後白河上皇(十三)平家一門、都落ち

こんにちは。左大臣光永です。

私の家の近くに紙屋川という小川が流れてるんですよ。桓武天皇の平安京創設の昔からある、歴史の古い川です。残念ながらここ数年、ゴミがちらほら投げ込まれてたんですが、先日の大雨でスカーーッと流されて、きれいになりました。きれいになったはいいんですが、紙屋川から流れていった塵芥は、桂川に流れ込み、淀川に入り、やがて大阪湾にまで注ぐのかなァと心配になりました。川にゴミを捨てては、いかんですね。

本日は「後白河上皇(十三)平家一門、都落ち」です。

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前回までの配信
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前回は、「後白河院政の再開」について語りました。

平清盛による福原遷都計画は挫折し、全国で源氏が打倒平家の旗揚げをし、寺社勢力もことごとく平家の敵に回る中、平清盛は平家政権の行き詰まりを感じ、幽閉していた後白河法皇を解放し、政権を返上しました。ほどなく高倉上皇が亡くなり、後白河が院政を再開するところまで、前回語りました。

本日は第十三回「平家一門、都落ち」です。

平清盛の最期

各地で源氏が反平家の旗揚げをし、延暦寺・園城寺・興福寺といった寺社勢力もことごとく平家の敵に回る中、

平清盛が養和元年(1181)2月から熱病に冒され、閏2月4日、没しました。享年64。『平家物語』はその最期をすさまじい筆運びで語ります。

死を前にして、清盛は後白河に使いを送りました。「私の死後は、万事、(三男の)宗盛にはかってください」と。

しかし後白河は、返事をしませんでした。返事しないばかりか清盛危篤と知るや後白河は軍勢を集め、宗盛を討とうと計画までしていたようです。結局、軍勢が集まらず、かないませんでしたが。

清盛は遺言しました。

「天下の事は宗盛の命を第一とせよ。宗盛の命に背いてはならぬ」

源頼朝は、平清盛死去の知らせが鎌倉にとどくと、声を上げて喜びました。

「私は後白河院に対する反逆の意図はまったく無い。むしろ院にそむく者を討伐しようとする者だ。清盛こそ院にそむいたので滅ぼされたのだ」そう叫んだといいます。

墨俣川合戦

清盛を失って悲しみに暮れる平家一門。しかし死後の仏前供養を行うヒマさえありませんでした。

平宗盛は東海地方の源行家軍を鎮圧すべく軍勢を差し向けます。後白河も、院政を再開したものの独自の軍事力を持たず、平家の軍事力を頼るほかないので、平家軍による各地の反乱勢力鎮圧を、支持しました。

養和元年(1181)3月10日、美濃国墨俣川で合戦が行われます。羽柴秀吉が一晩で築いたと伝えられる「墨俣一夜城」の近くです。

平家方は平重衡・平通盛・平維盛率いる1万余騎、源氏方は、源行家が集めた美濃・尾張・三河の軍兵5000余騎。数にまさる平家方が源氏方を敗り、撃退しました。これにより東海地方から西国に進出していた源氏はいったん勢いをそがれ、平家方・源氏方の均衡状態となります。

木曽義仲の挙兵

木曽義仲は信濃で挙兵しました。治承4年(1180)9月7日、平家方の笠原頼直を市原合戦で破り信濃を平定すると、

次に父義賢の根拠地であった上野へ進出し、父の代からの味方を集めようとしました、しかし従兄弟の頼朝との対立を避け、信濃に戻ると、平家の命を受けた越後の城四郎長茂が南下したため養和元年(1181)6月横田河原の合戦にこれを撃破しました。

ちなみに横田河原は永禄4年(1561)武田信玄と上杉謙信の間で「第四次川中島合戦」が行われた近くです。

勝ちの勢いに乗り、義仲軍は越後まで進出しました。

結果、東海・東山地方の頼朝、北陸地方の木曽義仲と、畿内西国の平家と、三者の勢力バランスが拮抗した状態となりました。

養和の飢饉

平家はすぐにも木曽義仲を討伐したいところですが、できない事情がありました。

後世「養和の飢饉」と呼ばれる記録的な大飢饉です。日照り続きで食糧が枯渇し都には餓死者があふれました。

鴨長明の「方丈記」には養和の飢饉の様子が生々しく描き出されています。

築地(ついひぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香(か)世界にみち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。

「養和」という元号はハズレだ、縁起が悪いということで「養和」をあらため「寿永」としましたが、おさまる気配はありませんでした。そんな中、

法皇、藤原俊成に『千載和歌集』の編纂を命ずる

寿永2年(1183)2月、後白河法皇は藤原俊成に新しい勅撰和歌集の編纂を命じます。

「このような時期にですか!」
「このような時期だからこそだ。文の道を絶やしてはならぬ。たのむぞ俊成」

藤原俊成はこの年70歳。藤原道長の六男、長家を祖とする御子左家(みこひだりけ)の家長で、当時の歌壇の中心人物でした。息子の定家とともに、御子左家の歌道の家としての地位を確立させました。五条烏丸から室町にかけて屋敷があったので「五条三位(ごじょうのさんみ)」と呼ばれます。現在、烏丸五条上がるのビルの一角に藤原俊成を祀る「俊成社」があります。

歌集は『千載和歌集』と名付けられました。史上7番目の勅撰和歌集です。ただし源平の争乱により編纂事業は中断し、完成したのは争乱後の文治4年(1188年)でした。

頼朝からの密奏

養和元年(1182)7月頃、頼朝から後白河に密奏がありました。

「私は院に対してまったく反乱の意図はありません。ただ院の敵を討つために戦うのです。もしどうしても平家の討伐が必要であれば、昔のように源平ともに朝廷が召し抱えよ。その上で、関東は源氏に、西国は平氏におさめさせ、東西両方の国司を朝廷が任命するとよい。ただ東西両方の反乱鎮圧には源平両氏に命じられよ。そうすれば源平どちらが朝廷を助け、君命に忠実であるかわかるであろう」

これが頼朝から後白河への、最初の連絡でした。

後白河は、

「どうしたものか。頼朝からこのように申してきたが」

「これは実質上の和平提案です。悪い話ではありません」

「いや、頼朝という男、腹にどんな策を抱いているかわかりません」

「では戦うのか頼朝と。戦火の巷となれば苦しむのは民ぞ」

結局、後白河は頼朝の提案を、そのまま、平宗盛に密奏します。頼朝からこのように言ってきたと。すると宗盛は、

「もっともなことではありますが、父の遺言があります。一族が一人でも生きているなら、頼朝の前に屍をさらせと。なのでたとえ院のご命令でも、きけません」

と拒否しましたので、和平は実現しませんでした。おそらく頼朝は平家が申し出を断るところまで計算に入れていたのでしょう。

義仲軍、京に迫る

その後も頼朝・義仲・平家三者がにらみあい、停戦状態がしばらく続きましたが、寿永2年(1183)に入ると飢饉も下火になってきました。それで先送りになっていた北陸への派兵が行われます。木曽義仲は平家軍を迎え撃って加賀と越中の境、倶利伽羅峠で、加賀の篠原でこれを破り、

寿永2年(1183)6月末から7月はじめ、義仲軍は近江路に入り、比叡山延暦寺とも提携して、京に迫りました。

平家の敵は義仲だけではありません。源行家は伊賀方面から大和に入り北上し、遠江からは安田義定が東海道を西に向かい、多田源氏の行綱は摂津・河内の武士を集めて、それぞれ京をおびやかしていました。いまや平家は四方を敵に囲まれていました。

都落ち

寿永2年(1183)7月22日、木曽義仲の軍勢が比叡山東坂本まで迫っているという話が京都に届き、六波羅は大混乱となります。

7月24日、平宗盛は六波羅の池殿平頼盛の舘に妹の建礼門院徳子を訪ねます。

「平家一門、都落ちすることに決まりました」
「何という…」

(治承4年12月、院号を被って建礼門院と号す)

「すでに東坂本には木曽5万騎が押し寄せ、
郎党の楯親忠、書記の覚明が6000騎を率いて比叡山に上り
3000の衆徒と手を結び、都に攻め寄せる勢いです。
この上は主上と法皇さまをおつれして一門都落ちしたいと思います」

「とにかく、そちのはからいのままに」

徳子と宗盛は互いに袖をしぼり涙を流しました。

法皇、比叡山へ逃れる

7月24日夜、後白河法皇の御所・法住寺殿では、平家の侍橘季康(たちばなのすえやす)が宿直をつとめていました。

橘季康が御所に近づくと女房たちがおんおんと泣く声が聞こえます。

「何事じゃ?」
「法皇さまの御姿が、どこにも見えないのです」
「なんと!!」

橘季康は駆け出し、すぐに宗盛に報告します。

宗盛はすぐに法住寺にとんできますが、後の祭りでした。

後白河法皇の行方は誰も知りませんでした。見事な雲隠れでした。

後白河法皇は平家都落ちを事前に察知し、24日夜、ひそかに法住寺の御所を抜け出し、比叡山に向かっていたのです。

(はじめ鞍馬に行幸したが、参拝者が多くて人目につくので、比叡山横川に移った)

「こうなったら主上だけでも行幸願おう」

寿永2年(1183)7月25日早朝、6歳の安徳天皇を輿に乗せて、同じ輿には母建礼門院が乗り込んで、三種の神器をたずさえて、平家一門西国をめざして落ちていきました。

都落ちに際して、六波羅および西八条の平家屋敷に火をかけて燃やしました。このため、現在、京都には平家一門の息吹を伝える物や建物がほとんど残っていないのが、残念なことです(近年、六波羅第の発掘調査が進んでいます)。

平家都落ちに従った公卿は、わずかでした。反平家派であった前関白松殿基房はもちろん、平家よりだった近衛基通、土御門通親までもが都にとどまりました。彼らにとって平安京は自分たちのホームグラウンドでした。源氏軍が迫っているという不安の中にあっても、簡単に出ていくわけにはいきませんでした。

法皇の比叡山入り

翌7月26日、後白河法皇は京都に残った公卿たちを比叡山に招集し、平家追討について相談しました。

「平家のやっていることは反逆です。追討すべきです」
「断固、追討すべきです」

「だがのう…気になるのは帝と三種の神器。これをなんとしても取り戻さねば…」

7月28日、義仲以下の源氏軍が入京。同日、後白河は蓮華王院に入りここを仮の御所と定めます。直ちに義仲・行家に平家追討の院宣を下し、さらに頼朝には急ぎ上洛せよとの命令を届けました。それまで朝敵であった頼朝は一転して官軍となりました。

次回「後白河上皇(十四)十月宣旨と法住寺合戦」に続きます。

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解説:左大臣光永