一休宗純の生涯(六)大徳寺復興

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こんにちは。左大臣光永です。

京都御所で、高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)が公開されていたので見てきました。高御座は「即位礼正殿の儀」の時に天皇がおすわりになる御座であり、御帳台は皇后がお座りになる御座です。紫宸殿正面の十八段の階段を上がった奥に、左右に並べて据えられていました。

令和2年(2019)10月22日に行わたれた今上陛下の「即位礼正殿の儀」のためには、飛行機で東京まで運んだそうです。

高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)。しみじみと観察してきました。感慨ふかいものがありました。

本日は「一休宗純の生涯」の第六回目「大徳寺復興」です。

前回は一休と兄弟子の養叟(ようそう)と、そりがあわなかったこと、一休は禅僧ではあるが宗派にはこだわらず、特に浄土真宗には接近したことなど語りました。

本日は第六回目「大徳寺復興」です。

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薪村から住吉へ

足利将軍家および有力守護大名家である畠山家・斯波家の跡取り問題に端を発した争いが、幕府の二大実力者、山名宗全・細川勝元の対立となり、ついに応仁元年(1467)応仁の乱が勃発しました。

この年、一休は74歳。大徳寺境内の瞎驢庵(かつろあん)にいましたが、戦火をのがれて、東山の虎丘庵(こきゅうあん)に移ります。

東山虎丘庵は茶室造の小さな建物でした。しかし東山にも戦火が迫ってきたので、遠く薪村の酬恩庵(しゅうおんあん)に移りました。

酬恩庵
酬恩庵

酬恩庵
酬恩庵

かつて妙勝寺という寺があったのを一休が復興したもので、神奈備山を背に負い、静かに佇んでいるような寺です。薪という地名は、その昔、木津川沿いに燃料の薪を石清水八幡宮まで運んだことによります。

現在、一休寺の通称でしたしまれています。

静かな酬恩庵での暮らしを一休は大いに気に入ったようです。

しかし文明元年(1469)になると、静かな薪村まで西軍が入ってきました。それで今度は瓶原(みかのはら。現京都府木津川市加茂町)から奈良を抜けて堺を経て、住吉神社境内の松栖庵(しょうせいあん)にやっと落ち着きます。

しかしその翌年には住吉にみずから雲門庵(うんもんあん)をたてて住まいました。一休は雲門庵にて、ようやく数カ年の落ち着いた時を得ます。

森女との出会い

文明2年(1470)11月14日、77歳の一休が住吉に暮らしている頃、一休は薬師堂で、一人の盲目の少女の歌をききました。それが、森女(しんじょ)との出会いでした。

余薪園の小舎に寓して年有り、森侍者、余が風彩を聞きて已に嚮慕(きょうぼ)の志有り、余も亦焉(これ)を知る。然れども因循(いんじゅん)として今に至る。辛卯(しんぼう)の春、墨吉に邂逅して、問ふに素志を以てす。

余が薪村の庵に住んで何年か経った。森侍者(森女)は、余の噂をきいてすでに慕う心があった。余もまたそれを知っていた。しかしあれこれあって今に至った。この春、住吉で会って、たがいに恋心を確かめあった。

森女の年齢はわかりませんが、画像に描かれた姿をみると、20代なかばから30歳くらいに見えます。一休は77歳。まさに「ふたたび廻ってきた春」でした。

しかも、混迷きわまる応仁の乱のさなかに、その「春」は、来たのでした!

以後、一休は生涯、森女と同棲したようです。

盲森、夜々、吟身に伴う、被底の鴛鴦(えんのう)、私語新たなり。

『狂雲集』558

盲目の森女と、夜ごとに歌を歌い、身を寄せ合う。掛け布団の下のおしどり夫婦。交わす愛の言葉はいつも新鮮だ。

木稠葉落更回春
長緑生花旧約新
森也深恩若忘却
無量億劫畜生身

木は稠(しぼ)み葉は落ちて更に春を回らす
緑を長じ花を生じて旧約新なり
森也(しんや)が深恩(しんおん)若し忘却せば
無量億劫(むりょうおくごう)畜生の身

同 559

木はしぼみ葉は落ちてもまた春はめぐって来る。
緑はしげり花は咲き古いものは新しくなった。
そんなふうに森女の愛によって私は若返った。
森女の深い恩を忘れれば、
無量億劫もの間、私は畜生の身に落ちるだろう。

大徳寺再建に奔走

文明5年(1473)一休は檀家からの寄進で住吉に小さな寺を作り、大徳と号しました。京都の大徳寺が応仁の乱で焼失したので、再建するまでの、仮住まいでした。

文明6年(1474)まだ応仁の乱は続いていました。2月22日、養叟の弟子である摂津尼崎の広徳寺の柔中(じょうちゅう)和尚が、後土御門天皇の勅命を奉じて一休に大徳寺の住寺になるように要請してきました。

大徳寺は応仁の乱で焼失しましたので、その再建を、天皇は、一休にゆだねたわけです。

住寺になることを嫌う一休も、さすがに勅命であれば断わるわけにもいきませんでいた。

頂戴せんが即ち是か、放下(ほうげ)せんが即ち是か、溥天(ふてん)の下(もと)、是れ王土(おうど)。頂戴して伝く、是々(ぜいぜい)。

239

いただいたものか、突き返したものか迷ったが、広い天の下はすべて帝王の土地である。頂戴して言うのだ、そうだ、そうだったと。

一休は自分自身を戒める2つの偈頌(げじゅ。四句三十二字の韻文)と法語を作り、大徳寺第47代住寺となりました。ただし、大徳寺には一日住んだだけで、あとは住吉に住み続けました。

大徳寺には気にくわない兄弟子の養叟と、その弟子(春浦宗熙(しゅんぽそうき))がいるので、一休は好かなかったようです。

8月には瘧(おこり)を患い、病の床につきましたが、一休のもとに参禅する者は多く、100人を超えました。

「なぜワシなぞの所にこんなにたくさんの人が…」

寿塔を作る

文明7年(1475)薪村酬恩庵境内の虎丘庵に寿塔(じゅとう)を作りました。寿塔は生前に作る墓のことです。一休が尊敬する僧(慈明禅師石霜楚円(せきそうそえん))とその跡取り(楊岐方会(ようぎほうえ))の名から一字ずつ取って、慈楊塔(じようとう)と名付けられました。

慈楊塔は、以後、一休門下の人々の拠点となります。

応仁の乱終結

文明9年(1477)この年は応仁・文明の乱の終結の年です。一休84歳。この前年も河内で東軍・西軍の戦いがあり、一休は一時住吉をはなれて和泉に難をのがれました。

それから住吉にもどり、春夏は何事もなく一休は安穏に過ごしました。竹林の中にあずまやを作り、そこで日がなのんびり過ごすことが多くなりました。しかし秋からは戦乱によって場所を転々とします。

11年間にわたった応仁の乱がもたらしたのは破壊と混乱だけでした。もはやどちらが勝ったのか、負けたのかすらわかりませんでした。京の町は焼け野が原となり、人々はただ呆然とするばかりでした。

計らざりき、万歳期せし花の都も今何ぞ狐狼(ころう)の伏土(ふしど)とならんとは。適(たまたま)残る東寺北野さへ灰土となるを、古(いにしへ)にも治乱興廃(ちらんこうはい)のならひありといへども、応仁の一変は仏法王法ともに破滅し、諸家(しょけ)悉(ことごと)く絶えはてぬるを感歎にたえず、飯尾彦六右衛門尉一首の歌を詠じける。

汝(なれ)やしる都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落つる涙は

『応仁記』

文明10年(1478)3月12日、長年暮らした住吉を離れ、薪に行くことになり、一休にかかわる多くの人々が別れを惜しみました。

文明11年(1479)大徳寺に新しい法堂が完成しました。一休のすすめで、堺の人々の多くが寄進してくれた結果でした。勅命により託された大徳寺の再建事業。いわばその一里塚にたどりついたわけです。

とはいえ一休はあいかわらず大徳寺にはほとんど顔を出さず、薪の酬恩庵でののんびりした山里暮らしを楽しんでいました。その傍らには森女の姿がありました。

死に対して、一休はきわめて達観していました。

生れては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も

またこの頃の偈でしょうか。

狂雲真是大燈孫
鬼窟黒山何称尊
憶昔簫歌雲雨夕
風流年少倒金樽

狂雲は真(まこと)に是(こ)れ大燈の孫
鬼窟黒山、何ぞ尊しと称せん
憶ふ昔、簫歌雲雨(しょうかうんう)の夕(ゆうべ)
風流の年少、金樽を倒せしことを

私一休こそが大燈国師の(禅における)孫である。
人のいない洞窟や山奥にこもっていて、何をえらそうにいうのか
思えば昔、音曲や歌が鳴り響く遊里で女たちと夜を過ごし、
風流を愛した若き日の私は酒樽を空にするまで酔いつぶれたものだ。

「大燈」一休が尊敬した、鎌倉後期の臨済宗の僧。後醍醐天皇、花園上皇の帰依を得て大徳寺を開く。一休は我こそはその孫であるといっている。
「雲雨」「風流」は主に男女の関係のこと。

遷化

文明13年(1481)一休は大徳寺の正門を復興し、7月10日に落慶供養を行いました。しかし。一休の体はしだいに弱り、10月1日、瘧が再発しました。薬を飲んでいったん治まり、客と会ったりもしまたが、11月7日、危篤状態になり、飲み物も口に入らず、21日午前6時に座禅したまま亡くなりました。享年88。

最後の言葉はなんと、

「死にとむない」

だったとか(『本阿弥行状記』)。

仏教者は死に執着しないという。しかし死に執着するまいとする、そのこだわりが、かえって執着となる。死にたくないなら、死にたくないという天然自然を、そのままに受け入れる。煩悩すらも、肯定する。一休の生き様すべてが凝縮されているような言葉です。

遺偈として伝わっているのは、

須弥南畔
誰会我禅
虚堂来也
不値半銭

須弥(しゅみ)の南畔(なんぱん)
誰(たれ)か我が禅を会(え)す
虚堂(きどう)来たるも
半銭(はんせん)に値(あたい)せず

須弥山の南…この人間世界で、
誰がわが禅を理解しうるだろうか。
私の師・虚堂和尚が来たとしても、
半銭にも値しない。

また、こうも詠んでいます。

朦々として三十年
淡淡として三十年
朦々淡々として六十年
末期の糞をさらして梵天に捧ぐ

(ムラムラ、モヤモヤして六十年。末期の糞をさらして天に捧げる。人間なんてそれだけのことだ)

続けて、

借用申す昨月作日(さくげつさくじつ)、返済申す今月今日(こんげつこんにち)、
借りおきし五つのものを四つかへし
本来、空にいまぞもとづく

(命はほんの少しの間借りていただけなのだから、今お返しします。
借りていた五つの(地水火風空)のうち四つを返し、
人間本来のありようである空だけが残る。

一休没後10年目の延徳3年(1491)、大徳寺境内に一休派の門人たちによって塔頭が建てられました。堺の豪商や越前朝倉家の援助もあって建ったのでした。真珠庵といいます。真珠庵は今も大徳寺境内北東部にあります。

大徳寺 真珠庵
大徳寺 真珠庵

次回、「一休宗純の生涯(七・最終回)『狂雲集』」に続きます。

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北条泰時と北条時頼(1時間24分)
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日蓮と一遍(1時間29分)
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明治の廃仏毀釈(24分)
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解説:左大臣光永

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