後白河上皇(十八)入寂

こんにちは。左大臣光永です。

7月の京都といえば祇園祭ですが、今年は新型コロナのため中止になって、寂しいかぎりです。

祭に実際に足を運ばないまでも、駅の構内なんかで祇園祭のお囃子がスピーカーから鳴り響いていると、なんとなくワクワクしますからね…。

それが今年は無いというのは、さびしくもなります。

しかし。「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」、花は満開だけが、月は満月だけがいいのではない。…

祭の楽しめない時に、イメージの中に祭を思い描き、ふたたび祭が開催されるのを楽しみに待つ。それもまた、よいものであると。昔の人はいいこと言ったなァと思います。

本日は「後白河上皇(十八)(最終回)入寂」です。

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前回までの配信
https://history.kaisetsuvoice.com/cat_Heian.html#Goshirakawa

前回は「文治勅許」について語りました。

源頼朝は後白河が義経に対して頼朝追討の院宣を下したことを逆手にとり、北条時政を後白河のもとに遣わして、この件について後白河を責め、義経追討の院宣を出させると共に、義経捜索の名目で全国に守護・地頭を置くことを認めさせました。

義経は藤原秀衡をたよって奥州に逃げ込むも、まもなく秀衡が死ぬと、跡をついだ泰衡は鎌倉からの圧力に負けて義経を襲撃。義経は自害し、その首は塩漬けにして鎌倉に送られました。

しかし、頼朝はこれを機に全国の軍事力を総動員して奥州に攻めこみ、最後の敵、奥州藤原氏を滅ぼした、ところまで前回語りました。

本日は第十八回(最終回)「入寂」です。

頼朝の上洛

奥州合戦の翌年の健久元年(1190年)源頼朝が上洛します。

平家を滅ぼし、義経を滅ぼし、奥州藤原氏を滅ぼした鎌倉の主・源頼朝が、いよいよ上洛する!大臣公卿はじめ市民まで期待が高まります。朝廷では権大納言兼右近衛大将の地位を用意してまで頼朝を歓迎します。しかし頼朝がもっとも切望した征夷大将軍を授けることは、後白河は反対で、後白河の存命中は実現しませんでした。

この前の月の10月には、さきに平重衡の焼き討ちによって焼失した東大寺が再建され上棟式が後白河法皇臨席のもと行われたところでした。

頼朝としても、伊豆に流されて30年ぶりの京都です。さまざまな感慨があったことと思われます。

11月7日、頼朝は多くの家人を従えて京都入りし、かつて平家一門の館の立ち並んでいた六波羅に入ります。そして2日後の9日、後白河法皇と対面し、以後、頼朝・後白河会談は計8回におよびました。

現 六波羅蜜寺
現 六波羅蜜寺

平氏六波羅第跡の碑
平氏六波羅第跡の碑

この時頼朝は後白河より日本国総追捕使、日本国総地頭の地位を授けられ、名実ともに全国の軍事警察権を握ることとなりました。

後白河および公家たちの多くは頼朝が京都にとどまり公家社会に組み込まれることを期待しました。

しかし頼朝は上洛一ヶ月ほどで鎌倉に戻っていきます。

頼朝には京都の公家政権と接近しすぎて失敗した平家一門のことが頭にあったのかもしれません。鎌倉は鎌倉でやっていく。京都とは距離を置くという、頼朝の強い意思が見て取れます。

新造法住寺殿へ

頼朝はこの上洛の前後から、後白河法皇のために法住寺殿の修理をはじめました。後白河は生涯、いくつかの御所を転々としましたが、やはり正規のすまいといえば法住寺殿でした。

現 法住寺
現 法住寺

その法住寺殿は寿永2年(1183)木曽義仲のクーデターによって焼失したのですが、頼朝はそれを修理したのです。建久2年(1191)12月に完成し、後白河は新造法住寺殿に移りました。

しかし後白河はこの頃から病に苦しめられていました。病平癒を祈願して天下に大赦を行い、神仏に祈願しました。崇徳院の廟に奉幣を行い、長門国に安徳天皇の御堂を建て、藤原頼長の墓にも奉幣を行いました。

(多くの敵を葬ってきたからのう…怨霊の数も並大抵でないわ)

そんなこともつぶやいたでしょうか。業の深い生涯であったことを自覚していればこそ、極楽往生を願う御心も強かったでしょう。

弥陀の誓ひぞ頼もしき、十悪五逆の人なれど、一度御名を称ふれば、来迎引接疑はず(『梁塵秘抄』237)

閏12月27日、鎌倉では頼朝がみずから法華経を読誦して、法皇の病平癒を祈りました。

六条殿にて入寂

建久3年(1192)正月には、法住寺殿から六条西洞院の六条殿に移ります。この六条殿にて、3月13日、亡くなりました。

元六条御所 長講堂
元六条御所 長講堂

享年66。時の摂政九条兼実の日記『玉葉』には、

臨終正念、面は西方に向け、手は定印(じょういん)をむすぶ。決定往生(けつじょうおうじょう)、更に疑わずと云々(後に聞く、西方を向き給はず、巽方を向くと云々、又頗る微笑す、疑うらくは、生天(しょうてん)の相か、と云々)

『玉葉』建久三年三月十三日条

法皇は臨終にさいして顔を西に向け、手に定印を結んで、大往生を遂げたと。しかし後にきくと実は西ではなく東南に向いていたとか。またすこぶる微笑んでいたとか。これは往生極楽のしるしではなく、天界に生まれ変わる所作であったと。

天界は神や天人のすむところであり、仏のすむ極楽浄土よりは一歩劣ります。後白河はなおも輪廻して天界に生まれかわるだろうというのです。いかにもこの人を食った法皇の臨終の場面としてふさわしいじゃないですか。

遺体は蓮華王院に葬られます。現在、京都市東山区「法住寺」に接する法住寺陵がそれです。

後白河 法住寺陵
後白河 法住寺陵

後白河法皇の評価

一般に、後白河法皇といえば、「したたかな策謀家」というイメージと、「どうしようもない愚か者」というイメージが共存しています。

これらは源頼朝と、少納言入道信西による後白河に対する人物評を、そのまま引きずっています。

源頼朝は後白河のことを「日本国第一の大天狗」と評し…、

側近の少納言入道信西は、「和漢に比類なき暗主」と評したとされます(九条兼実『玉葉』)。

これら両極端な後白河評が、今日まで共存しています。

いったい後白河の生涯を見渡すと、

・三度、敵に幽閉されながらも(藤原信頼、平清盛、木曽義仲)いずれも復活し、最期まで治天の君としての地位を保ちつづけたこと

・平家一門都落ちをいち早く察知し、比叡山に逃れたこと

・木曽義仲をさっさと見限って頼朝と手を組んだこと

・一の谷で平家一門に和平交渉を持ちかけながら、(結果として)騙し討にしたこと

・義経に頼朝追討の院宣を下したが、頼朝に責められると手の平を返して義経追討の院宣を出したこと
(これにより頼朝にしっぺ返しをくらい、守護・地頭の設置をみとめるはめに)

ならべてみるとすごいですね。

まさに「したたかな策謀家」といったエピソードばかりです。とくに源義経に対する後白河の手のひら返しはあまりにも酷く、義経好きの方にとっては、後白河が好きになれない理由でしょう。

しかし一つ一つのエピソードをよく見ると、後白河は計算づくでやったのか?あたふたと状況に流されているうちに、結果としてそうなってしまったのか?よくわからないんですね。

たとえば「一の谷で平家一門に和平交渉を持ちかけておきながら騙し討にした」件も、はじめは本当に和平交渉をしようと思っていたところ、主戦派の声に押し切られ、しかしその時はすでに和平の使者を送っていたため、結果として騙し討になってしまったようです。

このように後白河の行為は「計算づくと見れば見れるし、そうでないと見れば見れる」ので…今日に到るまで「したたかな策謀家」というイメージと「どうしようもない愚か者」というイメージが共存しています。

私としては、後白河はべつに計算づくで行動していたのではなく、あたふたと状況に流されているうちに、結果として最善の策を選んでしまう…不思議な幸運にめぐまれた人物だと思っています(源頼朝に対しては何枚か負けカードを引きましたが…)。

しかし一方で、後白河がすべて計算づくで動いていた、抜け目ない策謀家であったという説にも、捨てがたい魅力を感じます。

有名な蝸牛(かたつむり)の今様。大河ドラマ『平清盛』でも効果的に使われていましたが…

けっこう酷い歌詞なんですよ。

舞ゑ舞ゑ蝸牛(かたつぶり)、舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん、踏み破(わ)らせてん、真に愛(うつく)しく舞うたらば 華の園まで遊ばせてん、(『梁塵秘抄』408)

(舞え舞え蝸牛、舞わないと、馬の子や牛の子に蹴らせてしまうぞ、踏みわらせてしまうぞ、ほんとうによく舞ってくれたら、華の園まで遊ばせてやるぞ)

いかにも、人を手の平の上でいいように操っているような。

ひょっとして後白河にとって源義経は、舞わせて、もてあそぶための、蝸牛だったのか…?

そんなふうに思えませんかね…?

次回から「自由民権運動」について語ります。お楽しみに!

youtubeで配信中

岩倉米欧使節団
https://youtu.be/SV58LVRUIJ4

明治4年(1871)から明治6年まで、岩倉具視、木戸孝允はじめ明治政府の首脳部がアメリカ・イギリスはじめ全12ヵ国を巡察。長く鎖国体制下にあった日本にとっては、大きなカルチャーショックとなりました(32分)。

明治の廃仏毀釈
https://youtu.be/iIOI8Xt38Yc

慶応4年(1868)明治政府が出した「神仏分離令」を発端として、神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れました(24分)。

受付開始

紫式部の生涯 オンライン版
https://sirdaizine.com/CD/Murasaki-OL2.html

『源氏物語』の作者。一条天皇中宮彰子に仕えた女房。その謎の多い生涯について語っています。先日から受付開始しました。詳しい内容・サンプル音声はリンク先まで。

解説:左大臣光永