後白河上皇(十一)以仁王の令旨

こんにちは。左大臣光永です。

私の住んでいる京都北野の界隈は、古い町家が多いんですが、ほんとに古くて、見ていて心配になることがあります。家全体が傾いて、屋根が、ぐーっとゆがんで、波打ってるんですよ。

それは京阪電車の窓からむこうに見える、生駒山の山の端のように、ゆるやかなカーブを描いて、遠目に見るのは風情があるんですが、地震がきたら剣呑だなと、いつも思います。

本日は「後白河上皇(十一)以仁王の令旨」です。

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前回までの配信
https://history.kaisetsuvoice.com/cat_Heian.html#Goshirakawa

前回は、「治承三年の政変」について語りました。

後白河法皇と平清盛の対立は日に日に深まっていき、ついに治承4年(1180)11月、平清盛は3000騎を率いて福原から上洛。後白河法皇の身柄をおさえ、鳥羽殿に幽閉しました。

平清盛は人事を刷新し、それまで後白河の近臣たちが占めていた政府要職に、平家一門の関係者をすえました。また後白河と近臣たちの所領地をうばい、これを平家一門の所領としました。

後白河法皇は院政を停止させられ、政治的に完全に沈黙させられた、というところまで前回語りました。

本日は第十一回「以仁王の令旨」です。

高倉上皇の厳島御幸

治承4年(1180)2月、高倉天皇は譲位し、平清盛の孫にあたる言仁(ときひと)親王が安徳天皇として即位します。この時高倉上皇20歳、安徳天皇3歳です。

高倉上皇は形式上、院政を行うことになりますが、院政といっても形ばかりで、実際は平清盛による独裁政権でした。

「上皇さま、厳島へ御幸なさってください」

「なに厳島へ…?しかし清盛、上皇の初社参は石清水か賀茂社、あるいは春日、日吉社ときまっておろうに」

「いいえ、何をおいても、厳島でございます!」

平清盛はそれまでの慣例を無視して、高倉上皇を平家の守り神である厳島へまっさきに御幸させようとします。もちろん、平家の力を世に示すためのデモンストレーションでした。

厳島
厳島

これには園城寺・興福寺・そして平家とよしみの深い延暦寺からさえも反発の声が上がりました。

「清盛の横暴、きわまれり!!」
「もうゆるせん!」

はじめに園城寺が声を上げ、これまで敵対していた延暦寺・興福寺にも呼びかけて、後白河法皇・高倉上皇を奪い、京都を脱出させる計画まで持ち上がりました。

結局、園城寺の企ては失敗に終わり高倉上皇の厳島御幸は実行されました。寺社勢力に対して平清盛は主導権をふるった形です。しかしその代償は高くつきました。それまでいがみあっていた園城寺、延暦寺、興福寺が以後、「反平家」の旗印のもと団結し、協力体制を取るようになっていきます。

後白河の今様、熟練の極みに

この間、後白河は鳥羽殿において世の中の動きを注意深く見守っていました。幽閉中の身ではありますが、目となり耳となる者はいたでしょう。そういう者から情報を得て、そうか、そのようかと、機会を伺っていたことでしょう。

鳥羽離宮南殿跡
鳥羽離宮南殿跡

また後白河の今様熱心は、幽閉中もやみませんでした。むしろ幽閉中で、ヒマですから、以前にもまして熱心に練習したと思われます。後白河の今様は、いよいよ熟練の域に近づいていました。

舞ゑ舞ゑ蝸牛(かたつぶり)、舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん、踏み破(わ)らせてん、真に愛(うつく)しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん、(『梁塵秘抄』408)

(舞え舞え蝸牛、舞わないと、馬の子や牛の子に蹴らせてしまうぞ、踏みわらせてしまうぞ、ほんとうによく舞ってくれたら、華の園まで遊ばせてやるぞ)

…そんなことやってる場合かって気もしますが、この、ドッシリ腰をすえて、運命の成り行きを見つめる感じが、後白河だなと思います。

以仁王の令旨

後白河法皇第三皇子・以仁王(もちひとおう)は平家一門の横槍で30歳すぎても親王宣下も受けられず、毎夜三条高倉の御所で笛をふいては無聊をなぐさめていました。

三条高倉に御所があったので高倉宮ともよばれます。


後白河の子ら

治承4年(1180)4月9日、

77歳の源頼政は、息子仲綱とともに以仁王の御所を訪れ、ひそかに語らいます。

「殿下、全国には平治の乱以来、
平家によってしいたげられている源氏が多くございます。
また、寺社勢力も多くは平家に不満を持っています。
必ずや、殿下とともにに立ち上がってくれます」

「しかし平家を倒すといっても、どうすればよいのじゃ」

「まずは御令旨をお書きください」

「令旨」とは、天皇以外の皇族が出す公式文書のことです。以仁王の令旨は、実物は残っていないのですが、『源平盛衰記』の中に本文の引用があります。

それによると、以仁王は壬申の乱に勝利した天武天皇(大海人皇子に自分をなぞらえています。

つまり、大海人皇子が正当性の無い大友皇子の政権を打倒し、天武天皇となったように、

自分も、平清盛によって樹立された安徳天皇の政権はニセモノだから、打倒するのだ、という話です。

(もっとも『源平盛衰記』の作者の創作とも思われます)

これを、源為義の十男、源行家にたくし、全国の源氏に届けさせます。

「では行家殿、くれぐれも頼みますぞ」
「お任せください」

源行家は保元の乱で処刑された源為義の末子であり、平治の乱に敗れた後は、熊野に身を隠していました。

地方のようすにも明るく、全国の源氏に令旨を届けさせる役としては、うってつけでした。

発覚

しかし、わずか1か月で打倒平家の計画は発覚します。

源行家は熊野で以仁王の令旨を触れ回りましたが、その時以仁王方と平家方で争いとなり、

平家方の熊野別当湛増が、これはけしからんと六波羅に使者をとばしたことで発覚したといいますが、くわしい経緯はよくわかりません。

とにかく、清盛にバレました!

5月15日、平清盛から以仁王への追捕命令が出されます。

「高倉宮を土佐へ流せッ」

以仁王は三条高倉に御所があったので「高倉宮」と呼ばれていました。現在、三条東洞院のマンションの脇に、ぽつんと以仁王の御所の跡をしめす石碑が立っています。

高倉宮御所の碑
高倉宮御所の碑

六波羅から捕縛の手が、三条高倉の以仁王の御所に向かいます。

その捕縛の手の中には頼政の次男、源大夫判官兼綱の姿もありました。この時点では頼政が謀反に関係していることを平家は知らなかったということです。

園城寺から宇治へ

以仁王は、いちはやく平家方の動きを知ると、三条高倉の御所を脱出しました。

この時『平家物語』には、以仁王が女装して逃げ出したとあり、女装した以仁王が溝をひらりと飛び越えるのを通行人が見て、「なんとはしたない女子じゃ」と、呆れたとあります。

高倉を北へおちさせ給ふに、大きなる溝のありけるを、いともの軽うこえさせ給へば、みちゆき人たちとどまッて、「はしたなの女房の溝のこえやうや」とて、あやしげにみ参らせければ、いとどあしばやに過ぎさせ給ふ。

『平家物語』「信連」

おもしろいことに、現在の三条高倉には、以仁王が飛び越えた側溝の跡とおぼしきしるしが残っています。京都文化博物館の東面です。

三条高倉 側溝跡
三条高倉 側溝跡

どのガイドブックにも載っていない、知る人ぞ知る京都の歴史スポットですので、このへん訪れた時はぜひ見ていってください。

以仁王一行は高倉通りを北へ、近衛通りを東へ、鴨川を超え、夜通し如意ケ岳を歩き通し、翌朝早くに園城寺(三井寺)に入り、保護を求めました。

園城寺(三井寺)
園城寺(三井寺)

園城寺の円恵法親王は以仁王の弟でした。また園城寺は高倉上皇の厳島御幸のこともあり、平家と日に日に対立を深めていました。そういう縁をたよってのことでした。

5月21日、平清盛はあらためて、軍勢を園城寺に差し向けます。

園城寺では源頼政・仲綱父子の軍勢と僧兵たちが防戦につとめましたが、支えきれず、

5月25日夜。

以仁王、源三位入道頼政以下、三井寺の僧兵たちは、ひそかに園城寺を脱出。興福寺との連携をはかって奈良をめざしますが、

途中、宇治で平家軍に追いつかれ、源頼政は平等院の門内で自害。以仁王はさらに南に逃げましたが、井手の光明山寺の鳥居の前で平家軍に射抜かれ息絶えました。

現在、平等院境内には源頼政自刃の地として「扇の芝」と、不動堂内に頼政の墓があります。

扇の芝
扇の芝

平等院不動堂内 源頼政の墓
平等院不動堂内 源頼政の墓

井出には高倉宮以仁王をまつる高倉神社と、以仁王の陵があります。近くの畑の中には、以仁王を守って戦った三井寺の僧兵・筒井浄妙(つついじょうみょう)の墓といわれる陵があります。

井出 高倉神社
井出 高倉神社

以仁王稜墓
以仁王稜墓

筒井浄妙墓?
筒井浄妙墓?

こうして以仁王と源三位入道頼政、いずれも志なかばで悲惨な死を遂げてしまいました。

しかし。以仁王が発した打倒平家の令旨は源行家によって全国の源氏にとどけられます。

やがて伊豆の源頼朝、信濃の木曽義仲、甲斐の武田信義、四国の河野通信(こうの みちのぶ)、九州の緒方惟栄(おがた これよし)…全国の源氏たちが立ち上がることになります。

次回「後白河上皇(十ニ)後白河院政の再開」に続きます。

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解説:左大臣光永