明治の廃仏毀釈(ニ)

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こんにちは。左大臣光永です。

映画『決算!忠臣蔵』を観てきました。忠臣蔵を財政の面から描いた映画です。おなじみのエピソードや人物が、こうアレンジされるのか~と興味深かったです。堀部安兵衛と大高源五が、特にいい味出してました。私の家の近所の「妙心寺」がロケ地として使われていたのも、嬉しかったです。

さて先日発売しました「聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱」。好評をいただいています。ありがとうございます。
http://sirdaizine.com/CD/His10-1.html

この商品に関連して、二日間にわたって、「明治の廃仏毀釈」について語っています。今日が2日目です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Meiji-Haibutsu2.mp3

第一回はこちら
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji-Haibutsu1.html

廃仏毀釈とは

廃仏毀釈とは仏教に対する弾圧・迫害をさします。仏を廃し、釈迦の教えをつぶすという意味です。

戦国時代には、イエズス会やキリシタン大名によって神社・仏閣への破壊が行われました。江戸時代には、儒教や水戸学の立場から仏教への攻撃がありました。

しかし明治の廃仏毀釈は、規模も凄惨さも、戦国時代や江戸時代そのそれとは比べ物になりません。

発端は明治元年に出された「神仏分離令」でした。もともとは神仏習合の寺社に、神社と寺を分けさせ、神道を国家宗教にすることが目的でした。

しかし神仏分離令を拡大解釈した神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れました。明治2-3年頃がピークで、明治9年頃には収まりました。

明治の廃仏毀釈によって、江戸時代には9万以上あった寺が、半分の4万5000にまで減ったと言われています(正確な数は不明)。

鎌倉の廃仏毀釈

鎌倉の鶴岡八幡宮は江戸時代まで鶴岡八幡宮寺という真言宗の寺でした。八幡宮の境内には、護摩堂・五大堂・薬師堂・多宝塔・鐘楼といった伽藍が多く立ち並び、源氏の菩提寺として栄えました。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

しかし明治の廃仏毀釈ですべて取り壊され、仏像・仏具・経典も燃やされました。僧侶は還俗させられ、鶴岡八幡宮に仕える神人となりました。

現在、鶴岡八幡宮が寺だったなんて誰も思わないでしょう。

奈良の廃仏毀釈

奈良では東大寺、興福寺、西大寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺にも廃仏毀釈の波が押し寄せました。中にも興福寺はひどい打撃を受けました。

興福寺中金堂
興福寺中金堂

興福寺はかつて一乗院・大乗院はじめ107もの末寺を持ち、現在の3倍の広さがありました。一乗院・大乗院は藤原氏の子弟が門跡(住職)をつとめる門跡寺院で、毎年交代で春日社の別当をつとめてもいました。現在、一乗院は跡形もありませんが、大乗院の庭園が復元されています。

大乗院庭園
大乗院庭園

慶応4年(1868)政府が神仏分離令を出すと、一乗院・大乗院は連署で政府に嘆願書を提出しました。

あきれた内容です。

「昔から興福寺は春日社と深い関係にあり、その運営に携わってきました。特に一乗院と大乗院は春日社の別当をつとめてきました。今回、政府の方針を受けて、率先して還俗いたします。今後は春日社の神官として、政府のため勤王のため務めさせていただきます」

つまり、「仏教は捨てます」と。

「お上には逆らわないので、神官として地位を保証してください」と。これが仏教者の、しかもそのトップが言うことでしょうか。

政府はこの申し出を受け入れました。130人いた興福寺の僧はすべて還俗し、僧侶名を捨てて、春日社(春日大社)の神官に転職しました。

歴史ある2000体もの仏像は燃やされ、経典は商品を包む包装紙として使われ、多くの宝物が二束三文で売りに出されました。

興福寺五重塔は天平2年(730)光明皇后による創建です。五度の焼失を経て、現在の塔は応永33年(1426)再建されたものです。高さ50.8m。京都・東寺(教王護国寺)の五重塔につぐ高さです。

興福寺五重塔
興福寺五重塔

この五重塔が、わずか25円(10万円程度)で売りに出されました。塔の買い手は文化財などにはまったく興味がなく、五重塔から金属を取り出すことが目的でした。

それで金属を取り出すために、火をかけて燃やそうとします。さすがにそれは危険であるということで周辺住民に止められました。結局、解体費用が捻出できないということで五重塔は破壊を免れ今に至ります。

さらに明治5年(1872)の上地令によって、興福寺はほとんどの寺領を没収されました。歴史ある塔頭である一乗院と大乗院も完全に失われました。その後、一乗院跡には奈良地方裁判所が、大乗院跡には奈良ホテルが建ちました。

興福寺は事実上の廃寺となり、明治8年(1875)西大寺の管理化に入りました。

奈良のシンボル・鹿も廃仏毀釈のあおりを受けました。

そもそも春日大社の縁起によれば、祀神であるタケミカヅチノカミが、常陸の鹿島神宮から鹿に乗って奈良にやってきたとされ、鹿は奈良において神聖な動物です。

しかし初代奈良県令・四条隆平(しじょう たかとし)は、鹿が神の使いなどというのは迷信である。迷信は打ち払わねばならぬと言って、大規模な鹿狩りを行いました。鹿はすき焼きにして食べられ、一時は絶滅寸前まで追い込まれました。

京都の廃仏毀釈

京都にも、廃仏毀釈の波は押し寄せました。京都の夏の風物詩である「五山の送り火」が仏教行事であるからと禁止されました。

五山の送り火
五山の送り火

地蔵盆、盆踊りなど仏教がらみの行事が禁止されました。正月の門松、節分会、端午の節句、七夕なども禁止されました。

京都中の寺から没収した仏具類は、四条大橋の架替工事に際し、溶かして橋の材料とされました。

四条大橋
四条大橋

京都市北西の愛宕山は、山頂に愛宕神社があります。全国の愛宕神社の総本社です。役の行者が修験道の霊地として開いたと伝えられ、現在も山全体が神域として崇められています。

愛宕神社
宕神社

しかし江戸時代までは愛宕神社は「愛宕権現」と呼ばれ、愛宕山全域で神仏習合が進んでいました。

和気清麻呂創建の白雲寺はじめ、愛宕山には多くの寺がありました。たとえば愛宕山威徳院は明智光秀が本能寺の変の直前に連歌の会を開いたことで有名です。(愛宕百韻)

しかし明治の廃仏毀釈によって、愛宕山の寺はすべて取り壊しとなりました。現在、白雲寺の惣門(黒門)がわずかに残るのみです。

白雲寺黒門
白雲寺黒門

東山の八坂神社はかつて、祇園社感神院といい、はじめ興福寺の別院、後に延暦寺の別院となりました。境内には多くの寺院があり、神仏習合が進んでいました。

八坂神社
八坂神社

しかし明治の神仏分離令で「祇園」は仏教的だからダメといってケチがつき、その名も八坂神社と変えられました。それまで本地が薬師如来である牛頭天王を祀っていましたが、牛頭天王はインド仏教の聖地・祇園精舎の守り神なので、ダメとなりました。祀神はスサノオノミコトになりました。

学問の神様として親しまれている北野天満宮も、廃仏毀釈のおありを受けました。

北野天満宮
北野天満宮

当時、北野天満宮は神仏習合が進んでおり境内にはたくさんの僧坊や仏教施設がありました。それが明治の廃仏毀釈によって、すべて取り壊しとなったり、移転させられました。名称も「北野天満宮」から「北野神社」に変えられました。

豊臣秀頼寄進による鐘楼も、寺町四条にあった大雲寺に売り飛ばされました。

石清水八幡宮もかつては神仏習合が進み、たくさんの寺がありました。しかし廃仏毀釈によってことごとく破壊されました。

石清水八幡宮 御本殿
石清水八幡宮 御本殿

石清水八幡宮裏手の山道を歩くと、打ち捨てられた石塔がいくつも見られます。取り壊された寺の名残です。

廃仏毀釈に驚く政府

政府は廃仏毀釈に驚き、歯止めをかけようとしました。神仏分離とはあくまで神社と寺を分けろと言っているだけだ。仏教を廃絶せよと言っているのではない。僧侶に還俗を強制してはならないとお触れを出しました。

僧侶の俗化政策

その一方で、政府はあからさまな仏教への攻撃も行いました。

明治5年、僧侶の俗化政策を打ち出しました。それまで浄土真宗以外は肉食妻帯は禁止されていましたが、これをよしとしたのです。

肉を食ってもよし。妻をもってもよし。髪をはやすのもよしとしました。そこには僧侶の伝統的な権威をひきずりおろし、仏教を貶める意図がありました。

廃仏毀釈の波は明治2、3年頃がピークでしたが、その後もやまず、明治9年ころまでに、ようやく収まりました。

廃仏毀釈については、教科書にはほとんど書かれていません。明治維新によって封建制が打ち砕かれ、四民平等のすばらしい世の中になったと、ひたすら明治維新を褒め称えるばかりです。

しかしそれではいけないと思います。

明治維新を語るには、明治維新のよい所も、暗い所も、両方、わけへだてなく語るべきです。日本史上最悪の文化破壊である明治の廃仏毀釈を語らずに、明治維新を語ったことにはならないと思います。

次回「鉄道開通」に続きます。

参考文献
『仏教抹殺』鵜飼秀徳 文春新書
『廃仏毀釈百年』佐伯恵達 鉱脈社
『神仏分離』圭室文雄 教育社
『神々の明治維新』安丸良夫 岩波新書
『日本仏教史』ひろさちや 河出ブックス
『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫

発売しました

『聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱』
http://sirdaizine.com/CD/His10-1.html

嘉永6年(1853)のペリー来航から、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いまで語った解説音声とテキストファイルです。

通してきくと、楽しみながら幕末史の流れを学ぶことができます。

詳しくはリンク先まで。

解説:左大臣光永

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