彰義隊(三)大村益次郎着任
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今日ひさしぶりに京都御苑を歩いたら、猫が歩いていて、やっぱりyoutubeでみる猫動画よりはるかに可愛かったです。実に形になってました……
前々回から彰義隊についてお話しています。
彰義隊。慶応4年(1868)5月15日の上野戦争で新政府軍と戦った旧幕臣を中心とする部隊。
新選組や白虎隊にくらべて知名度は薄いですが、上野寛永寺で戦われた「上野戦争」は、半日で終わったとはいえ、戊辰戦争のターニングポイントといえる重要な戦いです。
天正18年(1590)徳川家康の江戸入府以来、江戸市中で戦われた唯一の戦としても歴史に記憶されています。
本日は第三回「大村益次郎着任」です。
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靖国神社 大村益次郎像
過去配信ぶん
彰義隊(一)徳川慶喜、江戸へ
彰義隊(ニ)彰義隊結成
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彰義隊の分裂
慶応4年(1868)4月11日、徳川慶喜は江戸城を去り、水戸で謹慎となりました。
同4月21日、東征大総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王が江戸城に入りました。
いよいよ江戸が本格的に新政府の管理下に置かれることとなりました。
彰義隊は、今後の身の振り方を迫られていました。
なにしろ慶喜は寛永寺を去ったのです。もう警護する必要もなくなりました。
そこで頭取の渋沢成一郎は隊士たちに提案します。
「すでに慶喜公は江戸を離れたのだから、我々も江戸の市外で新政府軍を迎え撃つべきである。上野で戦をすれば地の利が悪いし、江戸が火の海になってしまう。江戸市外で戦ったとしても、面目は立つ」
しかしこれには猛反発が来ました。副頭取・天野八郎は言います。
「あくまで江戸に踏みとどまって、薩長を打ち破るべし」
隊士たちの人気は、天野八郎に集まりました。それで彰義隊は引き続き寛永寺に留まることになります。
渋沢成一郎は徳川慶喜に取り立てられた側近であり、対して天野八郎は徳川の幕臣とはなってもべつだん慶喜個人に忠誠心はありませんでした。
それで渋沢成一郎は慶喜の命令は絶対で、慶喜が新政府に恭順姿勢をしめしている以上、それに従うのが筋と考えました。一方天野八郎にとって大切なのは徳川であって、徳川を守るためなら戦も辞さぬ考えでした。
こうした渋沢・天野の立場・考え方の違いが対立を生んだものです。
「ばかな。江戸を火の海にするつもりか。まったく付き合いきれん…」
渋沢成一郎は同士を引きつれて彰義隊を去り、振武軍という部隊を結成。青梅街道沿いの田無に、ついで箱根ヶ崎村(東京都西多摩郡瑞穂町。米軍横田基地ちかく)に拠点を置き、新政府軍への抵抗をつづけていきます。
大村益次郎着任
この間、京都では岩倉具視・三条実美(さんじょう さねとみ)ら新政府首脳部が、江戸の大総督府に対する不満をたぎらせていました。
「彰義隊など、しょせんは烏合の衆であろう。なぜさっさと潰してしまわぬのか。西郷は何をしているのだ」
「生ぬるいですよ西郷のやり方は。戦を避けよう、避けようとしているのでしょう。結果、彰義隊のような不貞分子をのさばらせることになる」
「勝海舟にいいように手玉に取られているのであろう…」
新政府では、西郷ではらちが明かぬと新しい大総督府参謀を江戸に派遣します。
大村益次郎(1824-1869)。
靖国神社 大村益次郎像
後に明治陸軍の創始者となり、現在靖國神社に銅像が建っています。
長州の出身ではじめ医者を志します。23歳で大坂に出て緒方洪庵の適塾に学びました。
家業をついで医者となるもうまくいかず、伊予宇和島藩に招かれ西洋兵書の翻訳や軍艦の製造に携わります。
その後、江戸に出て鳩居堂という塾を開いて蘭学を教えていました。その評判を耳にした桂小五郎により長州に呼び戻されます。
高杉晋作の奇兵隊の創設にかかわり、第二次長州征伐では長州に10倍する幕府軍を殲滅し、勝利に導きました。自らも、石見との国境・岩州口で長州軍の参謀として石見浜田城を落城させています。
鳥羽・伏見の戦いの後、上洛し、陸海軍の事務を統括する軍防事務局で判事という役務に当たっていました。
大村益次郎は江戸下向を命じられると大坂の天保山から船に乗り、海路江戸へ向かいます。
ただし船酔いに弱く、遠州灘を越えたところで吐いてしまったそうです。
船は品川につきます。
品川で大村益次郎を出迎えた新政府の役人は、思わず息を飲みます。
「…これは噂にたがわぬ…」
靖国神社 大村益次郎像
大村益次郎の風貌には、大きな特徴がありました。おでこです。
「火吹き達磨」。
高杉晋作は、そうあだ名を付けたといいます。
「火吹き達磨」とは小さなだるま型の銅製の容器で、水を入れて熱すると口から火を出すもので、火鉢などに火をつける時に使いました。
大村益次郎の肖像を見ると、なるほどいかにもゴオーと口から火を出しそうな感じです。
「なんですかな。私の顔に何かついておりますか」「いえいえいえ、先生、どうぞ乗ってください」
こうして大村益次郎は、江戸城に迎えられ、大総督府参謀の任につきます。しかし、旧幕臣に対する宥和政策を取る海江田信義などと対立し、しばらく大村に活躍の場はありませんでした。
大総督府の方針返還
それまで江戸の大総督府は旧幕府に対して寛大路線でした。江戸城を返還しよう、所領を返還しようという動きまでありました。
勝海舟のたくみな交渉によって引っ張られていた部分もありますが、東北でも旧幕臣が新政府軍に対して反旗をひるがえしており、その鎮圧に兵力を割いている以上、江戸で大規模な軍事行動は控えたい、というのが大総督府の本音でした。
この状況に対して京都の新政府首脳部はしびれを切らしていました。
閏4月24日、関東監察使・三条実美が新政府首脳部の意向をおびて江戸城に入ります。三条実美は、大総督府の面々を前に、
「徳川家の処分については、私が全権を委任されている。
である以上、これまでのようになあなあではいかぬ」
翌25日、さんざん長引いていた徳川家への処分が内定しました。
「徳川の家名は田安亀之助(徳川家達)に相続させる。徳川の臣は駿府に移封し、江戸城は返還しない。禄高は70万石とする」
これまでの温情路線と正反対でした。もとは800万石だったのを十分の一以下とするわけです。これでは徳川の臣下は食っていけません。徳川に対してきわめて厳しい処置でした。
三条実美はしかし、これを公表するには時期をはかる必要があると考えました。
三条実朝が岩倉具視に当てた書状には、
「まずは田安亀之助に徳川の家名を相続させる旨だけを公表すべきだ。すべて公表すると徳川家から猛反発が来ることはあきらかだ。今、江戸で武装蜂起されたら、大総督府では鎮圧ができない。だから十分に軍備を整え、万一、彼らが武装蜂起しても鎮圧できるような体勢を整えた上で、公表すべきだ」
「まずは田安亀之助に徳川の家名を相続させる旨だけを公表する」
この部分は4日後の閏4月29日に実行されました。「移封先と禄高については追って通達する」といって、伏せておきました。駿府、70万石はもう決まっていたのですが。
同日、大総督府参謀・林玖十郎(はやし くじゅうろう)が罷免されます。林玖十郎は旧幕府方に対する温情路線を通してきた人物でした。それが罷免されたということは、
「これまでのようにはいかんぞ。徳川はとことん追い詰めてやる」という、新政府側の意思表示でした。
5月1日、新政府は勝海舟らに委任していた江戸の市中取締の任を解きます。彰義隊はクビになりました。江戸はふたたび大総督府の直接管理下に入ります。
同日、大総督府より上野寛永寺の彰義隊に対して、通告が届けられます。
一つ、彰義隊の江戸市中取締の役を解く。一つ、新政府によって彰義隊の武装解除を行う。
「なっ…こんなものに従えるか!」「おのれ、どこまで我々を見くびるのか」「戦だ。もう戦は避けられん」
とはいえこれで、彰義隊は法的根拠を完全に失い賊軍になったわけで、脱落する者もありました。
行き場を失った彰義隊はテロに走ります。
谷中や下谷あたりで、彰義隊士が新政府軍兵士を斬り殺す事件が相次ぎます。
佐賀藩士、鳥取藩士、薩摩藩士も殺害されました。
これまで寛大路線を取ってきた西郷隆盛も、見過ごせなくなってきました。
彰義隊討伐へ
江戸城に置かれた大総督府では、彰義隊を討伐しようという声が高まってました。
しかし、恭順派の海江田信義は慎重でした。
「目下、大総督府は東北に多くの兵力を割き、江戸の兵力は不足している。せいぜい3000である。これでは彰義隊を鎮圧するのはおぼつかない」
しかし大村益次郎は違う意見でした。
「今の兵力で十分に勝てます。あなたは戦というものをご存知でない」
「なに!武士に対して戦を知らぬとは、貴様、侮辱するのか!」
どちらも一歩も譲りませんでしたが、西郷隆盛が
「大村どんに同意いたしもす」
と言ったことにより、軍議はまとまりました。5月9日、彰義隊への総攻撃が決議されました。
山岡鉄舟の説得
困ったのは勝海舟です。
これまで勝は彰義隊を交渉の材料としてうまく使ってきました。戦になったら大変ですよ。ねえ、戦になるよりゃマシでしょうと引き伸ばしては、新政府から有利な条件を引き出してきたのです。
しかし実際に戦になってしまうと、彰義隊に勝ち目が無いことはわかっています。何としても戦は避けねばなりませんでした。
そこで勝は、幕臣山岡鉄舟を、寛永寺の実質的な責任者である覚王院義観(かくおういんぎかん)のもとに遣わします。
「彰義隊はいまや江戸の治安を乱しているだけです。すみやかに解散し、寛永寺から退去させてください」
「解散。馬鹿な。慶喜公を薩長に引き渡した裏切り者どもが。勝と西郷に言っておけ。彰義隊は最後の一兵まで戦うと」
「それでは江戸が火の海になります」
「どちらにしても、戦は避けられん」
「……」
まったく話になりませんでした。
新政府軍による彰義隊攻撃が決定した後も、勝は輪王寺宮に書状を送り、ねばり強く交渉しました。しかし輪王寺宮は聞く耳を持ちませんでした。
「新政府による徳川の処分が遅れているのは、血気さかんな彰義隊がいるおかげではないか。もう数日すれば、奥州から味方が駆けつけ、天下の情勢は徳川に傾く。恭順を唱えるだけでは徳川家が滅亡するだけだ」
それが輪王寺宮の言い分でした。
大村益次郎の作戦立案
その間、大村は彰義隊殲滅の作戦立案にかかっていました。
「戦となれば勝つことはたやすい。半日あれば勝てる」
それが大村の持論でした。しかし大村には懸念が2つありました。ひとつは資金です。
大村の見積もりでは50万両が必要でした。半分は大隈重信から拝借し、半分は江戸城西の丸の宝蔵から金目のものを持ち出し、横浜滞在中の西洋人に売ることでまかないました。
もうひとつの懸念は、火事です。上野の山をおりたところで彰義隊が市中に火を放てば、江戸じゅうが火の海になってしまう。
火事をふせぐには、火が燃え広がりにくい日時、風向きを選ぶことが必要でした。そのため大村は、江戸の火事の歴史を調べ、自ら地図を描き、火事になる条件、防火方法を研究しました。
とくに明暦3年(1657)江戸の大半を焼き尽くした「明暦の大火」について詳細な調査をしました。
次回「上野戦争」に続きます。お楽しみに。
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66番前大僧正行尊~