都へ逃げていたところを近藤らと合流し
新選組隊士となったといいます。

しかし一説に試衛館道場時代から近藤や土方と
親しくしていたともいわれます。
明治維新後は警視庁の警察官となり、西南戦争では
警察隊として薩摩軍と戦います。
(いわば戊辰戦争のカタキを西南戦争で討ったような形で…
ドラマチックな生涯ですね)

永倉新八

永倉新八は松前藩出身で神道無念流の使い手です。
18歳で脱藩して、各地で道場破りをしていましたが、
試衛館で近藤勇の人柄に触れ、居座るようになりました。

しかし鳥羽伏見の敗戦につぐ甲州勝沼の敗戦の後、
近藤と意見が対立し、袂を分かち
靖共隊(せいきょうたい)に加わり会津・越後まで戦いました。

明治以降は杉村義護(よしえ)と改名し小樽で大正4年まで生きました。

『新選組顛末記』『浪士文久報告記事』など永倉新八は、
新選組の記録を多く残しました。これらの記録によって、
新選組の活躍が現在に活き活きと伝わっているわけです。
新選組の生き字引的人物です。

試衛館

これらクセの強い面々が集い、
試衛館は毎日にぎわっていました。
稽古の後は輪になってすわり、熱く、攘夷を語ります。
外国人を追い払え、という話です。

中にも永倉新八は酒を飲んではさかんにクダを巻きました。

「癪にさわるのは鳶ッ鼻の毛唐人(けとうじん)よ。
折を見て暗殺してやろうじゃあねえか。なあみんな」

彼らが剣術修行をした試衛館道場は
江戸市谷甲羅屋敷(こうらやしき)にありました。

現在の東京都新宿区市谷柳町25番地で、
坂の途中のマンションのところぽつんと
「「試衛館」跡」と書かれた碑が立っています。

試衛館道場跡 付近
試衛館道場跡 付近

試衛館道場跡 付近
試衛館道場跡 付近

試衛館道場跡 付近
試衛館道場跡

最寄駅は都営地下鉄大江戸線・牛込柳町駅で、
近くには夏目漱石ゆかりの「夏目坂」があります。

夏目坂
夏目坂

三間かける四間、つまり十二坪の稽古場で外に住居がついており、
毎日50名から60名が稽古にやってきたといいます。
50-60人で12坪というのが、もし事実なら、だいぶ狭いですね。

次回「新選組 第05回「浪士募集」」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル