鉄道開通

明治5年、日本ではじめて新橋~横浜間に
鉄道が開通しました。

新橋~横浜間 鉄道開通

まず明治5年(1872年)5月7日、
品川~横浜(現桜木町)の間で鉄道が仮開業します。

ついで7月25日、
工事が遅れていた新橋~品川間の工事も完成。

そして9月12日…

いよいよ新橋~横浜間がすべて開通します。

明治天皇がお召し列車にお乗りになります。

陸軍日比谷操練所では
近衛砲兵隊が、

ドーン、ドーン

101発の祝砲を放ち、

品川沖に停泊中の軍艦は、

ドドーーーン、ドドーーーン

21発の祝砲を撃ちました。

その距離29キロ。
所要時間は片道53分でした。

旧暦の9月12日は新暦では10月14日。
現在、鉄道記念日として覚えられています。

営業開始

翌13日。
全路線で営業が始まります。

なかなかの盛況でした。

中には列車を追いかけていく人もいたそうです。

「なんだ、こんな鉄のカタマリに負けられっか」

人力車で、列車の横を
ガラガラガラガラっと駆けていきます!

「おい!負けるな!金ははずむぞ」
「もちろんです。あっしも車屋の意地がかかってるんで」

列車の窓からは親子づれが顔を出して
「がんばれー!」
なんて手を振ってる…

そんな風景もあったといいます。

プチャーチンの鉄道模型

鉄道開通に至るまでの道のりは
平坦なものではありませんでした。

新橋~横浜間に鉄道が開通する
19年前…

嘉永6年(1853年)7月18日、
ロシアのプチャーチン中将率いる艦隊が長崎に来航します。

プチャーチンは入国を求めますが、
当時の日本は外国に門戸を閉じており、
結局上陸はかないませんでした。

「まあ、少しでも開国のきっかけが作れれば…」

プチャーチンは長崎奉行所の役人たちを
軍艦の上に招きます。

紅茶やお菓子をふるまった…かどうかは記録が無いですが、
プチャーチンはとても紳士的な態度だったそうです。

ふと見ると、士官室のテーブルのまわりに
ぐるりとレールが取り巻いています。

「ん?なんですかこれは」

「ハハハ。日本の友人たち、
よーく御覧になっていてくださいよ」

カッタン、カッタン、カッタン、カッタン…

「おおお!!」

それは5寸(15センチ)ほどの大きさの、
アルコールを燃料に走る蒸気機関車の模型でした。

貨物列車をひっぱって、線路を走りました。

これが日本人が鉄道というものを知った
はじめての経験でした。

ペリーの鉄道模型

その翌年の嘉永7年(1854年)、
昨年来航したアメリカのペリーがふたたび来航します。

この時ペリーは幕府へのお土産として
蒸気機関車の模型を携えていました。

牽引車の長さは八尺(2.4メートル)ほど、
客車の長さは一〇尺五寸(3.2メートル)ほど、
線路の幅は50センチほどあり、
かなり大きなものです。

「模型」というより遊園地の屋上で走っている
遊具みたいな感じですね。

横浜村の応接所裏手の
麦畑の中に線路を敷設して走らせます。

村人たちも見学を許されました。

「何がはじまるんだ?」
「あの箱みたいなのが動くって?まさか…」

6歳の子供がやっと乗れるほどの汽車でしたが、
幕府役人・河田八之助はどうしても乗りたいと言い張ります。

「アブナイデスヨ」

「いや、そんなこと言ったって、私はどうしたって乗りたいんです」

河田は強引に客車の屋根に登り、へばりつきます。

カタン…カタン…カタン…カタン…

動き出す列車。

「おおっ!動く!本当に動く!」

列車はじょじょに速度を増し、
時速20マイル(32キロ)まで加速します。

「速いもんですなあ~!」

「シッカリ、ツカマッテクダサイ!」

「おおっとっと!……剣呑剣呑」

河田は屋根の上で喜んだり、怖がったり、
ワアワア言ってたいへん騒がしいことでした。

まるで蒸気で汽車が動いているのではなく
その男がワアワア言って汽車を動かしているように見えたと
ペリーは航海日記の中に記しています。

佐賀藩士、自力で模型を作る

鍋島藩士たちは、プチャーチンのもとで見た
鉄道模型にビックリしました。

しかし、ほんとうにスゴかったのは
むしろこの鍋島藩士たちだったかもしれません。

なんと、彼らは一度見た記憶をもとに
二年がかりで蒸気機関車の模型を作ってしまいます。

制作を受け持ったのは
「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門(ぎえもん)」と呼ばれた
田中久重(たなかひさしげ)。

後に芝浦製作所の創始者となる人物です。

出来上がった模型は30センチほど大きさで、
アルコールを燃料にしてちゃんと走るものでした。

安政元年(1855)、出来上がった模型は
佐賀藩主鍋島斉正(なべしま なりまさ)の前で
披露されます。

カッタン、カッタン、カッタン、カッタン…

「おお!」「すばらしい!」

当時、佐賀藩は「蘭学狂い」といわれた鍋島斉正(直正)のもと、
技術にも教育にも力を注いでいました。

鍋島斉正は藩校の「弘道館」から学生たちを招き、
鉄道模型を見学させました。

その中に16歳の大隈重信の姿がありました。

(これを日本中に走らせれば…すごいことになる!)

後々、大隈重信は伊藤博文・山縣有朋らとともに
明治政府の中で鉄道の敷設を
強く推し進めていくことになります。

次回「征韓論紛争」に続きます。

解説:左大臣光永