彰義隊(一)徳川慶喜、江戸へ

こんにちは。左大臣光永です。

岐阜から京都まで電車に乗ると、地名だけでも腹いっぱいになります。関ヶ原、米原、彦根、近江八幡、草津、大津、歴史ロマンがこみ上げて、嬉しくなります。、

だから静岡講演の帰りはいつも、鈍行で帰ってます。新幹線で行くのがもったいないです。佐和山城や安土城が遠望できるのも、いいです。

本日から四回にわたって、彰義隊についてお話します。

彰義隊。慶応4年(1868)5月15日の上野戦争で新政府軍と戦った旧幕臣を中心とする部隊。結成当初、徳川慶喜の警護と江戸市中の見回りを名目とするも、江戸城明け渡し後は新政府軍としばしば衝突。徳川慶喜の水戸退去後も上野寛永寺にたてこもり、慶応4年(1868)5月15日大村益次郎率いる新政府軍に討伐されました。

本日は第一回「徳川慶喜、江戸へ」です。

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上野恩賜公園 彰義隊戦死者碑

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徳川慶喜の江戸城入り

慶応4年(1868年)正月3日から始まった鳥羽伏見の戦いは新政府軍5000に対し幕府軍15000。数に3倍する幕府軍はしかし新政府軍に惨敗しました。

新政府軍は最新式の西洋式軍装と武器を身に付けていました。そのためわずかな人数が巧みに戦うことができました。


伏見 料亭・魚三楼


伏見 料亭・魚三楼 伏見の戦いの弾痕

一方、旧幕府軍も徳川慶喜がフランスびいきだったことであり、最新式の軍装・武器を持ってはいたものの、これをうまく使いこなせる指揮官がおらず、現場が混乱しました。

また一言で旧幕府軍といっても、幕府直属軍・会津藩・桑名藩・高松藩・松山藩・大垣藩・津藩などの寄り合い所帯であり、統率が取れていないことも敗因となりました。


鳥羽・伏見の戦い勃発の地 碑

薩摩の大久保利通は鳥羽・伏見の勝利を逃さず、徳川慶喜を朝敵として討伐することを、岩倉具視に要請します。

岩倉は大久保の案をいれ…

正月5日、征夷大将軍・仁和寺宮嘉明(よしあきら)親王が東寺を出発。錦の御旗をかかげて鳥羽にあらわれました。その心理的効果は絶大でした。

「ひいい…朝敵なんて、冗談じゃねえぞッ!!」

新政府軍につこうか、旧幕府軍につこうか、日和見をしていた諸藩は、こぞって新選府軍になびきました。

「予が朝敵だと…!!」

大の勤王家であった徳川慶喜はひどく動揺しました。6日夜、慶喜はひそかに大坂城を脱出。


現 大阪城天守

わずかな供回りと共に翌7日朝、大坂天保山沖から軍艦開陽丸に乗り込み、江戸へ逃げ出しました。

徳川のために戦っている会津藩や桑名藩の将兵を見捨ててです。しかも、ひどい狼狽ぶりでした。

家康公以来の金扇の馬印(うまじるし)を置いてきたことに気付いたのは、船の上でした。

8日出航。11日朝、品川沖に到着。12日朝、慶喜はいったん浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)にはいった後、12日夜、江戸城西の丸に入ります。

慶応元年(1865)に14代将軍家茂が上洛して以来、江戸城に将軍が入るのは3年ぶりでした。もっとも慶喜はもう将軍ではありませんでした。

大坂城脱出に前後して、正月7日には慶喜ほかに対する追討令が発せられ、10日には官位が剥奪されていました。

20日すぎになると慶喜に遅れて大坂を脱出した幕臣たちも次々と江戸に到着しました。彼らから、上方の状況が伝えられました。前将軍慶喜は朝敵となり、薩摩・長州が官軍と称して江戸に向かっていると!

慶喜、寛永寺に入る

江戸城に集った旧幕臣たちは、これからどうするか?激しく議論を戦わせました。


現 皇居・江戸城 二重橋

「大坂城に大砲をブチこんでやれ!」
「いやいや、箱根で迎え撃つのだ」

などと、主戦論が大半でした。

しかし慶喜は主戦派の筆頭・小栗忠順(おぐり ただまさ)を罷免し、主戦派の声をおさえる一方、武力対決・平和的恭順の両方を視野に入れて、慎重に事を進めました。

武力対決の備えとしては品川沖の防備を強化し、箱根や碓氷峠の関所を固めました。平和的恭順に向けては、新政府軍にくわわっていた旧越前福井藩主・松平春嶽に書状を送り、新政府軍へのとりなしを頼みます。

「鳥羽・伏見の戦いは行き違いである。部下が勝手に始めたことである。追討令が出されたのは心外である」と(1月17日付 松平春嶽への書簡)。

「何が行き違いか!!」
「都合のよかことばかり言うてから」

新政府軍にとっては、あれだけの戦をしておいて「行き違い」など、受けいられるはずはありませんでした。

(やれやれ慶喜公はどうも現状をおわかりでない…)

松平春嶽は家老の本多修理を江戸の慶喜のもとに派遣します。

「というわけで、新政府側が折れるなど、万にひとつもございません」

「そうか…事はそこまでに、至っていたか」

なにしろ慶喜が朝敵となったことは大きかったです。代々の徳川親藩であった出雲松江藩松平家、讃岐高松藩松平家、伊予松山藩松平家なども徳川を見限り、新政府軍についていました。

ここに到り、慶喜は方針を変えます。

ひたすら謹慎し、逆らわない。

徳川に戦意はありません。だからこれ以上いじめないでくださいというわけです。

慶喜は幕臣たちに対して以下のようなお触れを出しました。

「朝敵の汚名を被った以上、ひたすら天皇の裁きを待つほかは無い。そのほうらの憤慨はもっともである。しかし戦となると外国の干渉を招く。インドや中国の二の舞となる。日本は瓦解し、民は塗炭の苦しみにあえぐことになろう。私は天皇に対して二重に罪を犯すことになる。どうかわが意思を汲み、暴動を起こしてくれるな。軽挙に及ぶ者はわが家臣ではない」

2月12日、慶喜は江戸城を出て、徳川家菩提寺である上野寛永寺の塔頭・大慈院の一室に移ります。以後、謹慎生活に入ります。


現上野恩賜公園 噴水あたり(寛永寺 中堂跡)

相前後して、慶喜は恭順を誓う書状を朝廷に送りました。

東征軍、江戸を目指す

松平春嶽は徳川慶喜が謹慎したことを受けて、新政府に追討軍の派遣を中止するよう願い出ます。しかしもう手遅れでした。

慶喜謹慎に先立つ2月3日、天皇親征の勅が発せられていました。同9日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王が天皇の代理人として征東大総督に任じられます。

2月15日、有栖川宮樽人親王は朝廷より錦の御旗と節刀を授けられ、京都を出発します。

有栖川宮熾仁親王のもと、実際の指揮にあたるのが参謀の西郷隆盛です。東征軍は東海道・中山道・北陸道の三手に分かれて江戸を目指しました。

3月5日。有栖川宮熾仁親王の本隊が駿府城に入ります。翌3月6日。江戸城総攻撃が3月15日と決まりました。

次回「彰義隊結成」に続きます。

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66番前大僧正行尊~

解説:左大臣光永