後白河上皇(十六)平家滅亡と、頼朝・義経兄弟の対立

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こんにちは。左大臣光永です。

近所のお好み焼き屋が閉店したんですよ。コロナのせいか、単に高齢のせいか、わかりませんが。何度か入ったことあったので、やはりちょっと、寂しいですね。

貼り紙がしてあって、「閉店につきご自由にお持ち帰りください」と、店先に漫画本を並べてあるんですよ。長年、店の本棚にならべてあった漫画たちです。

とはいえ、このモノ余りの時代に、いくらタダとはいっても、長年油にまみれ、たくさんの人の手に取られた漫画本を、わざわざ持ち帰る人も少ないと思います。

「なかなか引き取ってくれないものねえ」なんて言いながら老夫婦が漫画本を片付けているさまを想像すると、わびしい気持ちにもなりました。

本日は「後白河上皇(十六)平家滅亡と、頼朝・義経兄弟の対立」です。

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前回は「一の谷の合戦」について語りました。

後白河と院の近臣たちは三種の神器を奪還するため、都落ちした平家一門に対し、和平交渉を行おうとしました。しかし一方で、あくまでも武力討伐すべきという意見もあり、結局、主戦派の意見が勝ちました。

寿永3年(1184)2月7日、源範頼・義経が一の谷の平家陣営に攻撃をかけました。

平家方は、後白河から和平の話を持ちかけられて待っていたところに、騙し討ち同然で攻撃され、壊滅状態となりました。平家方は海路、四国の屋島に撤退していきました、という話を、前回語りました。

本日は第16回「平家滅亡と、頼朝・義経兄弟の対立」です。

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法皇の義経優遇

一の谷合戦の後、範頼は鎌倉に帰りましたが、義経は京都にとどまりました。義経は京都に駐在する軍勢の最高司令官として武士を統括し、京都における鎌倉出先代表として、訴訟や治安維持に当たりました。

「九郎義経、なかなかの男ではないか」

なにしろ後白河はじめ院近臣たちは木曽義仲によってひどい目にあっています。今度のも山猿のような田舎武士だろうかと心配していました。ところが義経軍は統制が取れており、略奪もしませんでした。そして義経は後白河に忠実でした。後白河としては、義経のがんばりに応えてやりたい。そこで、

元暦元年(1184)8月、後白河は義経を検非違使(けびいし)・左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任じ、9月はじめには従五位下に除し、至上の名誉とされた大夫判官の称号を許しました。10月はじめには内昇殿(うちのしょうでん)・院昇殿(いんのしょうでん)をゆるしました。

内昇殿とは内裏の清涼殿に上がることができるというもので、これを許された人を殿上人(てんじょうびと)といいます。天皇の私的な空間に立ち入ることができるわけで、つまり貴族の一員になったということです。

院昇殿とは上皇の御所に上がることができるというもので、院近臣(いんのきんしん)=上皇の側近になったことを示します。

ちなみに内裏でも院でも、殿上人でない者は「地下人(じげびと)」とよばれ、板の間に上がることは許されず、地面にはべっていなければなりません。

つまり後白河は、義経を思いっきり引き立てたんですね。

それが、鎌倉の源頼朝を怒らせます。

『吾妻鏡』には「頗る御気色に違い」とあります。たいそうご機嫌が悪くなったと。

頼朝のねらいは京都とは別の政権を鎌倉に築くことにありました。なので賞罰の権限は、「鎌倉殿」である頼朝一人が握っていなければならない。京都の朝廷にも「御家人たちの恩賞はすべて頼朝の推薦の上でやります」という旨を申し入れてありました。

なので、義経が後白河に接近し、勝手に任官したことは、頼朝からすると、ゆるしがたいことでした。

これが頼朝・義経兄弟の溝を深めるきっかけでした。

そのため、後白河が故意に義経を任官させて、頼朝と義経の分断をはかったのだという見方もあります。しかし後白河とてそこまで読めていたとは思えず、義経を任官させたのはあくまでも京都の治安維持にがんばってる義経を評価した結果だったと思います。

平家滅亡

義経はさらにマズイことをしでかします。

「九州に向かった兄範頼が苦戦していると聞きます。
私に平家追討をお命じください」

頼朝を通さずに直接後白河法皇に願い出て、義経は平家追討の院宣を下されます。これを知った鎌倉の頼朝は怒りにふるえます。

「うーむ九郎…なんたる勝手!」

しかし西国の戦況は膠着状態にあり、さしあたっては義経の戦の腕を利用する他ありませんでした。

元暦2年(1185)正月10日、義経軍は平家追討のため京都を発し西国へ向かいます。

同年2月。義経の奇襲により屋島が陥落。

翌3月24日。ようやく回復した範頼軍も加わって平家を長門国壇ノ浦に攻め滅ぼしました。

しかし三種の神器のうちの一つ草薙の剣は海に沈んでしまい、安徳天皇も二位尼時子とともに入水しました。

その後、頼朝は捕虜となった平重衡と平宗盛をあいついで鎌倉に連行させ、尋問します。

本来、彼らは朝廷によって処分されるべき存在でしたが、頼朝は朝廷の処分より先に彼らを鎌倉に連行させたのです。

頼朝の平家一門に対する怨念がここにうかがい知れます。

頼朝・義経の決裂

平家滅亡後、頼朝・義経兄弟の溝はいよいよ深まります。元暦2年(1185)5月、義経は生け捕りにした平宗盛父子をともなって鎌倉へ入ろうとしましたが、途中、腰越で先をはばまれ、宗盛父子だけをそれから先は鎌倉へ入れることになり、義経は腰越にとどめられました。

そこで義経が身の潔白を切々と訴えたのが有名な腰越状です。鎌倉市腰越の満福寺には武蔵坊弁慶が書いたという腰越状の下書きが展示されています。

しかし誠意を尽くした腰越状も頼朝の心を動かすことはなく、返事は一言「追って沙汰する」だけでした。義経はむなしく再び宗盛父子を護送して京に向かうことになります。

この時義経は、「頼朝公に不満がある者は俺についてこい」と言ったといい、それをきいて頼朝は激怒し、後を追いかけさせて義経のために用意していた恩賞をすべて没収させました。

義経が京にもどってからも、頼朝・義経兄弟の対立は深まるばかりでした。義経は河内・和泉に勢力をはっていた叔父の行家と手を組み、関東で頼朝に不満を持つ武士たちとも内々に連絡を取り合い、奥州の藤原秀衡の同意も得ることができました。

ついに義経は、後白河法皇に源頼朝追討の院宣を下すよう求めます。後白河は大いに頭を抱えます。

「どうしたものか。頼朝を討つといっても…」

「いまや頼朝は関東の主。生半可な戦では勝てませんぞ」

「では義経の申し出を断るのか?」

「京の治安は義経に任せきりです。もし義経と郎党たちが敵にまわったら、とても太刀打ちできません」

「困ったのう…」

困った挙げ句、後白河が下した判断は、

いったん義経の要求を聞き入れて義経に頼朝追討の院宣を下す。関東にはその旨連絡して、なんとか双方をうまく調整しよう、という、実に日本的なといいうか、日和見的なものでした。

これ以前にも後白河は二度、頼朝追討の宣旨を下したことがあります。一度は平家に、一度は木曽義仲に迫られて。しかしそのいずれの時も、頼朝は後白河を責めませんでした。だから後白河は今回も後から弁解すればなんとかなるだろうと、甘く見ていたかもしれません。

しかし頼朝にとって、今回のケースは、平家や木曽義仲の時とはまったく意味が違いました。頼朝の身内から反逆者が出たのです。ぜったいに不問に伏すわけにはいきませんでした。

いわば後白河はこの時点で、頼朝に対してぜったいに出してはならないカードを出してしまいました。

この間、頼朝は義経を暗殺する刺客として土佐坊昌俊を差し向け(撃退されました)、義経の所領も没収していました。

文治元年(1185)10月18日、後白河から義経に対して、頼朝追討の院宣が下されました。院宣を受けて義経は京都で叔父の行家とともに挙兵します。しかし畿内の武士たちは、ほとんど従いませんでした。

「だってなあ、源頼朝というのが、なにか悪いことしたわけでもないし」

「それに院宣が下ったといっても、義経がゴリ押しして出させたものらしいぞ」

「ええっ、法皇さまを脅したのか!なんて恐れ多い…」

とそんな感じでした。

やむをえず義経・行家はいったん西国にくだって巻き返しを図ろうとします。

11月5日夜、義経・行家は摂津国大物浦(だいもつのうら)から船に乗り、西国に下ろうとします。しかし。暴風雨にあい、船は難破。軍勢も離散してしまいました。義経・行家はわずかな従者とともに、いずこかへと落ち延びていきました。

次回「後白河上皇(十七)文治勅許」に続きます。

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解説:左大臣光永

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