一休宗純の生涯(五)兄弟子との対立

こんにちは。左大臣光永です。

電車の椅子の背もたれって、たいてい前後にスライドできるようになってるじゃないですか。終点まで行って、今度、折返し、始点に向けて出発する、その時に、乗り込んできたお客さんが、椅子の背もたれを、ガコン、ガコンと、反転させて、電車の進行方向を向いて皆が座るように、する。

それを車掌さんが指示するでもなく、アナウンスが流れるでもなく、ごく自然に皆がやってるのが、不思議だなあといつも思います。日本人のお行儀のよさというか、同調圧力というか。べつに進行方向逆向きに座っててもいいじゃんと、いつも思うんですが…

本日は「一休宗純の生涯」の第五回目「兄弟子との対立」です。

前回は師の華叟宗曇(かそうそうどん)が没したこと、一休の堺通い、朱鞘の木太刀を帯びたり、女郎屋通いといった風狂の行い。47歳で大徳寺塔頭・如意庵(にょいあん)の住寺となるも、兄弟子養叟(ようそう)とそりがあわず、10日でやめたことなど語りました。

本日は第五回目「兄弟子との対立」です。

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尸陀寺創建

嘉吉2年(1442)、49歳の一休は丹波の譲羽山(ゆずりはやま)に尸陀寺(しだじ)を創建しました。おそろしく山奥です。今もたどりつくのは相当の根性がいります。

この前年、六代将軍足利義教が家臣の赤松氏によって殺害される「嘉吉の変」が起こっています。一休が譲羽山に移ったのも、嘉吉の変の後の混乱した世相から逃れるためであったとも言われます。

淫坊十載興難窮
強住空山幽谷中

淫坊十載、興(きょう)窮(きわ)まり難し
強(し)いて住む 空山幽谷の中(うち)

遊里に十年も通い詰めたが、いまだに興は突きない。
だがあえて、人里離れた山中や谷間に住むことにした。

茅屋三間起七堂
狂雲風外我封彊
夜深室内無人件
一盞残燈秋点長

茅屋三間、七堂を起す、狂雲風外(きょううんふうげ)、我が封疆(ほうきょう)。
夜深うして室内、人の伴う無し、一盞(いっさん)の残灯、秋点長し

『狂雲集』192

三間のボロ屋だが、七堂伽藍を起こしたつもりだ。狂雲たる俺には、外の風こそが我が王国だ。
夜が更けてくると部屋の中には誰もなく、一皿の消え残った灯火だけが、秋の夜長に灯っている。

またも自殺未遂

山奥の尸陀寺で、ようやく俗世間から離れて、清々しく生きられる。しかしまたも事件が起こります。文安4年(1447)、大徳寺の僧が自殺するという事件があり、これに伴い寺内に派閥抗争がおこり、僧侶数人が逮捕・投獄されたのでした。

一休はこの事件に絶望して、譲羽山(ゆずりはやま・じょううさん)に入って食を断ちました。時に一休54歳。21歳の時の自殺未遂は若気の至りという面もあったでしょうが、今回はより深刻に、思いつめてのことでした。そのまま餓死して、即身仏になるつもりだったんでしょうか…

この時は後花園天皇が勅諫によって一休の自殺をとめたため、一休は自殺は思いとどまりました。

洛中に戻る

宝徳2年(1450)仏教界の腐敗を嘆き、自分と弟子たちのために戒めの文を作り、何人かの有力者にも送りました。そこには、自分の死後、印可状を持つと名乗り布教する者があれば、それは詐欺ですから、罰してくださいとありました。

世俗の権威を嫌い、徹底的に自己に厳しくあろうとする姿勢が出ています。それでいて魚肉を喰らい、女郎屋通いを続けていました。

風狂の狂客、狂風を起す、往来す、婬坊(いんぼう)、酒肆(しゅし)の中
具眼(ぐげん)の衲僧(のうそう)、誰か一拶(いっさつ)、南を画(かく)し北を画し、西東を画す。

『狂雲集』125

風に吹かれた狂った男、一休が、狂った風を起こす。俺は女郎屋や酒屋をうろつきまわる。
目が開いた修行僧がいれば、誰か一突きしてみろ。南に、北に、西に東に、吹き飛ばしてやる。

また、少年愛にも興じていました。

淫乱、天然、少年を愛す、風流の清宴、花前に対す
肥えたるは玉環(ぎょっかん)に似、痩せたるは飛燕(ひえん)
交わりを絶つ、臨在正伝の禅

『狂雲集』433

俺の色好みは生まれつきのことで、少年が大好きだ。
風流な宴では、花のような少年たちと向かい合う。
太っているのは玉環といわれた楊貴妃に似てるし、痩せたのは趙飛燕(絶世の美女として知られる前漢成帝の皇后)に似ている。
こんな楽しいことがあるんだから、臨済禅の正しい教えなど、吹っ飛んじまう。

兄弟子養叟との対立

享徳3年(1454)一休は兄弟子養叟宗頤(ようそうそうい)と、絶交しました。

前々から一休は養叟の堺での布教方法に、反感を持っていました。養叟は堺の町衆を教化するために陽春庵(ようしゅんあん)という僧坊を建て、講義を繰り返し、悟りを得た証である印可状を与え、信者をふやしていました。

大徳寺への経済支援のためでした。

信者をふやし寺を大きくしたい。これは宗教者として当たり前のことであり、そのやり方も、養叟の場合、特に悪質であったとも思えません。むしろ養叟の経営能力があったからこそ、大徳寺は繁栄し、今日なお栄えているのです。

しかしひたすら純粋に禅を追求する一休は、反発しました。

「金で禅を売るのか!」と。

享徳4年(1455)一休は『自戒集』をあらわし、養叟の布教方法を、これでもかと、ケチョンケチョンにけなします。

紫野大徳寺はじまりてより以来、如此(かくのごとき)の大悪党の邪師、未聞不見也(いまだきかずいまだみざるなり)。

『自戒集』

(紫野大徳寺はじまって以来、このような大悪党の邪坊主は、見たことも聞いたこともない。紫野は大徳寺がある地名)

堕落しきっている。まともな禅とはいえない。印可状を市民に濫発するとは何事か。そもそもそんな紙切れが、純粋禅と何の関わりがあるのだ。印可制度そのものが、間違っている。

どうしても禅宗が印可制度をつづけるなら、私は禅を捨てよう。念仏宗でも、法華宗でも、よそへ移ろう。そんなことまで言っています。

妙勝寺を修復

康正2年(1456)、63歳の一休は山城国薪村(たきぎむら)の妙勝寺を修復し、開山の南浦紹明(なんぽしょうみょう)の像を安置しました。今も一休ゆかりの寺として「一休寺」と呼ばれて親しまれている、酬恩庵(しゅうおんあん)です。(京都府京田辺市)。ただし一休が酬恩庵に住むのはもっと後になります。

酬恩庵
酬恩庵

酬恩庵 方丈庭園
酬恩庵 方丈庭園

仮名法語『骸骨』

長禄元年(1457)64歳の一休は仮名法語『骸骨』を刊行し、堕落しきった仏教界への強烈な批判をうたいました。

いにしへは、道心をおこす人は寺に入りしが、今はみな寺をいづるなり。見ればぼうずにちしきもなく、坐禅をものうく思ひ、工夫をなさずして、道具をたしなみ、坐禅をかざり我慢多くして、ただころもをきたるを名聞(みょうもん)にして、ころもはきたるとも、ただとりかへたる在家なるべし。けさ・ころもはきたりとも、ころもは縄となりて身をしばり、けさはくろがねのしもく(撞木(しゅもく)…鐘をたたく槌)となりて、身をうちさいなむと見えたり。

大意
昔は道心をおこす人は寺に入ったが、今は皆寺を出るのである。見れば坊主に知識もなく、坐禅をつまらなく思い、工夫をせずに、道具をたしなみ、坐禅をかざり、自分をエラいと慢心し、ただ僧衣を着ていることだけを世間的なほまれにして、僧衣を着ているといっても、着飾った在家とかわらない。袈裟や衣を着ていても衣は縄となって身をしばり、袈裟は鉄の撞木となって、身をうちさいなむと見える。

在家…出家せずに、俗世で生活しながら仏道に帰依する者。

現在の宗教界にそのまま当てはまる批判と思われます。

長禄・寛正の飢饉

長禄3年(1459)一休66歳。この年は春から夏にかけて雨がふらず、飢饉となり、秋になると近畿一円は暴風雨と洪水で多数の死者が出ました。以後、寛正2年(1461)まで、3年ごしの大飢饉となりました。「長禄・寛正(ちょうろく・かんしょう)の飢饉」です。

洛中の死者だけでも8万3000人に達したと記録されます(『碧山日録』)。

庶民が塗炭の苦しみにあえいでいる頃、将軍義政は人民救済などはまったく顧みず、2千貫文の巨額を投じて、祖父義満の造営した室町殿の修復作業をさせていました。

「長禄・寛正の飢饉」のただ中、一休は大徳寺内の徳禅寺の住寺をつとめていましたが、洛中に餓死者があふれているにも関わらず、貴族たちは遊び暮らしていることに憤慨して、

大風洪水万民憂
歌舞管弦誰夜遊

大風洪水、万民憂う
歌舞管弦、誰が夜遊ぞ

大風に洪水に万民は憂いている。
こんな時に歌舞管弦をして、誰が夜遊んでいるのか!

洛中には数万人もの乞食があふれ、悪党が横行し、疫病による死者も多く、生活苦の庶民が一揆を各地でおこし、世は大いに乱れました。

浄土宗に接近

ところで一休は禅宗にはとくにこだわっていませんでした。なにしろ釈迦も閻魔も、禅宗の祖である達磨大師もからかった歌を詠むくらいなので、宗派の区別など、一休は問題にもしていませんでした。とくに浄土真宗には接近したようです。

寛正2年(1461)一休68歳。この年、かねてから親交のあった浄土真宗の蓮如上人が、本願寺(京都東山大谷)で祖師親鸞聖人の200回忌の法要をいとなみました。これに一休も参加しました。その席上で一休は、

襟巻のあたたかさうな黒坊主 こいつが法(のり)は天下一なり


大谷本廟 親鸞聖人像

親鸞のことを、このように詠んでいます。そのほか、一休は法然像や、日蓮像にも讃(ほめたたえる詩)も書いています。

宗派の違いは、一休にとってはまったくどうでもいいことで、

成仏は異国本朝もろともに宗にはよらず心にぞよる

菅原道真の作とされる歌に、

心だにまことの道にかなひなば祈らずとても神やまもらむ

とありますが、一休も通じるところがあるようです。

ちなみに蓮如と一休はかなり気心の知れた仲だったようで、こんな話が伝わっています。

蓮如と一休が旅の途中、ある人が馬の絵に賛を書いてくれと頼んだ。すると一休は

馬じゃげな

蓮如は

そうじゃげな

と書いたということです。

次回、「一休宗純の生涯(六)大徳寺復興」です。

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