二本松少年隊と白虎隊

こんにちは。左大臣光永です。

店先でサンマをあぶってたので、一尾くださいというと、焼き始めて、パチパチといい匂いがして漂って、期待して待ってると、サンマがどんどん小さくなって、見る間に小さくなって、出てきたのはメザシの塩焼きだったという夢を見ました。心理学的にどういうことなんでしょうか…

本日は「二本松少年隊と白虎隊」です。東北戦争の最終局面を語ります。

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新政府軍、二本松に迫る

新政府軍は、奥羽越列藩同盟による七度にわたる白河城攻撃に疲弊仕切っていました。残ったのは700人あまり。白河城は守りきったものの、会津若松まで攻めていく余力はありませんでした。

「白河方面の戦況を打開するため、兵を送るのだ」

この頃、新政府は江戸で彰義隊を討伐したところで、兵力に余裕がありました。その兵力を、東北に差し向けることにしました。

慶応4年(1868)6月16から20日にかけて、参謀木梨精一郎、渡辺清左衛門率いる薩摩・大村・佐土原藩士約1500名が船に乗り、平潟(ひらがた)(茨城県北茨城市平潟町(ひらがたまち))に上陸。6月24日、棚倉藩を落とした白川口の友軍と合流し、7月13日、磐城平(いわきたいら)城(福島県いわき市平)を落とし、

慶応4年(1868)6月16から20日、新政府軍、平潟上陸

山道軍と海道軍の二手に分かれて進撃します。

山道軍は白河から内陸を北上し、須賀川(すかがわ。福島県須賀川市)を越え、本宮(もとみや。福島県本宮市)を経て二本松に侵攻。海道軍は海沿いに、相馬(福島県相馬市)から仙台を目指します。

7月26日、三春藩は新政府軍2500の前に、戦わずして降伏。新政府軍に寝返ります。新政府軍は投降してきたばかりの三春藩を案内役として先導させ、二本松城に迫ります。

二本松城の戦い 二本松少年隊

そのころ、二本松城内ではモメていました。

二本松城
二本松城

「降参しましょう」
「そうです。勝ち目はない」

しかし家老の丹羽一学(にわ いちがく)は、

「死を賭して信義を守るは武士の本懐である」

そう言って、徹底抗戦することを決めました。とはいえ藩兵の多くは各地に派遣されており、二本松にはわずかな守備兵がいるばかりでした。

無いなら集めればいいと、城下の12歳から17歳の少年(二本松少年隊)と60歳以上の老人が集められました。

7月29日、二本松城への総攻撃が始まりした。新政府軍は二手に分かれ、一手が小浜(おばま。福島県二本松市小浜町)から阿武隈川を越え、一手が奥州道中(奥州街道の白河以北)を通って、二本松城に襲いかかります。

慶応4年(1868)7月29日、新政府軍、二本松城総攻撃
慶応4年(1868)7月29日、新政府軍、二本松城総攻撃

二本松側の主力の一翼を担ったのが総勢62名の二本松少年隊でした。

二本松少年隊の像
二本松少年隊の像

彼らはたった一門の大砲で奮戦するも、新政府軍の圧倒的な火力の前になすすべもなく、次々と討たれていきました。戦死者16名、負傷者7名をかぞえました。

正午頃、城中にいた家老丹羽一学は抵抗を断念。二本松城に火を放ち、自害。二本松城は落ち、新政府軍は会津若松城(鶴ヶ城)への橋頭堡を手に入れました。

母成峠の戦い

慶応4年(1868)8月20日、参謀板垣退助(土佐)と伊地知正治(薩摩)率いる2000の新政府軍が、会津討伐のため奥州道中から出発します。

新政府軍、母成峠へ
新政府軍、母成峠へ

奥州道中から会津若松へ向かうには北から母成(ぼなり)峠、中山(なかやま)峠、勢至堂(せいしどう)峠の3つのルートが考えられます。このうち新政府軍は母成峠を選びました。しかし防ぐ側の会津は、敵がどのルートから来るかわからず、3つのルートに戦力を分散さざるを得ませんでした。

8月21日早朝、新政府軍は右翼、中央、左翼の三方から母成峠を攻撃します。母成峠を守るのは会津藩兵、大鳥圭介の伝習隊、土方歳三の新選組あわせて700人あまり。会津側は奮戦するも、数の差はどうにもできず、

ドゴーン、ドゴーーン

新政府軍が二十門の大砲を一斉射撃すると、会津側は総崩れとなりました。母成峠は新政府軍の手に落ちました。

十六橋

「なに!母成峠が突破された!」

その知らせが鶴ヶ城(会津若松城)に届いたのは8月22日早朝でした。前会津藩主・松平容保は急遽、軍議を開き、新政府軍を迎え撃つ準備を取ります。

鶴ヶ城(会津若松城)
鶴ヶ城(会津若松城)

とりわけ、猪苗代湖北岸の日橋川(にっぱしがわ)にかかる十六橋(じゅうろっきょう)の破壊は急務でした。容保は奇勝隊(きしょうたい)を率いる佐川官兵衛を、十六橋の破壊に向かわせます。しかし十六橋は頑丈な石橋でありカンタンには壊せない。手こずっているうちに新政府軍が押し寄せ、十六橋を占拠されてしまいました。

十六橋

佐川官兵衛率いる奇勝隊(きしょうたい)は十六橋を放棄し、戸ノ口原(とのくちはら。福島県会津若松市)の友軍陣地に撤退。

「逃がすな!!」

ターーン、ターーン

新政府軍はこれを追撃。戸ノ口原まで迫りました。

白虎隊

松平容保は白虎隊士中二番隊を護衛に従えて自ら出馬。滝沢村に入りここに本陣を置きます。夕刻、戸ノ口原の友軍陣地から援軍要請が来ます。

「戸ノ口原を抜かれれば、敵は鶴ヶ城城下になだれこむ。
士中二番隊、行ってくれ」

「わかりました」

日向内記(ひなた ないき)(43歳)率いる白虎隊士中二番隊が、戸ノ口原に向かいます。

白虎隊の像
白虎隊の像

松平容保は弟の松平定敬を米沢に逃がすと鶴ヶ城にもどり、籠城戦の準備にかかります。

8月23日午前6時頃、新政府軍の総攻撃が始まりました。総勢3000名あまり。対する会津方はわずかに300数十人。白虎隊士中二番隊も小銃を手に奮戦するも、数の差はくつがえりようもなく、次々と討たれていきます。

慶応4年(1868)8月23日、戸ノ口原の戦い
慶応4年(1868)8月23日、戸ノ口原の戦い

生き残った白虎隊士中二番隊20名は敵の攻撃を避けつつ、鶴ヶ城北東の飯盛山(福島県会津若松市)に登ると、鶴ヶ城は炎に包まれ、黒煙を上げているのが見えました。

「鶴ヶ城が落ちた!」
「会津は、負けたのか!」

副隊長・篠田儀三郎(しのだぎさぶろう)(17歳)が皆に言います。

「生き残って敵の捕虜にでもなったら、殿や祖先に面目が立たん。潔く自害するのが武士の本懐である」

「そうだ」
「死のう」

その場で集団自決をはかりました。しかし最年少の飯沼貞吉は脇差で喉をついたものの死にきれず、山中にひそんでいたところを村人に保護されて、助かりました。

維新後、貞吉は飯沼貞雄と改名し、逓信省の通信技師となり、日清戦争に従軍し、昭和6年(1931)77歳で天寿をまっとうしました。

士中二番隊19名の死体は飯盛山に置き去りにされましたが、戦後、近くの日蓮宗妙國寺に運ばれ、埋葬されました。墓は現在、飯盛山にあります(「白虎隊十九士の墓」)。

白虎隊十九士の墓
白虎隊十九士の墓

次回「鶴ヶ城落城 東北戦争の終結」に続きます。

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嘉永6年(1853)のペリー来航から、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いまで語った解説音声とテキストファイルです。楽しみながら幕末史の流れを学ぶことができます。

youtube 講演録音「武田信玄の生涯(一)」
https://www.youtube.com/watch?v=upDkngExixI

武田信玄の少年時代・青年時代。父信虎を追放し、当主の座につき、信濃攻略に乗り出す。10年にわたって信濃のほぼ全域を手中におさめ、やがて越後の虎・上杉謙信と対立していくまで語っています。

京都公演【紫式部】2/1開催
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一条天皇中宮彰子に仕えた女房。『源氏物語』の作者。おそらく日本でもっとも有名な女流作家。藤原道長や清少納言とならび、平安時代の歴史と文化を語る上で、欠かせない人物の一人です。『紫式部日記』や『紫式部集』を詠みながら、謎の多い紫式部の生涯に迫ります。

解説:左大臣光永

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