白河口の戦い

こんにちは。左大臣光永です。

近所を紙屋川という川が流れてるんですよ。桓武天皇の昔からある歴史の古い川です。ザバザバザバザバーと、激しい水音を立てて流れてます。細い川です。夜中に、川沿いの道を歩くと、ザバザバザバーと、水音が、なんとも侘びしく、心の臓がきゅーっと締めつけられます。川沿いの家に住んでる人は、四六時中このわびしい水音を聞いてるのかと。夜中ふと目が覚めて、布団の中で、紙屋川の水音を聞くのは、それはどんなに侘びしく、心が締め付けられるかと、想像するだけで、いたたまれないです。

本日は白河口の戦いについて語ります。慶応4年(1868)の東北戦争の中の一幕。前回の「奥羽越列藩同盟の結成」からの続きです。

第一次白河口の戦い

白河城(福島県白河市)は奥州の入り口であり、新政府軍としてはぜったいに抑えておきたい戦略上の要衝でした。来る会津若松城攻略への足がかりともなる城です。

白河城(白河小峰城跡)
白河城(白河小峰城跡)

そこで新政府軍は、仙台藩、二本松藩、棚倉藩、三春藩、泉藩、湯長谷(ゆながや)藩に白河城の守備を命じました。

お前ら、大切な白河の城だ、ぜったい会津に奪われるなよと。わかりました…しかし仙台藩はすでに新政府にそむき奥羽列藩同盟を結成する意思を固めていました。

慶応4年(1868)閏4月19日、仙台藩は白河城を放棄し、勝手に撤退していきます。翌日の閏4月20日、会津軍が白河城を攻撃します。

「会津藩が攻めてきたぞう!」
「うわー怖い!」

ドーーン、ドーーン、
キュン、キューーーン

白河城(白河小峰城跡)
白河城(白河小峰城跡)

白河城を守る二本松藩、棚倉藩、三春藩、泉藩、湯長谷藩からなる守備兵はろくに戦わず、あっさり会津軍に白河城を明け渡しました。仙台藩は事前に会津藩に「我々は19日のうちに撤退する」と、情報を流してありました。つまり、新政府軍の手前、戦うふりをしただけでした。

こうして白河城は難なく会津の手に落ちました。

「なに!白河城が奪われた!さてはわざとか!」

この頃、新政府軍は宇都宮まで迫っていました。しかし北関東各地で旧幕府軍の抵抗を受け、苦戦していました。それでなかなか白河まで戦力を避けませんでした。閏4月25日、参謀伊地知正治以下、薩摩、長州、大垣、忍、土佐藩兵からなる250名がようやく白河に到着。白河城を攻撃するも、会津藩兵・旧幕府軍の抵抗はげしく、撃退されます。旧幕府軍の中には新選組の山口二郎(=斎藤一)がいました。

「新政府軍、恐るるに足らず!」

会津藩は新政府軍の戦死者13名の首を切り、白河城の大手門にさらしました。

その後、仙台藩・棚倉藩・旧幕府軍も白河城にぞくぞくと集まり、新政府軍へ抵抗の構えを取ります。

第二次白河城の戦い

「白河城を取り戻せ!」

薩摩藩兵、長州藩兵、大垣藩兵あわせて700名あまりで白河城奪還を目指して進撃を開始します。

「させるか!」

対して白河城では、白河口総督・西郷頼母(たのも)、副総督横山主税(ちから)ほか、仙台藩兵、棚倉藩兵、二本松藩兵ら、総勢3000名で白河城の守りを固めていました。

ドーーン、ドーーン、
キュン、キューーーン

5月1日朝から、新政府軍が白河城に攻撃をしかけます。新政府軍は数は少ないものの、三方からたくみに攻め寄せ、白河城の列藩同盟軍を翻弄し、切り崩します。

タン、タン、タン、タン、ターン

また新政府軍は新式の連発銃を装備していたのに対し、列藩同盟軍は旧式の火縄銃であり、火力に圧倒的な差がありました。正午ごろ、白河城は落ちました。列藩同盟側は、700人あまりの死者を出して撤退していきました。

奥羽越列藩同盟の結成

こうした状況の中、

5月3日、仙台藩を盟主とする東北諸藩が、奥羽列藩同盟を結成しました。6日、越後長岡はじめ北越の6藩もこれに加わり、奥羽越列藩同盟となりました。

「もう新政府の言う通りにはならぬ!」

彼らは新政府軍の横暴の前に、徹底抵抗の構えを取ります。

七度にわたる白河城奪還戦

列藩同盟軍は白河城の奪還をはかり、以後二ヶ月間、七度にわたって白河城に攻め寄せました。しかしすべて撃退されました(5月26日、5月27日、6月12日、6月24日、6月29日、7月1日、7月12日)。

(こんなはずでは…)
(不毛な戦だ…)

結局、列藩同盟軍は白河城の奪還をあきらめて、撤退していきました。

九条総督の脱出

さて白河城攻略と並行して、列藩同盟内部でも問題が起こっていました。

列藩同盟が旗印として立てたのが、奥羽鎮撫総督・九条道孝です。九条道孝はなかば軟禁状態のもと、無理やり旗印にされていました。九条道孝としては奥羽越列藩同盟など論外であり、敵の親玉にされることは不本意でした。

(もう耐えられぬッ!)

5月18日、九条道孝は「京都に行って奥羽の現状を報告してくる」といって仙台を抜け出し、盛岡を経て、7月1日、秋田藩に迎えられました。すでに秋田入りしていた副総督の沢為量(さわ ためかず)と合流し、秋田を拠点に列藩同盟へ反撃する構えを取ります。

「逃げられたッ!」

地団駄を踏んでももう後の祭りでした。

輪王寺宮の擁立

列藩同盟としては、九条道孝という旗印を失ったので、急遽、新たな旗印を立てる必要がありました。そこで目を付けたのが、輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみや こうげんほっしんのう)です。

「なに、私が盟主に?」
「どうか、よろしくお願いいたします」

輪王寺宮公現法親王は、江戸で彰義隊の旗印として担がれましたが、去る5月15日の上野戦争で彰義隊が負けると、榎本武揚の軍艦に便乗して会津に逃れていました。

6月16日、輪王寺宮は列藩同盟の盟主に就任しました。

(フ…江戸の敵を奥羽で打つか。それもよい)

盟主輪王寺宮以下、総督に仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)、参謀に小笠原長行、板倉勝静という新体制でスタートします。陸奥国白石(しろいし・宮城県白石市)に本部を置き、「公儀府」と称しました。

白石城
白石城

7月10日、輪王寺宮から全国の10万石以上の大名に、令旨が発せられます。君側の奸、薩摩・長州を排除せよと。これは列藩同盟から、新政府への、事実上の宣戦布告でした。

しかし奥州の入り口である白河口を奪われたことは列藩同盟にとって大打撃であり、以後、列藩同盟の結束は崩れていきます。同盟を抜け、新政府に寝返る藩も増えていきました。

次回「二本松少年隊と白虎隊」に続きます。

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解説:左大臣光永

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