後白河上皇(十七)文治勅許

こんにちは。左大臣光永です。

「では、始めたいと【思います】」

↑↑この表現が、とても気になります。人の講演とか、youtubeの動画とかみてて、いつも気になるんです。「思います」も何も、始める、始めないの権限はあなたにあるんだから、「始めます!」と断定して、勝手に始めりゃいいんです。なんで「始めたいと思います」などと、持って回った言い方をするのか。

「私は始めたいと思いますが、もしあなた方が認めてくれるなら始めますし、でも認めてくれないなら、ここで止めますうぅ」とでも言ってるようです。半端にお客さんの方に判断をゆだねているようで、なよなよした感じがします。「始めます!」「こういうことです!」と、言葉というものはズバリ、言い切ったほうがよいです。

本日は「後白河上皇(十七)文治勅許」です。

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前回までの配信
https://history.kaisetsuvoice.com/cat_Heian.html#Goshirakawa

前回は「平家滅亡と、頼朝・義経兄弟の対立」について語りました。

平家一門が壇ノ浦に滅亡した後、頼朝・義経兄弟の対立が表面化し、ついに義経は後白河法皇に迫って頼朝追討の院宣を得て、叔父の新宮十郎行家とともに挙兵するが、ほとんど支持者がなかった、というあたりまで前回語りました。

本日は第17回「文治勅許」です。

「日本国第一の大天狗」

「頼朝追討の院宣が下され、義経が挙兵した」

その知らせが鎌倉に届いたのは、文治元年(1185)10月23日でした。

知らせを受けた時、頼朝は鎌倉雪の下の勝長寿院の会堂供養の真っ最中でした。勝長寿院は父義朝の菩提をとむらうため頼朝が建立した寺院です。その勝長寿院で、頼朝は義経そむくの知らせを聞いたのです。

「うむ。すぐに出陣じゃ」

11月1日、頼朝の軍勢は駿河の黄瀬川宿(きせがわのしゅく)まで進みました。くしくも黄瀬川宿は、頼朝・義経兄弟が生まれて始めて出会った場所でした。あの時は兄弟手を取り合って平家を倒そうと誓い合ったのに、こんなことになってしまった…頼朝としても、さまざまな思いがあったことでしょう。ほどなく、義経が京都を退去した知らせが入ります。頼朝はいったん軍勢を鎌倉に引き返し、側近たちと今後のことを話し合います。

「義経ごときはさしたる問題ではない。が、法皇さまが義経に頼朝追討の院宣を下したという事実。これは最大限に利用せねばならぬ」

「鎌倉殿、その役目、私にお命じください」

名乗り出たのは舅の北条時政でした。

11月上旬、関東の軍勢が次々と西国へ向かいます。

「おらあ!どけどけ!鎌倉殿のご命令だ」
「な、なにをするか、うわーー」

彼らは乱暴狼藉の限りを尽くしました。後白河法皇の知行国である播磨国では、法皇の代官を追い出し、倉庫を封鎖してしまいました。

「なに!播磨が襲撃された?」

驚いた後白河法皇は、鎌倉へ密使を送り、弁解します。

「今回のことは、実にまったく、朕のあずかり知らぬところであった。天魔の所為であったのだ。今後は政からは退く」

天魔の所為。天魔がやったことです。記憶にございませんと!

ついで後白河は頼朝に、義経・行家を追討する院宣を下しました。つい先日、義経・行家に頼朝追討の院宣を下したのに、です。

しかし後白河にとって、状況はよくなりませんでした。関東から届く報告は、

「頼朝は怒りを解かないばかりか、自ら大軍を率いて上洛しようとしています」

そんな中、先の言い訳に対する頼朝の返答が京に届きました。

「行家・義経謀反のことは天魔の所為とおっしゃるが、とんでもないことだ。天魔とは仏法をさまたげ人倫に災いをするものを言う。頼朝は多くの朝敵を滅ぼし、政権を法皇にお任せしたのに、反逆者にされてしまった。なぜこんなことになったのか。そもそも法皇のお考えと無関係に院宣が下る、などということがあるのか。行家・義経ごときがいつまでも逮捕されないでいると、国々は疲弊し人民は難儀する。日本国第一の大天狗とは、ほかにいないであろう」

「日本国第一の大天狗」

義経・行家と頼朝をはかりにかけて、あっちに着いたりこっちになびいたり日和見する後白河への、痛烈な皮肉でした。

後白河以下、近臣たちはこれを見て色を失ないます。

文治勅許

この時、北条時政は1000騎を率いて頼朝の代官として上洛していましたが、ここぞと法皇につめより、鎌倉側の要求を認めさせてしまいます。

要求とは、義経捜索のために各国に守護を置くこと。
各荘園・国衙領に地頭を置くこと。
それらを頼朝が管理することでした。

これを文治勅許といいます。

守護・地頭の名目は逃亡した義経の捜査でしたが、その真の目的は、鎌倉幕府の支配権を全国的に広げることにありました。事実、義経が滅んだ後も守護・地頭は残り続け、鎌倉幕府の支配体制の根幹をなすシステムになっていきます。

ここまで、

後白河が義経に頼朝追討の院宣を下したのを受けて頼朝が京に軍勢を差し向け、後白河に迫って義経追討の院宣を下させ、守護・地頭の設置を認めさせてしまうまで。

源頼朝(および北条時政)のやり口はまことに神業といわざるを得ません。後白河がいかに老獪な策謀家であったとしても、頼朝に対しては「一手劣る」という印象を受けます。

ではこれで後白河の権威はすっかり衰えたのか?そうではないです。まだこの時点では畿内・西国には守護・地頭の手は及ばなかったし、後白河は頼朝に譲歩しつつも朝廷側に権限を残すことには成功しました。

一方、頼朝も、朝廷を叩き潰そうとはまったく思っていませんでした。むしろ頼朝は伝統的な朝廷の権威を重んじました。今回のように利害が食い違った場合には法皇に対しても容赦しないが、基本的には頼朝は後白河の忠実な臣下でした。

このあたりは織田信長の朝廷や足利幕府に対する姿勢に近いものを感じます。

京都の院・朝廷および公家政権と、鎌倉の武家政権は、しばらく妥協しつつ共存していくことになります。京都の院・朝廷および公家政権がすっかり権限を奪われ、鎌倉幕府の下に屈するのは、36年後の承久の乱以後になります。

奥州合戦

義経は奥州の藤原秀衡をたよって落ち延びますが、まもなく秀衡は死に、息子の泰衡の代になります。泰衡は鎌倉からたびたび義経の首を求められると、ついに屈しました。

文治5年(1189)4月、奥州高館にて藤原泰衡に襲撃され自害に追い込まれました。義経の首は塩漬けにして鎌倉に送られました。しかし頼朝は許すつもりはありませんでした。

最後の敵・奥州藤原氏の討伐に向かいました。

頼朝は再三、後白河に奥州藤原氏討伐の院宣を下すよう求めますが、後白河はこれを認めないので、

ついに頼朝は院宣なしに奥州にむけて大軍を動かしました。

「軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という老臣・大庭景能の提案によるものでした。

頼朝は北は関東から南は九州薩摩まで 大規模な動員令を出し、鎌倉に軍勢を集めます。 その数は『吾妻鏡』によれは二八万四千騎。

そして自ら軍勢を率いて奥州へ出陣しました。文治五年(1189年)7月。奥州合戦の始まりです。

奥州合戦 地図
奥州合戦 地図

大手の大将軍は源頼朝みずからがつとめ、先陣を畠山重忠がつとめ、下野を経て陸奥に入り白河の関を越えて、多賀城、平泉をめざします。

8月10日、阿津香志山(あずかしやま)防塁の戦いでは苦戦しますが、畠山重忠の指揮で敵の守りをくずし、多賀城を、ついで平泉を占領しました。

多賀城碑
多賀城碑

中尊寺 金色堂 覆屋
中尊寺 金色堂 覆屋

藤原泰衡は部下によって殺され、その首が頼朝のもとに送られてきました。

頼朝は平泉からさらに北にすすみ、前九年合戦以来、河内源氏と奥州藤原氏の因縁の場である厨川(くりやがわ)に到り、ここに藤原泰衡の首をかかげて、引き返し、

10月24日、鎌倉に帰還しました。

次回、「後白河上皇(十八)(最終回)入寂」に続きます。

いろいろと配信中です

岩倉米欧使節団
https://youtu.be/SV58LVRUIJ4

明治4年(1871)から明治6年まで、岩倉具視、木戸孝允はじめ明治政府の首脳部がアメリカ・イギリスはじめ全12ヵ国を巡察。長く鎖国体制下にあった日本にとっては、大きなカルチャーショックとなりました(32分)。

明治の廃仏毀釈
https://youtu.be/iIOI8Xt38Yc

慶応4年(1868)「神仏分離令」を発端とする仏教弾圧・仏教排斥運動。もともとは神仏習合の寺社に、神社と寺を分けさせ、神道を国家宗教にすることが目的だったが、神仏分離令を拡大解釈した神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れた。日本国最悪の文化破壊といえます(24分)。

受付開始【紫式部の生涯】オンライン版
https://sirdaizine.com/CD/Murasaki-OL2.html

『源氏物語』の作者。一条天皇中宮彰子に仕えた女房。その謎の多い生涯について語っています。先日から受付開始しました。詳しい内容・サンプル音声はリンク先まで。

解説:左大臣光永