後白河上皇(十)治承三年の政変

こんにちは。左大臣光永です。

右手のど真ん中に血豆ができてしまいました。本棚のネジをしめるのにドライバーをギュウギュウ回しすぎたのです。おハシを持つ時、掃除する時…なにかと不便です。手が、いかに大事な器官か、あらためて実感しています。

本日は「後白河上皇(十)治承三年の政変」です。

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後白河上皇(一)前回までの配信
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前回は、「白山(はくさん)事件」と「鹿ヶ谷(ししがたに)事件」について語りました。

「白山事件」とは、

とても入り組んだ話ですが、ようするに比叡山延暦寺とのゴタゴタです。

治承元年(1177)加賀国で加賀守藤原師高(もろたか)とその弟で加賀国目代の師経(もろつね)が比叡山延暦寺の末社である白山神社領涌泉寺(ゆうせんじ)を焼き討ちしたことがきっかけでした。

白山事件
白山事件

比叡山延暦寺がこれに抗議して、師高・師経兄弟への処罰をもとめました。しかし後白河は軽い処罰で済ませようとしたため、延暦寺の僧兵たちが都に強訴してきました。

「師高・師経を許すな!!」
「師高・師経をさらし首にしろ!!」

しかし後白河は、側近の西光法師の意見を容れて、延暦寺に対して強く出ます。天台座主明雲を処罰することにしました。明雲は天台座主の任を解かれ、還俗させられた上で伊豆に流されることになり、また所領の39箇所が没収されました。

この処置が、ますます火に油をそそぐことになりました。

怒った比叡山の僧兵たちは、護送される天台座主明雲を琵琶湖のほとり粟津で待ち伏せて、比叡山に連れ帰りました。

今度は怒るのは後白河のほうでした。

「院宣に背くとはけしからん!!」

後白河は、平清盛に対して延暦寺僧兵への総攻撃を命じました。

「ああ困った…」

平清盛は、平家一門と延暦寺とのよしみを考えると、戦いたくない。しかし後白河の命令である以上、戦わざるをえない。

苦渋の選択を迫られる平清盛。

そんな中、

打倒平家の計画「鹿ヶ谷の陰謀」が発覚します。

後白河の側近である西光法師とその兄藤原成親、平康頼らが、法勝寺の僧都俊寛の所領である東山鹿谷の静賢法師の山荘に夜な夜な集まり、打倒平家の計画を話し合っていたというのです。

俊寛僧都鹿谷山荘跡
俊寛僧都鹿谷山荘跡

俊寛僧都鹿谷山荘跡
俊寛僧都鹿谷山荘跡

そしてこの会合には後白河もたびたび参加したと。

「平家を倒すだと!生意気な!」

平清盛は西光法師を拷問にかけ、自白させると、関係者を次々と捕らえ、処罰しました。いわゆる「鹿ヶ谷事件」「鹿ヶ谷の陰謀」です。しかし清盛は、後白河の逮捕まではできませんでした。証拠不十分で、断念したようです。

実際に打倒平家の計画があったのか?

後白河がその黒幕だったのか?

よくわかりません。

平清盛は延暦寺への総攻撃を命じられて苦しい立場にありました。その清盛が、苦し紛れにでっち上げた、自作自演とも言われています。

清盛と後白河、一時休戦

この「鹿ヶ谷事件」の後、後白河は、これまでと打って変わって、清盛に対して下手に出るようになります。

鹿谷事件の翌7月、後白河は清盛の福原別邸を訪れ、仏事を主催します。同年12月、蓮華王院五重塔の落慶供養に息子・高倉天皇とともに参加しました。高倉天皇の妃は平徳子。徳子の父が清盛ですから、当然その場には徳子と清盛もいたでしょう。

蓮華王院 南大門
蓮華王院 南大門

後白河と清盛がお互いに接近したり離れたりしながら腹のさぐりあいをしている様が、よくうかがえます。

言仁親王誕生

治承2年(1178)11月、平徳子が高倉天皇の子を生みます。言仁(ときひと)親王、後の安徳天皇です。翌12月、清盛が後白河に要請して、言仁親王を東宮(皇太子)に立てました。同時に、平宗盛を東宮大夫(とうぐうだいぶ)に、平重衡を東宮亮(とうぐうのすけ)に、平維盛を東宮権亮(とうぐうのごんのすけ)に立て、平家一門が力をあわせて、東宮言仁親王を支えていく体制が整えられていきます。

後白河と清盛、衝突

言仁親王の誕生によって、後白河と清盛の対立はおさまったかに見えました。しかし両雄ならびたたずの言葉どおり、ともに独裁政権をめざす後白河と清盛は、いつか衝突する運命にありました。

治承3年(1179年)6月、平清盛の娘で前関白近衛基実の未亡人盛子が亡くなります。

盛子は摂関家領の大部分を夫から相続していましたが、その盛子がなくなった場合、当時の常識では氏の長者領を基実の弟である関白松殿基房にわたし、ほかの大部分は基実の子の基通以下に分割相続させるのが当然でした。

近衛家と松殿家

しかし後白河法皇は強引に所領のすべてを 取り上げ、院の領土としてしまいます。

近衛家を保護する立場にあった清盛は、 面目丸つぶれです。

同年8月、清盛の長男重盛が亡くなります。すると法皇は重盛の子維盛が相続していた越前の領土を没収します。

これまで反平家派の黒幕でありながら表面上はおとなしくていた後白河でしたが、公然と平家に清盛に牙をむきはじめたのでした。

また後白河法皇は清盛の立場を無視した人事を行います。同年10月、清盛の(義理の)孫にあたる近衛基通(もとみち)(母は藤原忠隆の娘。義母は平盛子)を無視し、関白基房の嫡男でわずか8歳の藤原師家(ふじわらのもろいえ)を権中納言に任命します。

平家一門が近衛家と結びつきが深く、松殿家と結びつきが無いことを見て、わざと松殿家の師家をすえてきたのです。

これはあからさまに、後白河から清盛への挑発でした。

「ぐぬぬ…もう許せぬ!」

清盛は福原の別荘に住んでいましたが、治承3年(1179)11月14日、豊明節会の日、突如3000騎の軍勢をひきつれて、京都に押し寄せます。

「戦だ、戦になるぞ!」
「平家が叡山を攻めるって?」

情報は混乱していました。

市民は合戦の始まるのを恐れて資材を東山に運びました。

入京した清盛は、朝廷を制圧すると、人事を刷新します。

関白藤原基房をやめさせ、その子師家の官を解きます。

基房は大宰権帥に落とし、師家の官位を解き、のちに尾張に流罪とします。

近衛基通を関白・内大臣にすえ、藤原氏の氏の長者とし、前大僧正明雲を、天台座主にもどしました。

さらに、太政大臣藤原師長、権大納言資賢(すけかた)以下、検非違使藤原信盛(のぶもり)に至るまで39名(「平家物語」では43名)を罷免。平家一門の関係者をもって、これにかえます。

「なんと!清盛が!」

さすがの後白河法皇も、これには仰天します。すぐに静賢法印(信西の子)を清盛のもとにつかわし、

「以後、政治向きのことは一切かかわらない」

二度まで、そう訴えましたが、無駄でした。

11月20日。

後白河法皇は車に乗せられ、京都南方、鳥羽殿に移されました。

「ああ!法皇さま!お痛ましいこと」

人々は嘆き悲しみました。身の回りには、わずかなお供しか近づくことは許されませんでした。後白河は鳥羽殿で平通盛・平経盛らに厳重に監視され、幽閉生活に入ります。

畏れ多くも法皇さまが、臣下にすぎない平家によって身柄を拘束されるという、前代未聞の事件でした。

治承三年の政変と呼ばれるこの事件により後白河法皇の院政は停止させられます。

後白河の完全な敗北。政治的失脚でした。

その上清盛は後白河法皇とその近臣たちの領土を没収し平家の領土としました。

結果、全国の平家知行国は30か国まで膨れ上がり、平家一門は軍事独裁政権ともいうべき、巨大な権力を手に入れることになりました。

安徳天皇即位

政変後、清盛は一時福原にひきかえしますが、再度上洛します。言仁親王の即位を急ぎ、治承4年(1180)2月、高倉天皇は譲位し、安徳天皇が即位します。

高倉天皇は慣例にしたがって院政を行うことになりましたが、あくまで形式上のことで、実質は平清盛の独裁政治でした。安徳天皇即位について、鳥羽殿に幽閉されていた後白河法皇は、もちろん一切、意見をきかれることはありませんでした。

次回「後白河上皇(十一)以仁王の令旨」に続きます。

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解説:左大臣光永