新選組 第45回「鳥羽伏見の戦い(一)」

歴史解説「新選組 池田屋事件」

王政復古のクーデター

慶応3年(1867)10月、徳川慶喜は大政を奉還しました。ここに260年あまりにわたる江戸幕府の歴史に幕がおろされました。

とはいえ徳川家は依然として巨大な権力を持っていました。全国に800万石の所領を持ち、また慶喜の官位もそのままでした。

薩摩の西郷隆盛・大久保利通らはこれに不満をたぎらせます。

慶応3年(1867)12月9日。薩摩・長州はじめ五藩が中心となって、王政復古のクーデターが行われ、天皇を上にいただく、新体制が出来上がりました。

同日午後、京都御所内「小御所」で行われた「小御所会議」で、徳川慶喜に全領土と官位を返上させることが決まります。

京都御所 小御所
京都御所 小御所

慶喜としては、徳川の領土は保持され、官位も守られ、新政権下でそれなりのポストを与えられると考えていましたが、

小御所会議の決定は、慶喜の予想にまったく反した厳しいものでした。

「なんだそれは!」
「じゃあ何か!徳川の臣は露頭に迷えというのか!」

旧幕臣の間に不満が爆発します。ともすれば御所に攻め込もうという勢いでした。そこで慶喜は反対派の暴発をふせぐため、二条城を出て大坂城へ移ります。

大坂城 天守
大坂城 天守

大坂城の徳川慶喜

徳川慶喜は大坂城に入るや、軍事と外交の両面において、新政府への反撃を開始しました。

軍事については、幕府直属軍、軍艦、そしてフランスの軍事顧問団を大坂に呼び寄せます。

外交については、フランス・イギリス・アメリカ・イタリア・プロシア・オランダ、六カ国の公司らを引見し、12月9日のクーデターを激しく非難。自分こそが唯一の外交の権限を持ったものだとしました。

六カ国公司は慶喜の言葉を受け入れました。これは諸外国によって、「外交権は徳川慶喜にある」と認められたことになります。京都の新政権に対して、まずは慶喜の大勝利といえました。

その後も慶喜は、新政府に対する攻撃の手をゆるめませんでした。

薩摩の挑発

西郷隆盛は、慶喜の思い通りにはさせじと、旧幕府側を挑発する策に出ます。

益満休之介(ますみつきゅうのすけ)・井牟田尚平(いむたしょうへい)ら薩摩藩士を江戸に遣わし、500名の浪人を使って江戸の市中で乱暴狼藉を働かせました。

さんざん飲み食いして、じゃ、あばよ。
お客さま、お勘定は。ああん。勘定とはなんだ。
新しい時代だぞ。御一新である。御一新であるのだから、
勘定なんて、そんな古い法は知ったことか。
そんなメチャクチャな。なんであるか。文句があるなら、たたっ斬るぞ。
ひいい。などと…暴れまくりました。

薩摩藩邸 焼き討ち事件

12月に入ると薩摩浪人はじめ無頼漢たちはさらに過激になり、ついに市中取り締まりを担当する庄内藩邸に発砲します。

「もう見逃せぬ!」

12月25日、庄内藩兵と幕兵による2000人で三田の薩摩藩邸を取り囲み、「庄内藩邸に発砲した犯人の引き渡せ」と要求しました。

もとより薩摩藩邸では聞き入れるつもりもない。そこで庄内藩兵が発砲したのを合図に、庄内藩兵は四方から砲撃を開始しました。

薩摩藩邸には約150人の藩士・浪士がいましたが、数に数倍の幕府方に攻め込まれ、薩摩藩江戸留守居役の篠崎彦十郎はじめ49人が討死しました。、

12月28日、大坂城に事の次第が届くと、旗本・会津藩・桑名藩は、いきり立ちました。

「薩賊討つべし!」
「このような卑劣、許せるものか!」

もはや慶喜にも、主戦論を抑えることはできなくなりました。

両軍の布陣

慶応四年(1868年)正月1日。

徳川慶喜は薩摩を打つべく、「征薩の表」を発し、諸藩に協力を呼びかけます。

1月2日。

老中格・大河内正質(おおこうち まさただ)を総督に、若年寄並・塚原昌義(つかはら まさよし)を副総督にした1万五千の兵力が大坂を出て京都を目指します。

軍勢は淀でいったん集結し、ここに大本営を置きます。

淀城
淀城

一方、会津藩兵を中心とする旧幕府軍は伏見に集結し、伏見奉行所を本営としました。

伏見奉行所跡
伏見奉行所跡

その中に新選組も加わっていました。

近藤勇は昨年末に篠原泰之進らに襲撃された際、肩を負傷していたので土方歳三が指揮をとります。

「なに!旧幕府軍が大坂を動いた!?」

その報告は、すぐに京都の新政府側に届きます。

「どうあっても、徳川をつぶさねば、新時代は始まりません」
「一気に、叩くべきです」

西郷隆盛・大久保利通はしきりに岩倉具視らの公卿に働きかけ、その日のうちに旧幕府側を追討する決議を得ます。

「戦だ。もはや戦は避けられん!!」

最初の砲撃

正月3日、桑名藩兵や京都見廻組からなる旧幕府軍が鳥羽街道を北へ軍勢を進めていました。

現 小枝橋
現 小枝橋

これに対して新政府側は薩摩藩兵を中心として鳥羽街道の基点である四塚関門から南へ向けて軍を進め、鴨川にかかる小枝橋を渡りました。

鳥羽街道を北へ向かう旧幕府軍。

鳥羽街道を南へ向かう新政府軍。

両陣営は午後4時頃、小枝橋近い赤池(現千本通赤池)で向かい合います。

「我々は慶喜公の無実を朝廷に訴え、君側の奸を除かんがため、京都に上ろうとしているのである。通されよ」

「そのような指示は受けていない。戻られよ」

双方一歩も譲らず、にらみあいが続きますが、旧幕府軍はしびれを切らして二列縦隊で強行突破を図ります。

その時、

ターーーン

薩摩藩兵が放った一発の銃弾を合図に、

ターン、タン、ターン

ドゴン、ドゴーーン

鳥羽・伏見戦跡
鳥羽・伏見戦跡

新政府軍の鉄砲・大砲が、いっせいに火をふきました。攻撃を命じたのは「人斬り半次郎」こと桐野利秋でした。桐野は西郷から、先制攻撃をしかけるよう命じられていました。

鳥羽・伏見の戦い勃発の地 碑
鳥羽・伏見の戦い勃発の地 碑

旧幕府軍はまさかここで戦闘になるとは予想していなかったため、銃弾さえ装填していませんでした。混乱状態に陥りました。

慶応4年(1868)正月3日、これが戊辰戦争の幕開けとなりました。

次回「新選組 第46回「鳥羽伏見の戦い(二)」」に続きます。

解説:左大臣光永