奥羽越列藩同盟の結成

こんにちは。左大臣光永です。

1月も後半。いかがお過ごしでしょうか?
私は先日、静岡で新選組の講演をしてきました。
今回は池田屋事件・禁門の変と、特に声を張り上げるところだったので、
二次会のビールが、うまかった!臓腑に染みわたりました!

本日は奥羽越列藩同盟の結成まで。東北戦争の第一ターンとも言うべきくだりを語ります。

松平容保の動向

会津藩主・松平容保(かたもり)は、慶応4年(1868)正月6日、鳥羽・伏見の戦いのさなか、前将軍徳川慶喜とともに大坂城を脱出し、11日に江戸に入りました。

(ああ…これからどうなっていくのか…)

会津藩内では、意見が割れました。

「新政府に、おとなしく従うべきだ」
「いいや戦うべきだ」

正月17日、新政府は仙台藩主・伊達慶邦(だてよしくに)に対して会津追討命令を出しました。同日、秋田、盛岡、米沢各藩にも同じ会津追討命令を出しました。

しかし奥羽諸藩では突然わいて出た薩長の新政府に戸惑います。

「会津を追討?本気かよ」
「どうすりゃいいんだ…」

なにしろ会津とは長年にわたる隣人同志。いきなり「追討せよ」と言わせても、そうですかと動けるわけがありません。

2月4日、松平容保は家督を世子の喜徳(のぶのり)に譲り隠居・謹慎します。また会津藩家老・神保内蔵助の名で、新政府との和平を仲立ちしてくれとの嘆願書を、朝廷はじめ尾張・紀州・肥後・土佐など二十ニ藩に送りました。しかし、新政府ににらまれることを恐れて、返事はひとつも来ませんでした。

2月12日、徳川慶喜は江戸城を出て、上野寛永寺で謹慎生活に入ります。

2月16日、松平容保は江戸を発ち、2月22日、会津若松城に入りました。

2月26日、新政府は左大臣九条道孝を奥羽鎮撫総督に任命。奥羽鎮圧に乗り出します。副総督に沢為量(さわためかず)、参謀に醍醐忠敬(だいご ただゆき)、長州の世良修蔵、薩摩の大山綱良らを任じました。

奥羽鎮撫軍は3月2日に京都を出発。大坂から海路、東北に向かい、3月23日仙台につきました。

会津、新政府軍の攻撃に備える

会津では松平容保以下、新政府軍の攻撃に備えて軍政改革を行います。

年齢別に白虎隊(16-17歳)・朱雀隊(18-35歳)・青龍隊(36-49歳)・玄武隊(50歳以上)の四隊を組織し、総勢7000。新式の銃砲を調達し、フランス式の軍事調練を行いました。これに旧幕府軍も加わり、会津の守りを固めていきます。4月10日、庄内藩と同盟を締結。きたる新政府軍の攻撃にそなえて、着実に防衛体制を築いていきます。

庄内藩の事情

新政府にとって、会津藩とならび気がかりなのが、庄内藩の存在でした。

庄内藩は文久3年(1863)以降、浪士からなる新徴組を指揮下に置き、江戸の市中警備に当たってきました。そのため、特に幕府への忠誠心が強い藩です。

「庄内藩は、かならず新政府に逆らってくる。手を打たねばならん」

新政府首脳部は庄内藩を討伐する口実をさがします。そんな中、

新政府は慶応4年(1868)3月28日に旧幕府領を没収しました。ところがこの時、庄内藩はすでに米沢に前年の年貢米2万3000俵を送っていました。

「これぞ庄内藩が新政府ではなく旧幕府に従っている証拠である。庄内藩は敵である」

ムチャクチャな難癖をつけて、新政府は庄内藩を敵と決めつけ、討伐に乗り出します。

鎮撫軍、仙台で威張り散らす

新政府の鎮撫軍は仙台につくと、仙台藩首脳部に働きかけます。

「会津と戦え。それ以外に仙台藩が助かる道は無いぞ」

「しかし会津と仙台は長年仲良くやってきました。会津は隣人なのです」

「では新政府に逆らうのか」

「いえ、その、そんな」

鎮撫軍は憲兵づくでゴリ押しします。

ついに仙台藩は会津出兵ということで押し切られます。3月27日、1000名の兵が会津国境に向かいました。

「本当に会津と戦するのかよ」
「いやだよ俺は」

兵士たちも、上層部も、士気はふるいませんでした。

会津追討令が出たときいて、会津藩士らは悔し涙に暮れました。

「切歯扼腕せざる者なく、噂の真実なるを知りて怒る者、悲嘆する者、城下に満つ。幼き者とても悲憤やるかたなく、『薩摩の芋侍め、目にもの見せてくれん』と、涙に濡れながら木刀で立ち木を打ち回った」(後に陸軍大将となる柴五郎の回想)

庄内藩追討へ

4月2日、総督府は出羽矢島藩に庄内藩追討を命じました。ついで秋田にも庄内藩追討を命じました。同胞同士で殺し合えというわけです。一方、本隊も動きます。4月14日、副総督為沢量、参謀大山綱良らが200の兵を率いて仙台を出発。庄内に向かいました。

庄内藩に迫る追討軍

庄内藩追討軍は4月14日、仙台を出発。4月20日、天童城下に入り、23日、新庄に拠点を置きます。

庄内藩では最上川沿いの清川口・吹浦口・羽黒山口・六十里越街道などの守りを固め、新政府軍の攻撃に備えます。

4月24日、新政府軍は最上川沿いに軍勢をすすめ、清川口で最初の戦闘がありました。

4月26日、新庄藩兵は六十里街道大網口から藩境を越えて天童に侵攻。天童藩は新政府軍の先導役をつとめていました。最上川をはさんで、新庄藩兵と天童藩兵は向かい合い、にらみ合いが続きますが、

閏4月4日、庄内藩兵は最上川を越えて天童領内に侵攻。天童城を焼き払いました。天童城主・織田信敏(のぶとし)は城を放棄し、仙台に撤退しました。

白石会議

この間、会津藩は新政府軍についた仙台藩と米沢藩に、新政府への謝罪嘆願の依頼を続けていました。交渉は難航しましたが、松平容保の城外退去、および減封という条件で、仙台藩・米沢藩は同意しました。

閏4月11日、仙台領白石(宮城県白石市)で、奥羽列藩の重臣による会議が開かれました。議題は会津の処遇について。

「会津にはできる限り寛大な処置を。その旨、新政府に嘆願する」

ことが決まりました。

翌12日、仙台藩主伊達慶邦(よしくに)と米沢藩主上杉斉憲が岩沼(宮城県岩沼市)で新政府軍鎮撫総督、九条道孝に拝謁します。

「このように、奥羽の諸藩は会津への寛大な処置をと嘆願しております。なにとぞ、ご配慮のこと…」

「とはいえ、ワシの一存ではどうにもならぬ。いったん議論してみよう」

九条道孝は嘆願書を預かり、参謀の醍醐忠敬(ただちか)と世良修蔵に相談します。醍醐忠敬は寛大にやりましょうというも、世良修蔵は、

「松平容保は罪人です。徹底して討伐すべきです」

と、断固拒否。会津征伐を主張しました。閏4月17日、九条総督の名で、嘆願書の却下が告げられます。

「なんたることか!」

奥羽列藩は、この処置に憤慨します。

世良修蔵殺害

閏4月19日、世良修蔵は福島城下の宿、金沢屋にいました。ここで世羅は同志に当てて手紙を書き、福島藩士に託しました。その手紙の中で世羅は、奥羽諸藩はすべて敵である。嘆願を容れて会津を許したら大変だ。一二年のうちに朝廷に対してよからぬことになるだろうと断じてありました。

この手紙を、福島・仙台藩士が手に入れます。

「世良修蔵ゆるすまじ!!」

翌日の閏4月20日、福島・仙台藩士は金沢屋に押し入り、世良修蔵を捕縛すると河原に引っ立てて、切りました。

これにより、新政府軍と奥羽列藩の衝突は避けられないこととなりました。

奥羽列藩同盟・奥羽越列藩同盟

「もう新政府の言う通りにはならぬ。奥羽のことは我々で決める!」

慶応4年(1868)5月3日、仙台藩を盟主とする奥羽列藩同盟が結成されました。6日、越後長岡藩など北越六藩が加わり、奥羽越列藩同盟となります。中にも越後長岡藩は、家老河井継之助のもと、新政府にも旧幕府にも与さない「武装中立」を目指していましたが、新政府との交渉が決裂し、今回、同盟への参加となりました。

次回「白河口の戦い」に続きます。

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嘉永6年(1853)のペリー来航から、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いまで語った解説音声とテキストファイルです。楽しみながら幕末史の流れを学ぶことができます。

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武田信玄の少年時代・青年時代。父信虎を追放し、当主の座につき、信濃攻略に乗り出す。10年にわたって信濃のほぼ全域を手中におさめ、やがて越後の虎・上杉謙信と対立していくまで。

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一条天皇中宮彰子に仕えた女房。『源氏物語』の作者。おそらく日本でもっとも有名な女流作家。藤原道長や清少納言とならび、平安時代の歴史と文化を語る上で、欠かせない人物の一人です。『紫式部日記』や『紫式部集』を詠みながら、謎の多い紫式部の生涯に迫ります。

解説:左大臣光永

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