わかる鎌倉時代(五)鎌倉幕府の滅亡

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後醍醐天皇の討幕計画

蒙古襲来以降、鎌倉の御家人たちの暮らしは日に日に苦しくなっていきました。幕府も徳政令を出して借金帳消しにしたりしますが、まったく逆効果で、むしろ御家人たちの生活を圧迫する結果となりました。

こういう混乱した中、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒をひそかに狙っていました。後醍醐天皇は儒学を信奉し、主君と臣下のけじめのはっきりした封建的社会を理想としました。そのため、本来臣下であるはずの鎌倉幕府が朝廷をしのぐ勢いである現状は、後醍醐天皇には許しがたいものに見えました。

また、この頃天皇家は持明院統と大覚寺統。二系統に分かれ、不毛な争いを続けていました。

大覚寺統と持明院統。両統迭立

天皇が代替わりするごとに、鎌倉幕府は持明院統、大覚寺統双方から売り込みを受けました。今度は持明院統から出してください。今度は大覚寺統から。いやいや今度は持明院統からと。

「ああメンドくさい。じゃあもう幕府のほうで決めてしまいますよ」

ということで今後、10年ごとに、大覚寺統、持明院統から交互に天皇を出しなさいと取り決めました。文保元年(1317)文保の和談です。

しかし、後醍醐天皇は納得できないわけです。大覚寺統、持明院統交互に天皇を出すなんてことではなく、本音を言うと自分が属する大覚寺統だけから天皇を出したい。もっと言うと、大覚寺統の中でも自分の直系の子孫だけから天皇を出したいと後醍醐天皇は思うわけです。

こういった事情により、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒す強い必要にかられていました。

後醍醐天皇による二度の討幕計画。いずれも失敗に終わります。一度目は1329年正中の変です。これは事前に内部告発によって発覚しました。しかし、つかまった後醍醐天皇の側近・日野俊基・日野資朝が自分たちの単独犯行です。あくまでそう言い張ったので、後醍醐天皇までには幕府の追及は及びませんでした。

二度目の討幕計画は1331年元弘の変です。これも内部告発によって発覚します。鎌倉幕府は京都に使者を差し向け、後醍醐天皇に問いただします。

「幕府を倒そうというご計画とのことですが、これはどういうことですかな」

「いや、それはであるな、ひとえに天魔の所為であったのだ」

天魔の所為。つまり、魔物につかれていて心神喪失していた。ワタシ責任能力ありませんと。デタラメな話です。

三か月後、突如幕府の討手が後醍醐天皇をとらえようと迫ります。後醍醐天皇はこれをいち早く察知。京都南方の笠置山に陣を取ります。

後醍醐天皇笠置山へ
後醍醐天皇笠置山へ

時を同じくして、後醍醐の皇子大塔宮護良親王や、河内の悪党楠正成も反幕府方として兵を上げます。

楠正成像(皇居外苑)
楠正成像(皇居外苑)

しかし、笠置山の後醍醐天皇は鎌倉方にさんざんに責め立てられ、わずかなお供とともに山中を逃げていくところ。誰だそこにいるのは!くっ…みつかったか。こうして捕らえられます。後醍醐天皇は無理やり三種の神器をうばわれ、持明院統の光厳天皇に譲位させられ、翌1332年、隠岐島へ流されます。ここまでの一連の流れを、元弘の変といいます。

しかしその後も、楠正成や大塔宮護良親王は河内や吉野で反幕府方として戦い続け、反幕府の動きは高まる一方でした。そんな中。

元弘三年(1333)後醍醐天皇が隠岐島を脱出し伯耆の船上山に臨時の皇居を置き、京都で立てられた光厳天皇と対立する構えを見せます。

後醍醐天皇 隠岐を脱出、船上山へ
後醍醐天皇 隠岐を脱出、船上山へ

「京都にいる光厳天皇に渡した三種の神器は偽物である。我こそ真の帝王だ。諸国の心ある者たちよ力を貸してほしい」

六波羅探題の滅亡

「なにっ!帝が隠岐島を脱出!!」

鎌倉は大騒ぎになりました。北条高時は名越高家と足利高氏を大将とし、後醍醐天皇討伐に向かわせます。

ところが足利高氏。何を思ったか三河国矢作に至った時、後醍醐天皇のもとに使者を立て、裏切りを決めます。

そうして何食わぬ顔で鎌倉方として京都に入り、頃を見て六波羅探題を攻撃します。六波羅探題はあっけなく焼け落ち、光厳天皇一行は北条一門の先導で東国へ逃れようとしますが、途中、野武士の攻撃を受け、なんとか逃げ切るも、その先の美濃には足利高氏方の兵がひしめいている。もうどうにもならんと北条の一門は自害しました。

光厳天皇らは高氏方によって京都に連れ戻されます。こうして承久の乱の後設置されて以来、鎌倉が京都を監視する「目」として機能してきた六波羅探題は、112年間の歴史の幕を下ろしました。

さて、京都で足利高氏が六波羅探題を攻め落とした頃、東国ではもう一つの戦いが始まろうとしていました。

鎌倉滅亡

足利高氏が京都で六波羅探題を攻め落としたのが5月7日。翌5月8日。上野国(群馬県)で新田義貞が反北条の兵を挙げます。

新田義貞像(分倍河原駅前)
新田義貞像(分倍河原駅前)

新田義貞は足利高氏と同じく清和源氏ですが、足利が北条氏に優遇されてきたのに対し、長年北条氏から足蹴にされ待遇は悪かったです。その恨みもあったようです。

新田氏と足利氏

「鎌倉を攻め落とせ」

新田軍は鎌倉めざして鎌倉街道を南下。利根川を渡り、入間川を渡り、途中、小手指原で、久米川で、分倍河原で、多摩川渡って関戸で、幕府軍を破りながら、5月17日、藤沢に入りました。

分倍河原古戦場碑
分倍河原古戦場碑

関戸橋
関戸橋

多摩川
多摩川

北条高時はじめ幕府首脳部はひとまず鎌倉防衛のための布陣をします。

新田勢は巨福呂坂、化粧坂、極楽寺坂の三方から鎌倉への突入を図るも、

新田義貞 鎌倉侵入
新田義貞 鎌倉侵入

巨福呂坂トンネル
巨福呂坂トンネル

化粧坂切通
化粧坂切通

極楽寺坂切通
極楽寺坂切通

北条方の必死の抵抗を受け、簡単には進めない中、新田の本体は稲村ケ崎方面に迂回し、鎌倉への突入をはかりますが、途中の稲村ケ崎は道が狭く潮が満ちていて進めない。その時。

稲村ヶ崎
稲村ヶ崎

新田義貞が「龍神よ、どうか道を開き給え」どぼーんと剣を海に投げ入れると、さあっと潮が引いた、というのが『太平記』にある有名なエピソードです。

稲村ケ崎を通過した新田義貞軍は由比ガ浜沿いに材木座まで移動。

新田義貞 稲村ヶ崎から材木座へ

追い詰められた北条方は、北条館(現宝戒寺)を放棄し、

宝戒寺
宝戒寺

宝戒寺 北条邸跡の碑
宝戒寺 北条邸跡の碑

滑川の東・北条氏の菩提寺である東勝寺に逃げこみ、もはやこれまでとやぐらの中で一族こぞって自害しました。死者の数283人を数えました。こうして、

滑川にかかった東勝寺橋
滑川にかかった東勝寺橋

滑川
滑川

元弘3年(1333)5月22日。鎌倉は陥落し、150年間にわたった鎌倉幕府の歴史は終わりました。新田義貞が挙兵してから、わずか14日目のことでした。

東勝寺跡
東勝寺跡

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本日も左大臣光永がお話しいたしました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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