明治の廃仏毀釈(一)
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12月に入り、年末のあわただしい感じになってきましたね。いかがお過ごしでしょうか?
私は先日、鴨川の土手を歩きたくなり、下鴨神社のあたりから上賀茂神社の先まで行って、また帰ってきました。6キロくらいの道のりです。途中、アオサギを200羽くらい見ました。こんなに多いとは驚きです。なにか体の中がアオサギ成分で満たされたようで、その夜の夢にもアオサギが出てきました。トクした気分でした。
さて先日発売しました「聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱」。好評をいただいています。ありがとうございます。
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この商品に関連して、今日・明日と二日間にわたって、「明治の廃仏毀釈」について語ります。重い話題ではありますが、日本の歴史を語る上で避けては通れない話です。ぜひお付き合いください。
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http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Meiji-Haibutsu1.mp3
廃仏毀釈とは
廃仏毀釈とは仏教に対する弾圧・迫害をさします。仏を廃し、釈迦の教えをつぶすという意味です。
戦国時代には、イエズス会やキリシタン大名によって神社・仏閣への破壊が行われました。江戸時代には、儒教や水戸学の立場から仏教への攻撃がありました。
しかし明治の廃仏毀釈は、規模も凄惨さも、戦国時代や江戸時代そのそれとは比べ物になりません。
発端は明治元年に出された「神仏分離令」でした。もともとは神仏習合の寺社に、神社と寺を分けさせ、神道を国家宗教にすることが目的でした。
しかし神仏分離令を拡大解釈した神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れました。明治2-3年頃がピークで、明治9年頃には収まりました。
明治の廃仏毀釈によって、江戸時代には9万以上あった寺が、半分の4万5000にまで減ったと言われています(正確な数は不明)。
神仏習合と神仏分離
明治新政府は万民を統制するために、強力な精神的な柱を必要としていました。そこで打ち出したのが、国家神道です。
天皇を頂点に置き、伊勢神宮はじめ全国の神社を国家制度の中に取り込む。そして神道を国教として、古代日本のような祭政一致の国造りを進める、というものでした。
しかしここに、困った問題が立ちふさがります。
日本人の宗教観です。
日本では平安時代以降、「神仏習合」という形で、神道と仏教が共存してきました。寺の境内に神社(鎮守社)があるし、神社の境内に寺(神宮寺)があるといった具合です。いかにも日本人的な、ゆるやかな宗教観です。ごちゃまぜで節操がないという見方もできますが、神仏習合によって神道と仏教の宗教戦争が避けられてきたのも事実です。
しかし、神道による国造りを目指す明治政府は、神道に仏教的要素が混じるのを嫌いました。
慶応4年に新政府より「神仏分離令」が出されました。(そういう名前の法律があったのではなく、慶応4年(1868)3月から10月にかけて出された12の法令の総称)
いわく、
これからの日本は、神武創業の昔のように、祭政一致でやっていく。そのために神祇官(神事をつかさどる役所)を復活し、全国の神社を神祇官の管轄下に置く。
社僧(神社に奉仕する僧侶)や別当(神社に付属する「神宮寺」のトップ)は還俗して、神社に仕えよ。
「権現」や「牛頭天王」など、神社の神号に仏教由来の言葉を使うのをやめよ。また仏像をご神体とすることをやめよ。鰐口や梵鐘など、仏教由来のものも取り除けと。
「権現」とは仏が神の姿をして仮にあらわれたものです。たとえば表面は天照大神の姿をしているが、その実体は大日如来である。だから天照大神と大日如来は同じ存在である(本地一体)、という考え方です。
「牛頭天王」とはインド仏教の聖地・祇園精舎の守護神ですが、日本では薬師如来とスサノオノミコトと一体化していきました。
日本人は中世以来、こうしたゆるやかな宗教観で仏教と神道を共存させてきたのです。
それを、すべてやめろと明治政府は命じたのです。仏教は神道とは別のものだ。権現だの牛頭天王だのは許さない。鰐口(賽銭箱の上に下げられている鐘)や梵鐘といった仏教由来のものを神社の境内に置くのもならぬと。
とはいえ、新政府は仏教の廃絶を命じたわけではありません。あくまでも、神道と仏教を明確に分けることが狙いでした。
しかし神仏分離令を拡大解釈した神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れることになります。
薩摩の廃仏毀釈
廃仏毀釈がもっともひどかったのが薩摩です。
薩摩では、神仏分離令が出される以前の幕末から、すでに廃仏毀釈が始まっていました。
1066あった寺はすべて取り壊され、2964人いた僧侶は全員が還俗させられました。最終的には島津家の菩提寺・福昌寺まで取り壊されました。
だから現在も鹿児島には寺が少なく、仏教に関係した国宝・国の重要文化財が鹿児島には一つもありません。隣の宮崎も、鹿児島の影響を受け、寺を壊しまくったため、全国一寺が少ない県です。
仏像仏具は溶かして武器甲冑や贋金の鋳造に使われました。
この贋金によって得られた収入は、倒幕のための資金として使われました。
坂本で始まった明治の廃仏毀釈
明治の廃仏毀釈は比叡山のふもと、坂本で始まりました。坂本には古くから日吉社(ひえしゃ)(現日吉大社)がありました。
坂本の地は平安京の鬼門に当たるため、日吉社は国家守護の大切な神社とされました。しかし伝教大師最澄が延暦寺を開いてからは日吉社は延暦寺の鎮守の社とされ、延暦寺の支配下に置かれました。
江戸時代。延暦寺は幕府の保護をかさに坂本の町に重税を課し、やりたい放題やりました。日吉社は常に延暦寺の下に置かれ、ひどい扱いを受けました。日吉社と坂本の町では、長年にわたって延暦寺への恨みが積もっていました。
そこへ神仏分離令が出ました。これ幸いと日吉社の神官たちは境内から僧侶を追い出しました。仏像・仏具を叩き壊しました。よくも今までやってくれたなと。さらには武装した神官の一団が延暦寺に押し寄せ、祀られていた仏像・仏具・経典などに火を放ちました。
暴徒の中には日吉社の神官に雇われた坂本の領民が含まれていました。彼らは長年にわたり小作人として延暦寺に搾取されてきたことに、深い恨みを抱いていました。
この、坂本における廃仏毀釈に始まり、全国に廃仏毀釈の波がおよんでいきます。
松本の廃仏毀釈
信州松本における廃仏毀釈は、知藩事・戸田光則(とだ みつひさ)の独断で進められました。幕末、戸田光則は旧幕府側につくか新政府側につくかさんざん迷った挙げ句、新政府につきました。それで他の藩に出遅れてしまったことに、焦っていました。
新政府に、忠実さをアピールしなければならないと。
そこに神仏分離令が出ました。これぞ新政府に忠誠をアピールするチャンス。戸田光則はふるい立ちます。まっさきに戸田家の菩提寺・全久院から打ち壊しました。先祖の位牌を川に投げ捨て、仏像・仏具を燃やしました。
これを皮切りに、松本の寺を壊しまくりました。結果、164あった寺のうち124か寺が廃寺となりました。
どうです私、こんなにも新政府に忠実なんですよというアピールです。
べつに新政府は寺と神社を分けろと命じただけで仏教をつぶせなんて一言も言ってないんですが。戸田光則は政府の命令を拡大解釈して、寺の破壊に走りました。
松本における廃仏毀釈は、しだいに民衆にも広まっていきました。新しい時代が来たんだ。古い仏教はいらないと。石仏・石塔を叩き壊して石橋に作り変え、道端の地蔵尊の首をはねました。寺を壊した廃材は建設業者に横流しされ、学校などを建てるのに使われました
いかに上からの命令とはいえ民衆がここまで廃仏毀釈に走った背景には、寺に対する憎しみがありました。
江戸時代を通して大きな寺は檀家制度によって篤く守られ、特権階級になっていました。その待遇にあぐらをかき、僧侶の中には妾を囲って豪華な館に住まわせ、肉を喰らい、檀家に無断で土地を売っては金を作り、やりたい放題する者がありました。
そこへ廃仏毀釈の命令が出た。お上お墨付きが出たぞ。よっしゃ、今まで好き放題やりやがってクソ坊主どもが、ブッ壊せ!というわけです。
岐阜苗木藩における廃仏毀釈
岐阜の苗木藩では、知藩事(地方行政官)の遠山友禄(ともよし)によって廃仏毀釈が徹底されました。遠山は旧幕臣であるため、維新後は新政府にこびを売る必要がありました。そこで廃仏毀釈を推し進めることで新政府にアピールしました。どうです私、政府の言いなりですよ。おりこうさんでしょう、と。
領内に17あった寺はすべて破壊され、仏像・仏具・仏壇・位牌など、少しでも仏教に関係のあるものは片っ端から破壊されました。現在もこのあたりには寺が一つもなく、仏教徒はほとんどいません。
ある時、
遠山友禄が領内の廃仏毀釈の進み具合を視察して、庄屋の家に泊まりました。すると仏間があるのを発見しました。
「神道に改宗せよというのに仏壇がそのままなのは、どういうわけか!」
「…叔父があまりに嘆くので、仕方なくそのままにしていました」
「けしからん!」
きけば組頭の屋敷にも仏壇があるということでした。
翌朝、遠山は庄屋と組頭の家にあっった仏壇と本尊・脇侍を庭に出させ、ひとつひとつ土足で踏みにじり、火をつけました。
すると組頭の妻が錯乱状態になって、火の中に飛び込み、本尊を救い出そうとしたので周囲があわてて止めたと。そんなエピソードも伝わっています。
伊勢の廃仏毀釈
伊勢は伊勢神宮のお膝元ですから、もともと仏教を避ける風土でした。と同時に、伊勢でも神仏習合が進み、菩提山神宮寺(ぼだいせんじんぐうじ)はじめ多くの寺がありました。たてまえ上は仏教を避けていても、伊勢でも神道と仏教はゆるゆかに融合していたのです。
西行法師が伊勢に住んでいた頃、伊勢神宮の神官たちから神道について学び、かわりに歌を教えていたという、微笑ましいエピソードもあります。
明治2年(1869)3月に明治天皇が伊勢行幸することになりました。一大イベントでした。
行幸にさきがけ、伊勢行政府である度会府(わたらいふ)よりお触れが出されました。
「伊勢神宮の神域にある寺はすべて撤去せよ。仏教に関係した商売はすべて中止せよ」と。
これが伊勢における廃仏毀釈の幕開けでした。
明治元年(1868)11月から明治天皇行幸の3月までに伊勢神宮参道沿いの寺を中心に196の寺が取り壊されました。貴重な仏像・仏具は多くが売り払われました。
菩提山神宮寺(ぼだいせんじんぐうじ)は伊勢神宮に付属する神宮寺で、かつて七堂伽藍を有する荘厳な寺院でした。しかしこの時の廃仏毀釈により徹底して破壊しつくされ、今はほとんど跡形もありません。
「明治の廃仏毀釈(ニ)」に続きます。
参考文献
『仏教抹殺』鵜飼秀徳 文春新書
『廃仏毀釈百年』佐伯恵達 鉱脈社
『神仏分離』圭室文雄 教育社
『神々の明治維新』安丸良夫 岩波新書
『日本仏教史』ひろさちや 河出ブックス
『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫
発売しました
『聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱』
http://sirdaizine.com/CD/His10-1.html
嘉永6年(1853)のペリー来航から、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いまで語った解説音声とテキストファイルです。
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