藤原道長の生涯(二十一)鶴の林

こんにちは。左大臣光永です。

北野天満宮の節分会に行ってきました。鬼やらい狂言と、上七軒の舞妓さん芸妓さんたちによる日本舞踊が披露されました。ものすごい人だかりでした。

鬼やらい狂言は、鬼が襲ってきて、撃退するまでの流れを狂言にしたものです。壬生狂言と違って、セリフがあるのでわかりやすかったです。日本舞踊も、華やかでよかったです。

一言で節分といっても、寺ごとに、神社ごとに、いろいろなやり方があるのだなと、感心しました。

本日は、藤原道長の生涯(二十一)「鶴の林」です。

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2/24(日) 京都で、声を出して読む 小倉百人一首
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『御堂関白記』の終わり

治安元年(1021)九月一日、念仏十一万篇、
同二日、念仏十五万篇、
三日、念仏十四万篇、
四日、念仏十三万篇、
五日、念仏十七万篇。

藤原道長の日記『御堂関白記』は終わっています。

『御堂関白記』は長徳4年(998)道長33歳の時に書き始められ、治安元年(1021)道長56歳の時に終わっています。

ただし道長は生涯関白に就任しなかったので、『御堂【関白】記』というのはおかしいのです。これは江戸時代以降、よばれるようになった、俗称です。

『御堂関白記』の書き方は自由奔放で、詳しく書いてあるところもあれば、アッサリ流してあるところもあります。誤字が多いことから、道長の、物事にこだわらない性格が見てとれます。

『御堂関白記』は平安時代の風俗習慣を知る上での、貴重な一次資料です。現在、ユネスコの記憶遺産に指定されています。

法成寺

『御堂関白記』以後の道長の生涯は『栄花物語』や『小右記』によってたどることができます。

治安2年(1022)7月14日、無量寿院金堂の落成供養が行われました。この数日前に、無量寿院は法成寺(ほうじょうじ)と名を改められていました。

扁額の文字は藤原行成が書きました。道長が見ると、法成寺の「法」の字の「さんずい」と「去」が離れています。

なぜかと聞かれて行成が答えました。法成寺は鴨川に近いので、水難を避けるために離したのですと。

後年、白河天皇が法勝寺を造営した時も、法勝寺は白河に近いので、藤原行成の例にならって、さんずいを離したと言われます。

後一条天皇、東宮敦良親王も法成寺に行幸・行啓しました。

太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子も行啓しました。

後一条天皇が法成寺の大門に入られると、左右の龍頭鷁首の船に乗った舞人が管弦の音にあわせて舞いました。

「なんと見事な…この世のこととも思われぬ」

感無量の後一条天皇は、やがて中央の阿弥陀堂の中尊を三拝されます。その様子を見て、入道道長は涙にたえず、まわりの人々も涙が止まることがありませんでした。

やがて天皇が金堂に入られると、道長は喜びのあまり、実資に耳打ちして言いました。「臨時の恩赦を行うよう、申し出ました」

ふだん道長に批判的な実資とて、これには大賛成でした。

「今日の御善根未曾有か、赦令を行い奉せらるること、極まりなき慶びの事也。釈尊、法華経を説くの時、眉間に白毫の光を放つ。地獄の衆生の苦を抜く。遥かに彼の事を憶ふに、今日相似たるのみ」(『小右記』)

院源僧都に禄が、御堂の造営に当たった人々にも恩賞が与えられました。仏師の定朝に法橋という特別な位が与えられました。定朝は、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の作者として今日よく知られています。

日暮れ近くになって後一条天皇・東宮敦良親王のご兄弟は帰っていかれました。太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子も帰ろうとしたところ、道長に呼び止められます。

「今夜は泊まって、明日ゆっくりと御堂を拝んでから帰ればよかろう」

そこでお言葉に甘えてと、道長の三人の娘は泊まることにしました。皇太后妍子の皇女・偵子内親王はこの時10歳。大人たちのおしゃべりにまじっていましたが、やがて眠たくなって寝てしまいます。

彰子は、皇女を持たなかったため、女の子がことに羨ましく思われ、偵子内親王のことを優しく見守っていました。

法成寺の境内は玉砂利が真珠のようにしかれ、阿弥陀堂・薬師堂・十斎堂・金堂・五大堂・経堂といった諸堂が立ち並び、まことに極楽浄土のありさまだったといいます。

しかし天喜6年(1058)火事で全焼してしまいました。

『徒然草』の兼好法師が見た時にはその面影もなく、無量寿院(阿弥陀堂)と法華堂がわずかに残っていたといいます(『徒然草』二十五段)。

現在、法成寺は跡形もなく、京都御苑の東の住宅街の一角に碑が立つのみです。

法成寺跡
法成寺跡

法成寺跡
法成寺跡


法成寺(無量寿院)跡

糖尿病

晩年の道長はいよいよ重くなる病に苦しめられました。水を大量に飲んだ記録があることから、糖尿病と思われます。病のせいもあって、信仰心はいよいよ深く、法成寺を中心に、さまざまな仏事の記録が多くなります。

嬉子の出産

万寿2年(1025)8月、赤裳瘡(あかもざ。はしか)が流行しました。中宮威子もかかってしまいました。

そんな中、道長四女の東宮敦良親王后、嬉子が土御門邸にて皇子を出産します。親仁親王。後の、後冷泉天皇です。

慶び祝う親族たち。御湯殿の儀・読書の儀・鳴弦の儀など、出産にかかわるさまざまな儀式も、滞りなく行われました。

嬉子の死

産後、嬉子は気分が悪くなってきました。嬉子も赤裳瘡にかかっていたのでした。赤裳瘡が治った後は、大声を上げてわめく物の怪に悩まされました。病気の体で出産は母の体を確実に蝕みました。

8月5日、嬉子は亡くなります。享年19。娘の遺骸を前に、道長も妻倫子も、途方にくれるばかりでした。翌6日、法興院に亡骸を移し、殯が行われ、葬送は8月15日夜、岩蔭(船岡山の西野)にて行われた後、藤原氏累代の墓・木幡に葬られました。道長は落胆のあまり歩くこともままならず、人に支えられながら進んだといいます。

四女嬉子を見送るにあたって、道長は、

かの世には われよりほかの親やあらむ さてだに思ふ人を聞かばや

あの世には私のほかに親があるのだろうか。さあどんなに嬉子のことを愛しているか、聞いてみたいものだ。私ほど愛しているものはおるまい。

彰子 出家

万寿3年(1026)正月19日、太皇太后彰子が出家します。女院となり、号を上東門院としました。39歳でした。

「現世では最高の幸せを手に入れることができた。しかし来世ではどうなることかと心配していたが、まことに嬉しい。これで安心だ」

道長と倫子は、喜びのあまり、涙をせきとめることができませんでした。

顕信の死

翌万寿4年(1027)。道長は法成寺にて等身不動明王百体の供養をするなど、あいかわらず仏事をさかんに行いました。そんな中、道長をさらなる不幸が襲います。

5月15日、息子たちの中で唯一出家していた顕信が亡くなったのです。顕信は何事か思うところがあったようで、長和元年(1012)、突如比叡山に登り出家したいと言い出し、実際に出家していました。

顕信は出家の三年後に叡山を去り、大原にいましたが、食事を受け付けなくなったので延暦寺根本中堂に二週間こもった後、延暦寺東塔の塔頭・無動寺で亡くなりました。享年34。

顕信は僧としての15年間を、まことに仏のごとく行いすまして過ごしたといいます。それは本来、道長がやりたいとずっと願っていた生き方でした。

皇太后妍子、崩御

不幸は顕信の死にとどまりません。顕信の次は皇太后妍子が亡くなりました。出家とほぼ同時の崩御でした。享年34。

道長は病の体を押して、頼通らと駆けつけると、すでに事切れていました。

「嘘だろう。ああ」

そこで道長は数珠をもんで、「仏も酷い仕打ちをなさることよ!今まで生かしておいて、このような目をお見せになるとは!」

そう言い続けて泣いたと『栄花物語』にあります。

「そらごととこそおぼゆれ。やや」と申させたまひ、御数珠をもませたまひて、「仏の心憂くもおはしますかな。今まで生けさせたまひて、かかる目を見せさせたまふこと」と、言ひつづけ泣かせたまふとも世の常なり。

『栄花物語』巻二十九

道長の最期

相次いで子らを失ったことにより、道長は精も根も尽き果てたようになりました。病はいよいよ悪化します。下痢に加え、背中に悪性腫瘍ができ、医療も受けられなくなりました。病気平癒のための御修法が行われましたが、効き目はありませんでした。

いよいよ死を覚悟した道長は天台座主心誉のすすめで病床を法成寺阿弥陀堂内部に移させます。周囲を六尺の屏風で囲み、人が近づけないようにして、九体の阿弥陀如来像と向かい合いました。

11月26日、後一条天皇行幸。道長は阿弥陀堂にて袈裟姿で脇息にもたれかかって天皇をお迎えしました。祖父道長の憔悴しきった姿をご覧になり、天皇は涙ながらにおっしゃいました。

「なにかお望みはございますか」

「何もございません。昔から今まで、天皇の後見役をつとめた者は多々ありますが、私ほどめぐまれて、なすべきことをすべてなした者はございません。天皇の外祖父や叔父といっても、このような病中に行幸がございますとは、ありがたいことです」

12月4日早暁、亡くなりました。享年はくしくも父兼家と同じ62。臨終後も口が動き、念仏を唱え続けていたといいます。同じ日に藤原行成も享年56で亡くなったのは一つの時代の終わりを感じさせることでした。臨終に立ち会った僧たちは涙を流し、声も惜しまず念仏を唱え続けました。

12月7日、遺骸は鳥辺野で荼毘に付された後、藤原氏累代の墓である木幡に葬られました。葬送の日は朝から夜まで雪が降りしきり、参列者の衣を白く染めました。

入道前太政大臣の葬送の朝(あした)に、人々まかり帰るに、雪の降りて侍りければ、よみ侍りける 法橋忠命

薪尽き雪降りしきる鳥辺野は 鶴の林の心地こそすれ

現在、木幡には丘に面して数十基の墓が残りますが、どれが誰の墓かはわかりません。よって道長の墓もわかりませんが、丘をのぼりつめた住宅街の角にある「宇治陵32号墳」か「宇治陵33号墳」がそれであろうと、推測されています。

木幡 宇治陵32号墳
木幡 宇治陵32号墳

21回にわたって藤原道長について語ってまいりました。いかがだったでしょうか?道長が生きた時代の平安京の面影は今の京都にはまったくと言っていいほどありませんが、わずかに石碑や案内板で、その面影を追うことができます。ぜひこうした話をふまえて京都を歩いてみてください。

次回は「シーボルト事件」についてお話します。お楽しみに。

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2/24 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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第六回。66番前大僧正行尊~。

百人一首の歌を会場の皆様とご一緒に大きな声を出して読み、解説します。

歌の意味・背景・歌人の経歴・歴史的背景など、一首一首、詳しく解説していきますので、深く立体的な知識が身につきます。

解説:左大臣光永