藤原道長の生涯(二十)無量寿院

こんにちは。左大臣光永です。

先日、粉雪の舞い散る中、新幹線で静岡まで行きました。窓を真横に横切って水滴が走るのが面白かったです。関ヶ原にうっすらと雪がつもり、伊吹山の山頂はふだんから雪をかぶっているのに、ふもとに雪がふっているので、いよいよ真っ白でした。きれいでした。

本日は、藤原道長の生涯(二十)「無量寿院」です。

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2/24(日) 京都で、声を出して読む 小倉百人一首
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進む病

寛仁二年(1018)は道長にとって飛躍の年となりました。三女威子が立后したことにより、長女彰子、次女妍子、そして三女威子と、三人の娘を后として立てたことになります。これは平成の今日にいたるまで道長が唯一の例です。

此の世をば我世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

有名な「望月の歌」は、三女威子立后の日の夜、土御門邸で行われた宴の席で詠まれたといいます。

しかし、道長の病は確実に進んでいました。

年明けて寛仁3年(1019)正月から道長は胸の病に苦しめられます。また、視力が日に日に衰えていきました。糖尿病から併発した白内障と思われます。

「二、三尺相去る人の顔見えず、只手に取る物ばかり之を見ゆ」

二三尺離れた人の顔が判別できず、ただ手に取った物だけが見えるというありさまでした。医者のすすめで魚肉を食べる記事も日記にありますが、はたしてどれだけの効果があったか。

道長が実資に言うことに「近くそなたの顔も見えない」

「夜と昼とではどうですか」「どちらも同じ」そう答えたと。

出家

一時体調は持ち直すも、三月に入ると胸の痛みは増し、視力はいよいよ悪くなりました。もはや俺もここまでか…死をはっきり意識したのでしょう。

寛仁3年(1019)3月21日、道長は法印院源を師として、出家しました。場所は土御門邸内の御堂。法名ははじめ行願でしたが、「革聖」とよばれた行円が開いた行願寺と同じなので、後に行覚とあらためます。

太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子が土御門邸を訪れ、父道長を見舞います。長男頼通はじめ息子たちも、藤原実資も見舞いに訪れました。

道長は実資に語ります。

「出家といっても隠居生活に入るわけではない。これからも月に五六度は帝のご尊顔を拝したい」

道長はすっかり憔悴しており「容顔老僧の如し」であったといいます。何かにつけて道長を批判してきた実資ですが、さすがにこうまで衰えている姿を見ると、涙を誘われたのではないでしょうか。

4月1日の衣更にさきがけ、道長は娘たちに装束を贈り、太皇太后彰子と歌のやり取りをしています。

唐衣花のたもとに脱ぎかへよ われこそ春の色はたちつれ

春の衣に着替えなさい。私は出家の身だから墨染の衣を着て、もう春の色の衣は着ないが。

これを彰子がご覧になって、たいそう泣いて、

唐衣たちかはりぬる春の世に いかでか花の色も見るべき

出家してすっかり変わってしまった春の世に、どうして私一人春の衣を着れましょうか。

道長の歌をきいた和泉式部が、太皇太后彰子に献上して、

脱ぎかへんことぞ悲しき春の色を 君がたちける衣と思へば

春の衣に着替えることは悲しいです。わが君(道長さま)がもう着ることもなくなってしまった春の衣だと思いますと。

東大寺で受戒

寛仁3年(1019)9月29日、道長は東大寺で受戒しました。すでに道長は法印院源を戒師として受戒しているのですが、重ねて受戒とはどういうことでしょうか。しかも院源は天台宗。東大寺は華厳宗。宗派も違います。これについて院源は憤ったといいますが、それで止める道長ではありませんでした。予定通り、東大寺で受戒しました。

同日、興福寺、春日社にも参詣。翌30日、東大寺の宝蔵(正倉院)を開き、宝物を運び出して拝見しました。

道長は東大寺はじめ奈良のいくつかの寺院に参拝しています。それは、やがて造営する寺院の構想を内に抱いてのことでした。

「わが御堂もかやうにせんと思しめす」(『栄花物語』巻第十五)

道長は前々から、土御門邸の隣に御堂を建立したいとの気持ちを持っていたのです。今回の奈良行きで、その気持はいよいよ固まったようです。

無量寿院の造営

寛仁3年(1019)7月17日より、道長は寺院の建立に取り掛かります。寺院の名は無量寿院。ところは土御門邸のすぐ東。まずは阿弥陀仏像とそれを安置する阿弥陀堂の造営を開始。


法成寺(無量寿院)跡

秋から冬にかけて阿弥陀如来像九体が造営され、阿弥陀堂ができるまで、ひとまず土御門邸内に安置することとします。

年明けて寛仁4年(1020)正月より阿弥陀堂の造営にとりかかります。

一日に5、600人ないし1000人の人夫が徴発され、百人もの仏師が造営に携わりました。受領たちも朝廷におさめるべき官物(税)を後回しにしてまで道長のほうにまわしました。

西を見れば東京極大路に資材を縄でくくった力車が行き交い、東を顧みれば鴨川に材木を積んだ筏が船頭の威勢のいい声とともに上がってきます。岩のように大きな礎石を積み込んだため、沈みそうになった筏もありました(『栄花物語』巻第十五)。

翌寛仁4年(1020)3月22日に御堂が完成し、落慶供養が行われました。太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子が行啓し、阿弥陀経三千巻の供養が行われ、盛大な儀式となりました。

阿弥陀堂落成についで、薬師堂・十斎堂・金堂・五大堂・釈迦堂・経堂・鐘楼といった複数の伽藍を二三年のうちに建立していきました。後には五重塔も建てました。

「御堂あまたにならせたまふままに、浄土はかくこそはと見えたり」(『栄花物語』巻第十八)

刀伊の入寇

寛仁4年(1020)4月17日、無量寿院造営にわく平安京に、大宰権帥・中納言・藤原隆家より、驚くべきしらせがもたらされます。

3月下旬に、刀伊国より武装した賊徒が50艘の船で来襲。壱岐・対馬に上陸し、領民を襲い、村々に火をかけたというのです。

壱岐守藤原理忠(まさただ)は殺され、領民はあるいは殺され、あるいは捕虜にされたと。賊徒はさらに本土に上陸し、能古島・博多を襲撃。村々に火を放ち、略奪の限りを尽くしたと。

大宰権帥・藤原隆家は九州の豪族たちと協力し、刀伊軍を攻撃すると、刀伊軍はしだいに押されていきますが、押されると船に分乗して沖へ逃げました。

大宰府軍には船が無いので陸地から遠矢を射掛けるしかできませんでしたが、大風が吹いたこともあり、ようやく刀伊軍は撤退していきました。

この事件を刀伊の入寇(といのにゅうこう)といいます。刀伊とは満州北方の女真族(満州人)のことです。一週間ほどで戦闘は終わり、350人あまりの死者、千人あまりの捕虜が出ました。平安京へは事後報告という形で連絡がもたらされたのでした。

外国からの侵略といえば鎌倉時代の蒙古襲来が有名ですが、蒙古襲来より250年も前に、わが国は外国からの侵略を受けているのです。その歴史的事実を、強く記憶すべきでしょう。

次回、最終回「鶴の林」お楽しみに。

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2/24 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

第六回。66番前大僧正行尊~。

百人一首の歌を会場の皆様とご一緒に大きな声を出して読み、解説します。

歌の意味・背景・歌人の経歴・歴史的背景など、一首一首、詳しく解説していきますので、深く立体的な知識が身につきます。

解説:左大臣光永