薬子の変(平城太上天皇の変)
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平城上皇と嵯峨天皇
806年、桓武天皇が崩御するとその子平城天皇が即位しました。しかし平城天皇は在位3年で病の床につきます。
「我はもう長くない。
お前に位を譲り、生れ育った平城京に隠居しようと思う。」
「兄上…わかりました。後のことは、お任せください」
「うむ。よい世の中を作ってくれよ…」
809年、平城天皇は弟神野親王に位を譲って上皇となり、
神野親王が嵯峨天皇として即位します。
薬子の変
しかし、仲睦まじい兄弟愛の図は長く続きませんでした。
藤原薬子と藤原仲成
「困ったなあ。弱ったなあ。薬子、どうしよう」
「兄上、落ち着いてください」
藤原薬子は長岡京造営にあたった藤原種継の娘で
平城上皇の寵愛を受けていました。仲成は薬子の兄です。
平城天皇が皇太子時代に、薬子の長女がその後宮に入り、
その時母薬子も平城天皇に愛されるようになりました。
【藤原薬子と藤原仲成】
薬子は兄仲成とともに
平城天皇の寵愛をいいことに好き勝手にふるまっていました。
その平城天皇が奈良に隠居するとなって、
仲成は焦ります。
「これでは今までの、いい暮らしができなくなる」
取り乱す仲成に、薬子が言います。
「兄上、私に考えがあります」
「平城京に都を戻し、
上皇さまにふたたび位についていただくのです」
「な…!!できるのか、そんな事が」
「ほほほ。上皇さまは私にぞっこんです」
そこで、薬子と藤原仲成は平城上皇にしきりに訴えます。
「上皇さま、このままでよろしいのですか」
「ミカドは上皇さまを差し置いて、政治を独占するつもりですぞ」
「今こそ都を平城京へ戻し、上皇さまがふたたび位につかれる時です」
「うう…しかし…そんなことが可能なのか」
嵯峨天皇方の警戒
薬子と仲成が平城上皇に働きかけ
よからぬ陰謀をたくらんでいるという情報は、
すぐに嵯峨天皇のもとに届き、
嵯峨天皇は上皇方への警戒を強めます。
天皇の側近である蔵人所(くろうどどころ)、
朝廷をまもる検非違使庁(けびいしのちょう)
二つの役所を設け、右大臣藤原内麻呂を中心に
上皇方への警戒を強めました。
「平城京へ都を戻すべし!!」
810年、平城上皇は、平安京にいる貴族たちに
詔を発します。
嵯峨天皇はすぐさま坂上田村麻呂・藤原冬嗣を平城京の造営使として奈良に送り込みました。兄平城上皇にいちおうは従うふりを示しながら、情勢をさぐろうとしたのです。
しかし、内心では断固、従がうつもりはありませんでした。
政令が天皇方と上皇方から別々に出るという
「二所朝廷」という形になり、人々は動揺しました。
決戦
嵯峨天皇は側近の藤原冬嗣にお尋ねになります。「冬嗣、どうしたものか」
「断固拒否です。こんな無茶苦茶、許すわけには参りません」
「勝てるだろうか」
「当方には歴戦の勇者、坂上田村麻呂がございます」
「そうか、田村麻呂なら」
10日ついに嵯峨天皇方は決戦を決意。
伊勢の鈴鹿関、近江の逢坂関、美濃の不破の関、
三関を封鎖し、薬子の官職を解いて追放し、
藤原仲成の身柄を拘束します。
藤原仲成は右兵衛府に監禁され翌11日射殺されました。
これ以後、1156年保元の乱で源為義らが処刑されるまで約350年間
死刑は公式には停止されることとなりました。
平城上皇は東国で再起をはかろうと平城京を出ますが、
美濃で坂上田村麻呂らに行く手を阻まれ、それ以上の抵抗を断念。
奈良へ引き返して髪を剃って出家します。
薬子は毒を飲んで自殺しました。
奈良時代から平安時代初期にかけて権力をふるってきた
藤原式家はここに没落し、以後藤原北家が勢いをつけていくことになります。
その後
平城上皇第二皇子高岳親王(たかおかしんのう)は
皇太子に立てられていましたが事件後、皇太子をやめされられ、
代わって嵯峨天皇の異母弟・大伴親王が皇太子に立てられます
(後の淳和天皇)。
平城上皇第一皇子阿保親王は大宰権帥として大宰府に左遷されます。
阿保親王は都から遠く離れた大宰府に
14年間を過ごし…
14年後の824年、平城上皇が崩御すると嵯峨天皇によって
ようやく都へ戻ることを許されました。
都へ戻されたといっても罪人の子ということで
肩身の狭い立場だったようです。
2年後の826年、阿保親王は息子の行平、業平らに
在原姓を賜り臣籍降下させています。
薬子の変
後に平安一の「色好み」として名を馳せる在原業平。
この時わずかに2歳でした。