明暦の大火(一)
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明暦3年(1657)正月18日。本郷丸山の本妙寺から出火。折からの強風にあおられ、炎はまたたく間に燃え広がり、三日間にわたって江戸の町の大半を焼き尽くしました。
江戸の町の構造そのものを大きく変えてしまった「明暦の大火」。その具体的な様子はどうだったのか?複数の資料にもとづき、語ります。
明暦の大火以前
江戸の町はたびたび火事に見舞われてきました。徳川家康が江戸に入府した天正18年(1590)から明暦2年(1656)までの67年間で、大小の火事が140件。
中にも大きな火事は、関ヶ原合戦の翌年の慶長6年(1601)閏11月2日、日本橋駿河町から発生し、江戸市街のほぼ全域を焼きました。この火事のあと、幕府は草葺き屋根を板葺きに改めるよう命じました。
そして寛永18年(1641)三代徳川家光の時代。京橋桶町(きょうばしおけちょう)から出火した火事も悲惨でした。
折からの北風にあおられ、炎は燃え広がり…南は芝。東は木挽町海岸。西は麻布まで焼けました。九十七町・民家千九百二十四軒・武家屋敷百二十一軒が焼け死者数百人を出した大災害でした。
明暦元年の神田大工町の火事・明暦二年の呉服町からの火事も、規模の大きなものでした。
1月18日の火災
明暦三年(1657)。
この年は元旦から江戸の各地で火事が相次ぎました。昨年の暮れから一滴も雨が降らず、井戸に水が枯れていたこと。激しい北風が吹いたことが、火事の被害を大きくしていました。
「もう火事はこりごりだよ」
「剣呑だなあ」
江戸っ子たちの不安は次第に高まっていきました。
こんな風聞が流れます。
「火事が多いのは玉川上水のせいだ。玉川上水に水が吸い取られて、地上に水分がなくなったせいだ」
まったく科学的根拠のない、バカバカしい話ですが、江戸市民を不安がらせるにはじゅうぶんでした。
本郷丸山 本妙寺
明暦三年(1657)正月18日。この日はことの他、風の強い日でした。
昼過ぎ。本郷丸山の法華宗の寺・本妙寺(文京区本郷4丁目・5丁目の境)から火が出ます。
本郷円山 本妙寺跡
本郷六丁目の加賀藩邸…現在の東京大学赤門あたりに炎は容赦なく襲い掛かり、まず加賀藩邸東南に鎮座する湯島天神社を、ついで神田明神を、本願寺を炎上させながら…
現在の湯島天神
現在の神田明神
炎は筋違橋(すじかいばし)を越えて、駿河台へと燃え広がり、淀十万石の大名永井信濃守尚政の邸宅をはじめとして、諸大名の屋敷屋敷を燃やしながら、鎌倉河岸(千代田区内神田南部)へと燃え広がり
扇を広げたるが如く末広に広がりながら、浅草橋へ。伝馬町へ。日本橋へ。
日本橋
日本橋の上には橋の南側へ避難しようとする人が殺到しました。各々、車長持ちで家財を運んでおり、身動きも取れませんでした。そこにも容赦なく炎が襲い掛かり、火の粉が覆いかぶさります。
現在の日本橋
霊巖寺
日本橋を舐めつくした炎は、さらに茅場町へ。大名屋敷や町奉行の同心屋敷を焼きながら進み、八丁堀の御船蔵(おふなくら)をも焼き尽くしました。
た、助けてくれーーッ
人々が駆け込んだ先は…
霊巖寺。
現在の霊巖寺
中央区新町にある浄土宗の寺院で、東西109メートル、南北218メートル。11代将軍徳川家斉のもとで老中となり、寛政の改革を断行した松平定信の墓があることで有名です。
現在の霊巖寺
ただし現在の霊巖寺は位置が移っていますが。その霊巖寺に炎に追い立てられた人々が殺到!
そこへ!炎が押し寄せ、本堂・塔頭に燃え移り、黒煙が柱となって立ち上り、車輪のごとき火の粉が、人々の上に容赦なく舞いかかる。
わあーーーーーっ、きゃあああーーーーーーーーーーーっ
灼熱。大灼熱。無間阿鼻の地獄の業火の沙汰も、これには過ぎじと見えました。
毛髪や衣類に火か燃え移り、火だるまとなって、うめきながら死んでいく人々。耐え切れずに海に飛び込んだ者も、水の冷たさと朝からの疲労で大方が死んでしまいました。霊巖寺では9600人あまりが亡くなりました。
佃島
霊巖寺を燃やした炎は、鉄砲洲まで焼き尽くし、停泊していた数百艘の船に燃え移ります。
炎はさらに勢いを得て、海の向こうの佃島に達します。
佃島
佃島は、徳川家康が摂津国佃村(大阪市西淀川区佃)の漁師たちを招いて、海の中の土地を埋め立てさせて作らせた人口の島です。
佃島には航海の守り神・住吉神社がありますが、そこへも炎は押し寄せ焼き尽くし、大名屋敷や庶民の家々も焼き尽くします。
佃島住吉神社
さらに!
吉原・堺町
ゴオーーーーー
吉原炎上。
この頃の吉原は葺屋町(ふきやちょう)東隣(現中央区人形町付近)にありました。すでに幕府の決定により浅草寺裏手への移転が決まっていましたが、そこへ炎が襲い掛かり、
わあーーーっ、きゃあああーーーーーー
泣き叫ぶ吉原の女たち。阿鼻叫喚。地獄絵図。
さらに。
吉原の隣の歓楽街・堺町(さかいちょう)にも炎は押し寄せ、
軒をつらねた芝居小屋・見世物小屋も、アッという間に灰燼と帰しながら炎は進むその先には、
西本願寺
西本願寺の門前には多くの人々が家財道具をもちだして避難していましたが、そこへ、紅蓮の炎は襲い掛かり、本堂・塔頭を炎上させ、炎は山と積まれた荷物の上に覆いかかり、
ごおーーーーーっ
さらに炎上。
現在の築地本願寺
た、助けてくれーーーっ
熱に耐えきれず人々は近くの堀に飛び込むも、ある者は溺れ死に、ある者は押しつぶされ、遅れた者は火だるまとなり、一人残らず死んでしまいました。
石手帯刀吉深による切離
小伝馬町の牢屋奉行・石手帯刀吉深(いしでたてわき よしふか)は、連歌や古典を愛好し、慈悲の心を持っていました。
炎が迫ると囚人たちを集めて言います。
「このままではお前たちは焼き殺されるばかりだ。それではあまりに不憫だから、解放してやる。どこへなりとも逃げるがよい。そして火が鎮まったら、下谷のれんけい寺に集合せよ。やってきた者は、ワシが命に代えても助命しよう。しかし、約束を違えて逃げた者には容赦しない。雲の果てまでも追いかけて捕まえる。妻子まで罪は及ぶからそう思え」
そう言って牢の扉を開け、数百人を解放しました。囚人たちは涙を流し、手をあわせ、念仏を唱えて、思い思いの方角へ散っていきました。そして翌日の1月19日、、一人を除いて全員が、約束を守って下谷れんけい寺に集まりました。一人だけは故郷に逃げ帰りましたが、捕らえられて死刑となった…
という話が伝わっています(『むさしあぶみ』)。
浅草門の悲劇
このように災害の時に囚人を解放することを「切離」といいます。石手帯刀吉深による切り離しは適切な処置でしたが、これが原因で、思わぬところで悲劇が起こります。
下町の住人たちは浅草橋を目指して避難しているところでした。
そこで、「小伝馬町の罪人が脱獄したらしい」という噂が流れたので、警戒のため、浅草門が閉じられました。
伝馬町から浅草門まで八町の間、何万という群衆と、荷物で、身動きも取れなくなりました。門に近い者は閂を開けようと手をのばしますが、荷物でつかえて、ビクともしない。前に進めども門は開かず、後ろに下がれども人並みに押し返されてどうにもならない。
そこへ、炎が襲い掛かり、身動きの取れない避難民を生きたまま焼き殺しました。堀に飛び込んだ者たちも、あるいは押しつぶされ、あるいは溺れ死に、死屍累々さらすばかりでした。
1月18日夜
18日夜になってもまだ炎はおさまらず、白昼のような明るさでした。将軍徳川家綱はこの時17歳。江戸城二の丸の櫓にのぼって様子を見ると、東の空が真っ赤に染まっていました。
「ああ…江戸の町が…東照大権現さま以来の江戸の町が…」
19日午前2時ころ、ようやく火の手はおさまります。
白々と夜が明けます。そこに広がっているのは、一面の焼け野が原でした。
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