新選組 第03回「土方歳三の少年時代」

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土方歳三 その出生

土方歳三は天保6年(1835年)、
現在の東京都日野市石田に位置する
武州多摩群石田村の農家に生まれます。

父は伊佐衛門。母は恵津(えつ)といいました。

六人兄弟の末っ子で、上には為次郎・喜六(きろく)・大作・
姉にシュウとノブがいました。

農家といっても周囲から「お大尽」と呼ばれるほどの富農でした。

父伊佐衛門は歳三が生まれる前に死んでいます。
長男為次郎は盲目だったため
地元で評判の素人浄瑠璃となるも
次男喜六が家督をつぎます。

天保10年(1840年)歳三が6歳の時に母恵津が死に、
以後歳三は次男喜六夫婦に養育されたということです。

弘化元年(1844年)、歳三の親がわりだった
姉のノブが佐藤家に嫁いだため、
歳三も頻繁に佐藤家に出入りするようになります。

最初の奉公

翌弘化2年(1845年)江戸・上野広小路の
いとう松坂屋呉服店(今の松坂屋上野店)に
奉公に出されますが、どうも商売向きではなかったようです。

松坂屋 上野店
松坂屋 上野店

松坂屋 上野店
松坂屋 上野店

「てめえ、こんなこともできないのかーっ」

バシーーッ

「な、なにしやがる」

「おっ、威勢がいいな。手代が番頭に逆らうのか」

「番頭でも、やっていいことと悪いことがある」

などとケンカになり、けったくそ悪いと歳三は夕闇にまぎれて
上野の店を抜け出し、実家まで9里(36キロ)の道のりを歩いて
帰ってきました。

上野から日野。そうとうあります。しかも11歳にはそうとうの
道のりだったでしょう。歩いたのは根性ですね。

石田散薬

再び歳三が奉公に出たのは6年後の嘉永4年(1851年)です。
歳三は17歳になっていました。
江戸の大伝馬町(おおでんまちょう。
中央区日本橋大伝馬町)で奉公をはじめましたが、
歳三はここでも問題を起こします。

店で奉公している娘と恋仲になり、暇を出されてしまったのです。
すこぶる美男子などと書かれている歳三ですから、
こんなこともあったんですね。

ふたたび日野へ戻ってきた歳三は、姉の嫁ぎ先である
佐藤家に出入りしていました。

といっても、居候の身でぶらぶらしているわけにもいきません。
歳三はたびたび家伝の「石田散薬」を持って武州から甲州へかけて
行商してまわりました。

「石田散薬」は土方家そばを流れる浅川の河原に生える
薬草から作った服用薬でした。

打ち身・捻挫に効果があるとされていました。
面白いことに、
酒といっしょに飲まないと効果がないといわれていました。

歳三はこの「石田散薬」を縦二尺、横一尺の
朱塗りのツヅラ箱に入れて背負い、
当時出入りしていた近所のじいさんと共に、
お得意さんに売ってまわりました。
今でいう、ルートセールスです。

行商にまわる際も歳三は剣術修行を忘れませんでした。
ツヅラ箱にはいつも剣道の竹刀や防具をくくりつけ、
行き先で道場を見つけては飛び込んで他流試合を挑んでいました。

「あっ、トシさんまた来たわね。ほらほら、
寄っていって。商売なんていいじゃない。
上がって上がって。ゆっくりしていってよ」

などと、歳三は行く先々で、特に女性から歓迎されました。
もともと優男な上、後年は不遜な態度にもなりましたが、
この頃はとても愛嬌がよく、モテたのです。

近藤勇との出会い

ある日、姉の嫁ぎ先で、土方は義兄から
近藤を紹介されます。

この時近藤勇17歳。土方歳三16歳。

歳も近いので、すぐに兄弟のように仲良くなります。

「へえ。近藤は農家なのに、
天然理心流を継ぐのか…」

農民でも、武士になれる道がある。

このことが、歳三の心をゆさぶりました。

農家の四男となると、店に奉公に出るくらいしか
食べる道がありませんでした。
しかし歳三は商売にはまるで興味がありませんでした。
自分を活かせる道は、もっと他にあるという気がしていました。
そこへ近藤と出会い、歳三は強く影響を受けます。

「そうだ。武士になって天下に名を上げるのだ」

歳三はいつしか武士になることを強く夢見るように
なっていきます。

次回「新選組 第04回「沖田総司と試衛館の面々」」に続きます。

解説:左大臣光永

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