後白河上皇(十ニ)後白河院政の再開

こんにちは。左大臣光永です。

早朝、ほととぎすの声が聞こえます。朝4時から5時にかけての、ごく短い時間だけ鳴くんです。よい声です。平安貴族はほととぎすの声をききたいがために一晩中起きていたといいますが、わかる気がします。

聞かずとも聞きつといはん時鳥 人笑はれにならじと思へば(源俊頼)

本日は「後白河上皇(十ニ)後白河院政の再開」です。

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前回は、以仁王の挙兵について語りました。

後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、専横をきわめる平家一門。そんな中、後白河法皇第三皇子・以仁王は源頼政とかたらって打倒平家の令旨を出し、令旨は源行家によって全国の源氏に届けられるも、平清盛は平家打倒計画をいちはやく察知して軍勢を差し向ける。以仁王・源頼政はまず大津の園城寺(三井寺)に、次に興福寺をたよって奈良方面に向かうも、途中の宇治で平家方に追いつかれ、打ち破られるところまで語りました。

本日は第十ニ回「後白河院政の再開」です。

福原遷都

以仁王・源頼政らの挙兵騒ぎから間もない治承4年(1180)5月30日、平清盛はとんでもないことを言い始めます。

「福原へ都を遷す!」
「ななっ…!相国さま、それはどうような」

「以仁王の騒ぎでは、園城寺、興福寺が手を貸しおった。また延暦寺とて、いつ平家の敵になるかわからん。京の都にいる以上、いつもいつも坊主どもの機嫌を伺わねばならん。もうよい。福原に、まったく新たしい都を作るのだ」

6月2日早朝、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇をつれて都を出ます。その夜は摂津大物浦(だいもつのうら。現兵庫県尼崎のあたり)で一泊。翌3日早朝に福原に入ります。

これまで何かと政治に口出しをしてきた寺社勢力と距離を置くこと。後白河を支えてきた貴族政権を仕切り直し、あらたな軍事政権を福原に置くことがねらいだったようです。

しかし福原には受け入れ態勢がまったく整っていませんでした。

天皇や上皇がお住まいになる御所すらなく、仕方なく平家一門の館に入り、仮の御所としましたが、お供に付き添ってきた人々はロクな宿所も無く、道端で座り込むというありさまでした。

また福原は都を築くには幅が無さすぎました。北はすぐに山、南はすぐに海です。

平安京は北は一条南は九条まで通りが整然と並びますが、福原には五条までしか通りを作る余裕がありませんでした。

後白河は福原においても平家による厳しい監視下におかれ、なにも口出し出来ませんでした。ひたすら堪えるのみでした。

富士川の合戦

また福原遷都騒動の間、悪いことが重なります。干ばつと疫病の流行。高倉上皇も重い病にかかってしまいます。

そして、以仁王の令旨を受け、8月には伊豆で源頼朝が平家の代官山木兼隆の館を襲撃。頼朝は石橋山の合戦で敗れるも、真鶴から舟に乗り、房総半島にわたり、鎌倉に入りました。

9月には信濃で木曽義仲が平家方の笠原頼直(かさはらよりただ)を越後に追います。

治承4年(1180年)10月20日。

駿河国浮島ケ原にて、平維盛率いる平家軍と、源頼朝および甲斐源氏の武田信義の軍勢が向かい合っていました。

明日を合戦と定めたその夜の夜半。

武田信義の軍勢が動きます。

ザッザッザッ…

その軍馬の音におどろいたのか、富士の沼に群生していた水鳥たちが、バアーーーッ一度に飛び立ちます。

「ん?はっ?あっ…敵の奇襲だ!おい奇襲だ!」

平家方は大混乱となり、戦わずに逃げ出すという大失態を演じました。しかし頼朝はそれ以上軍勢をすすめず、ひとまず鎌倉に戻り、東国の地盤固めに専念することにします。

天皇・上皇・法皇の還幸

福原遷都は、平家内部でも不評でした。

「都遷しなんて、どだいムリだったんです。話にならないッ!」
「なにッ!!」

普段はおとなしく清盛に逆らわない三男の宗盛が、今度ばかりは清盛と激しく言い争い、皆を驚かせました(『玉葉』治承4年11月5日条)。

さらに、遷都に不満をいだく比叡山延暦寺が脅迫をかけてきます。京に都をもどさないと、山城と近江を占領すると!

「くっ…致し方ない。京に都を戻そう」

11月26日安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇以下、平家一門の人々こぞって福原から京都へ引き上げます。こうして福原遷都計画は、わずか半年で挫折しました。

後白河は六波羅の邸に、高倉上皇は平頼盛の屋敷に、安徳天皇は藤原邦綱の五条東洞院第に、それぞれ入り、ひきつづき平家による厳しい監視下に置かれました。

「いまだ夜は明けぬか…」

ひとりごつ後白河。

しかし、ほどなく事態は一変します。

近江の情勢

治承4年(1180)11月末から12月はじめにかけて、近江で山本義経(やまもとよしつね)・柏木義兼(かしわぎよしかね)
という源氏が平家に反乱を起こします(有名な九郎判官義経とは別人)。

水運のかなめである琵琶湖をふさぎ、北陸からの年貢が平家に届かないようにしました。京の町はとたんに干上がります。致命的な打撃です。

またこれら近江源氏に、延暦寺や園城寺も手を貸していました。12月に入って平家が討伐軍を近江に差し向けてくると、延暦寺・園城寺もさかんなゲリラ活動で抵抗しました。加えて、南都の興福寺・東大寺も遠くから延暦寺・園城寺に手を貸していました。

いまや平家は延暦寺、園城寺、興福寺、東大寺、いわゆる南都北嶺のすべてを敵にまわしていました。しかも各地で以仁王の令旨を受けた源氏が武装蜂起していまいた。その状況を見て、都の貴族たちも平家を見限り、冷ややかな態度をとる者も多くありました。

後白河に政権返上

平清盛は認めざるを得ませんでした。平家政権が行き詰まっていることを。

「致し方ない…。院に、政権を返上しよう…」

治承4年(1180)12月18日、清盛は後白河の幽閉を解いて、政権復帰を願います。

「うむ、清盛め…ついに膝を屈してきたか」

そして讃岐・美濃の両国を後白河の所領としました。もう平家政権ではどうにもならないため、後白河との妥協をはかったのでした。また平家一門からそっぽを向いていた貴族たちの気持ちを引き留める意図もあったでしょう。

しかし後白河はすぐには受けませんでした。

「院政を行っているのは憲仁(高倉上皇)ではないか。いまさら朕が出る幕でもあるまい…」と。

南都焼き討ち

そんな中、平家一門は以仁王に加担した園城寺を焼き討ちにし、ついで南都をも焼き討ちにします。

治承4年(1180)12月27日、

清盛の五男重衡・副将軍には清盛の甥通盛4万騎が、奈良興福寺に派遣されます。

京都から宇治を通って木津川沿いに南へ下り、奈良へ入ると、興福寺方は奈良坂・般若寺二か所に陣をしき抵抗します。

ワーッワーッ!!

早朝からはじまった合戦は一日中続き、死屍累々。

そして夜に入って、

「火を放てッ!」大将軍の重衡が命じます。

松明の火を民家にかけるとメラメラ…

折からの風にあおられてゴーーー…ゴーーーー!!

炎は一気に広がり、寺寺に燃え移ります

興福寺、東大寺の伽藍に炎は容赦なく燃え移り燃え移り、

聖武天皇建立の盧舎那仏像も、この時
熱で金属が溶け出してドローと滝のように流れ落ちました。

灼熱、大灼熱、無間阿鼻の炎の底の罪人もこれには過ぎじとぞ見えし

『平家物語』「南都炎上」

重衡がこの焼き討ちを故意に行ったのか、またそこまではやる気でなかったのが、過失でやってしまったのか

説が分かれます。

しかしいずれにしても、

興福寺、東大寺、伝統のある仏教の聖地を平家は燃やしてしまったわけです。

以後、仏敵として、平家は寺社勢力からますます憎悪されます。平家の立場は悪くなる一方でした。

高倉上皇崩御と後白河院政の始まり

養和元年(1181)正月14日、高倉上皇が亡くなります。享年21。『平家物語』には上皇の聖人君子ぶりを絶賛するエピソードが続きます。しかし実際そこまで聖人君子だったかは、わかりません。

高倉上皇が亡くなると、後白河は、迷うことなく院政を再開しました。いよいよわしの時代が来たといった感じだったでしょうか。

諸国で反平家勢力が蜂起する中、ようやく清盛を抑えて独裁政権への歩みを始めた後白河。しかし依然として、平家一門の軍事力をたよりとせねばならないという状況でした。

次回「平家一門、都落ち」に続きます。

講演録音配信中

北条泰時と北条時頼(1時間24分)
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名執権として名高い鎌倉幕府三代執権、北条泰時と、五代執権、北条時頼。

日蓮と一遍(1時間29分)
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菅原道真の出生から、少年時代・青年時代・宇多天皇に重く用いられ、右大臣にまで至るも、無実の罪を着せられ、大宰府に流され、死後、怨霊として恐れられ、やがて学問の神様に至るまで

解説:左大臣光永