新選組 第05回「浪士募集」

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小石川伝通院
小石川伝通院

浪士募集の知らせ

近藤・土方・沖田ら試衛館道場の面々が日々
稽古に打ち込んでいる中にも、
「天誅」と称して尊皇攘夷派が幕府の役人や開国論者を斬り、
江戸も京都も治安がぶっそうになっていきました。

試衛館の面々も、当然の雰囲気として、攘夷論でした。
中にも永倉新八は稽古が終わると酒を飲んで、

「癪にさわるのは鳶ッ鼻の毛唐人(けとうじん)よ。
折を見て暗殺してやろうじゃあねえか。なあみんな」

などとクダを巻いていました。そんなある日、

「おい、浪士を募集してるぞ」

浪士組募集の話を、
はじめに試衛館道場にもたらしたのは永倉新八でした。

「どういうことだ」
「俺たち、武士になれるのか?」
「まさかそんな簡単に…」

などと言い合いながらも、どうも幕府の真意がわからんということで、
土方、沖田、山南をはじめ原田、井上、永倉も加わり
牛込二合半坂の松平上総介の館を訪ねてます。

「浪士募集といいますが、いったいその真意は何なのですか?」

「いや真意もなにもない。来春には将軍さまがご上洛遊ばされる。
今回募集の勇士は、その警護のため京都守護にあたるものである」

文久3年(1863年)将軍家茂(いえもち)が上洛することが決まっていました。
これは先年、公武合体の証として孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)が
家茂に嫁いだことの御礼と、
朝廷から攘夷実行のお許しを受けることを目的としていました。

しかし、幕府にとって頭の痛いのが京都の治安の悪さです。
この頃尊皇攘夷派の志士たちが
「天誅」と称して殺人事件を起こしまくっていました。
将軍が暗殺されでもしたら、一大事どころではすみません。

松平上総介はこういった事情を、雄弁に、
近藤らに語りました。

帰り道。

試衛館一同は胸躍らせていました。

「本当に武士になれるのかなあ」
「お前、京都って行ったことあるか」
「ないけど…多摩とはずいぶん違うんだろうなあ」

などと言いつつ道場へ帰ると、まず酒を買って、

「いよいよ俺たちの時代が来た!」

その夜は夜通し祝杯を挙げました。

小石川伝通院

小石川伝通院
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小石川伝通院
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小石川伝通院
小石川伝通院

浪士募集を幕府に献策した庄内藩士清川八郎はこの年34歳。

出羽国に生まれ、18歳の時に江戸に出て千葉周作の道場・
玄武館で免許皆伝を取ります。

また安積艮斎(あさかごんさい)の塾に学び、
幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)で学んだ文武両道の人でした。

清河は西国への旅を通じて勤王倒幕思想を持ちます。
幕府はもう限界に来ている。幕府は倒すべきだと。
だから倒幕論者です。倒幕論者である清河八郎が、
幕府のための浪士募集を献策する。

一見、矛盾に思えますが、
この時、清河は胸にある策を秘めていました。

幕府方は清河の策を見抜けず、
まんまと清河の言うがままに浪士募集を始めてしまいます。

文久3年(1863年)2月4日未明。

小石川伝通院の処静院(しょじょういん)には234名の浪士がごった返していました。

伝通院 処静院跡の石碑
伝通院 処静院跡の石碑

伝通院 清河八郎の墓
伝通院 清河八郎の墓

伝通院は徳川家の墓所で、家康の母伝通院(於大の方)や
千姫(徳川秀忠娘、豊臣秀頼正室)の墓があります。

浪士たちは夜明けとともにちらほらと増え始め、
年齢層も20代から60代まで、そのいでたちも様々でした。

その中に近藤ら試衛館のグループもありました。
近藤のほか、土方敏三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、
原田佐之助、藤堂平助、井上源三郎、そのほか12名がいました。

「足りぬ。そんなに金は無い!」

松平上総介は、当初応募者は50人くらいだと聞いていました。
一人頭50両として2500両の予算を見ていました。

しかし250名も集まったときいて、松平上総介は仰天します。

清川八郎は、かき集めるだけ集めよう。数の勝負である、
という考えでした。なので応募条件も
「公正無二、身体強健、気力荘厳の者」という雑なものでした。

ようは「誰でもいいよ」ということです。
それで、こんなに集まってしまったのです。

しかも、予算の問題以上に頭が痛かったのは
、集まった連中のいでたちでした。

坊主頭の者、半天に股引というばくち討ちのような者
、鎖帷子を着込み、筋金入りの鉢巻をした者、
年齢も20代から60代まで、さまざまでした。

「どうするのだ。わしは知らんぞ。もう知らん」

松平上総介は、浪士取締役は辞任してしまいます。
かわりに幕府は鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)を
浪士取締役に任じました。鵜殿鳩翁はこの年56歳。
当時としてはかなりの高齢です。

鵜殿は集まった浪士たちを前に言います。

「諸君らは尽忠報国の志を抱いて集まった者たちだから、
手当が安いからどうこう言う者はないと思うが…
もし不平があるなら、遠慮なく帰ってくれていい」

それを聴いて、

「なんだ50両は嘘だったのか」
「話がうますぎると思った」

立ち去る者もありましたが、大半は残りました。

編成

翌2月5日、

浪士たちは再び伝通院に集められ、道中の注意事項と、
部隊編成が言い渡されます。

230名あまりを1番組から7番組に分け、
それぞれの組の中身をさらに3組に分け、
7組それぞれに数名の小頭を置きました。

近藤は最初3番組に編成させ、後に組替えがあって6番組に移されました。
同じ組に土方や沖田、原田、永倉らもいました。

「なんだ、試衛館組ばかりだなあ」
「これじゃあいつもと変わりませんね」

などと言いあったかもしれませんね。

しかし近藤は道場の頭という地位にも関わらず、平浪士扱いでした。
たとえば五番組の組頭山本仙之助などは、
単なるバクチ打ちです。バクチ打ちが、組頭。
対して近藤は平浪士…。

つまり、天然理心流はしょせん田舎剣法にすぎず、
知名度はその程度のものだったわけです。

一行は板橋から、中仙道を京都めざして出発しますが…
これだけややこしい連中が230名も、ゾロゾロと移動するわけです。
問題が起こらないわけは、ありませんでした。

「なにい。もういっぺん言ってみろ」

芹沢鴨。

神道無念流の免許皆伝で、力量ことにすぐれ、
「尽忠報国の士 芹沢鴨」と掘った大きな鉄扇を握ってパチリパチリやっていましした。

ちょっとでも気に食わないことがあると、
喉が裂けるほど怒号するのでした。まわりはピリピリします。

この芹沢鴨が、板橋を発って三日目の夜、さっそく問題を起こします。

次回「新選組 第06回「浪士隊 中仙道を行く」」に続きます。

解説:左大臣光永

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