北条氏の始まり
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本日は「北条氏の始まり」について語ります。
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北条氏は桓武平氏の平直方(たいらの なおかた)をルーツとします。直方の五代目の子孫が源頼朝の旗揚げをたすけた北条時政(ほうじょう ときまさ)です。
時政の時代は伊豆の地方豪族にすぎませんでしたが、鎌倉幕府の執権職として北条氏はしだいに権力を拡大していきました。
建長寺 三門
平忠常の乱
そもそも、北条氏とはどこから来たのか?どんな出自なのか?源頼朝が伊豆にいた頃は伊豆狩野川(かのがわ)周辺に勢力を持つ地方豪族ですが、もともとは桓武平氏です。少なくとも本人たちは桓武平氏を自認していました。
桓武平氏ですから、もともとは桓武天皇から出てるわけです。桓武天皇のひ孫の高望王(たかもちおう)が臣籍に降下して平高望(たいらの たかもち)となった。これが(葛原系)桓武平氏の始まりです。
平高望は上総(房総半島中部)に下り、以後、代々平氏は房総半島で勢力を伸ばしていきました。その間には、平氏同士の争いも何度か起こっています。有名な平将門の乱も、平氏同士の権力争いという一面があります。
そして平将門の乱より約100年後の長元元年(1028年)、房総半島で平忠常(たいらの ただつね)の乱が起こります。平忠常なる者が国司を殺害し、朝廷の倉庫を燃やし、さんざんに暴れていました。
平忠常の乱
そこで召し出されたのが、平直方(たいらの なおかた)です。
平忠常も、平直方も、ともに平氏。つまり平氏の起こした不始末は平氏に解決させよ、というわけです。
ところがこの平直方、ちっとも勝てないです。出撃するたびに平忠常にさんざんに打ち負かされます。もうだめです。私にはとうてい、手に負えません。他の者にお命じください。そうか、仕方ないなと次に任命されたのが、清和源氏の源頼信(みなもとの よりのぶ)です。武勇の誉高い人物だったようです。
この源頼信が着任し、いよいよ戦いに赴こうとしていた矢先。あれほど暴れまくっていた平忠常がみずから頭をまるめ、降参してきます。武勇のほまれ高い源頼信さまがご着任となれば、私ごときが勝てる見込みはありません。降参いたします。うむ。神妙なことじゃ、
こうして、あれほど手こずった平忠常の乱は、源頼信の着任によって、あっけなく、戦わずして終わりになりました。
平忠常がなぜ戦わずに降伏したかについては色々な説がありますが、平直方はつくづく源頼信の武勇に感じ入りました。
なにしろ自分がどうあがいても鎮圧できなかった反乱が、源頼信が着任しただけで解決したので。
「源頼信さま、すばらしいです。あなたこそ、武人の鑑だ」
感心した平直方は、源頼信の嫡男・源頼義(よりよし)に、自分の娘をとつがせます。
鎌倉と源氏のつながり
こうして源頼信の嫡男・源頼義と、平直方の娘が結婚して生まれたのが、かの有名な、八幡太郎・源義家(よしいえ)です。
そして平直方は、源義家に鎌倉の自分の館を譲りました。これが、鎌倉と源氏の縁がはじまった、最初です。
その場所は、現在のJR横須賀線のすぐ西側。寿福寺(じゅふくじ)のあたりと伝えられます。
寿福寺参道
そして、源義家の五代目の子孫が源頼朝。平直方の五代目の子孫が北条時政ということになります。
伊豆で源頼朝が平家の代官山木兼隆(やまき かねたか)を殺害し、旗揚げをした。それを助けたのが北条時政です。頼朝と北条時政の関係は、なにもその時ポッとできたものではなく、五代前からの深い因縁が、あったわけです。
さて北条時政は平直方の五代目の子孫といっても、途中の四代の系図は史料によってまちまちで、かなりいい加減です。おそらく平直方以降、落ちぶれて、五代すぎるうちに伊豆の地方豪族におさまり、途中の系図もよくわからなくなっていたんでしょう。
北条氏についての伝説
ここに一つの伝説があります。
北条時政(初代執権)が、江の島の岩屋で子孫繁栄を祈願していました。どうかわが子孫を末永く栄えさせてくださいと。その時すーーと美しい女房があらわれ、
江ノ島岩屋あたり
「お前は前世でよい行いをしました。だから今、お前の願いを聞き入れよう。ただし、子孫の行いが悪い時は、その繁栄は七代を過ぎることはあるまい」
ずざーーーーっとそこで、竜の姿に変わり、ざんぶと海に帰っていきました。後には三枚の鱗が残されていた…これが、北条氏の「三ツ鱗紋」となります。建長寺や宝戒寺など、北条氏ゆかりの寺に行くといたる所にあしらってあります。
戦国時代の後北条氏も、三ツ鱗紋を家紋としています。
ただし後北条氏は北条氏と血縁などではまったくなく、ただ名をかたっていただけですが…
もちろん、これは伝説であり、史実とはいえませんが、なぜこんな伝説が生まれたのか、という話です。もともと北条氏は桓武平氏を名乗っているとはいっても、出自もよくわからない地方豪族に過ぎないわけです。
その北条氏が、鎌倉幕府の執権となり、得宗といわれ、鎌倉幕府の実質的な支配者になったわけです。そこで、うまく説明をつけるため、納得するために、後からこういう伝説が作られたのかもしれません。