彰義隊(二)彰義隊結成

こんにちは。左大臣光永です。

本日、淀で戊辰戦争の戦没者の墓を訪ね歩いていたら、「何さがしてますん」と地元のおばちゃんが声をかけてきて、場所を教えてくれ、しかも、もう仕事終わったからといって、ラーメン屋のおばちゃんだったのですが、車でそのほかの史跡も案内してくれました。ありがたいお志でした。

前回から、彰義隊についてお話しています。

彰義隊。慶応4年(1868)5月15日の上野戦争で新政府軍と戦った旧幕臣を中心とする部隊。

新選組や白虎隊にくらべて知名度は薄いですが、上野寛永寺で戦われた「上野戦争」は、半日で終わったとはいえ、戊辰戦争のターニングポイントといえる重要な戦いです。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Edo_Syougitai2.mp3

前回ぶん
https://history.kaisetsuvoice.com/Edo_Syougitai1.html

また、豊富な記録や証言が残っており、彰義隊の戦いの跡をかなり細かくたどれることも、興味深いところです。

本日は第二回「彰義隊結成」です。

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雑司ヶ谷の会合

徳川慶喜は慶応4年(1868)2月12日、江戸城を出て寛永寺大慈院に謹慎しました。同日、雑司ヶ谷鬼母子神の門前茶屋・茗荷屋(みょうがや)に旧一橋家家臣を中心とする17名が集まりました。


雑司ヶ谷鬼子母神


鬼子母神大門 欅並木

彼らを召集するための書状にはこのようにありました。

「慶喜公は天皇への忠義を尽くし、昨年暮れに大政を奉還された。しかるに賊徒どもの悪巧みによって、朝敵に転落されたことは遺憾の限りである。君辱められれば臣死するの時という。一橋家当主の時以来、慶喜公にお仕えする者が、どうしてこの事態を傍観していられようか。多年の御恩に報いるのは、この時である」(『彰義隊戦史』山崎有信著  アジア学叢書 より意訳)

すこし説明しますと。

徳川慶喜は御三家の水戸徳川家の出身ですが、御三卿の一橋家に養子に出されました。13代将軍家定の後継者としておされるも、安政6年(1859)大老井伊直弼の妨害を受け、謹慎を命じられ、その時は将軍になれませんでした。

その後、文久2年(1862)一橋家の家督をついで当主となり、慶応2年(1866)14代将軍家茂が亡くなると、将軍となりました。

慶喜が将軍になったことに伴い、一橋家当主時代の家臣たちは多く幕臣に取り立てられました。彼らはいわば慶喜の譜代の家臣であり、慶喜に対する忠義のあつい人たちでした。彼らは慶喜を救うために、同志に呼びかけたのでした。

酒もまわってきて、この日の会合は大いに盛り上がりました。しかし具体的な戦略があるわけではなく、「義憤をのべあう」という程度のものでした。

ついで2月17日、2月21日も四谷鮫ケ橋の臨済宗円応寺にて会合が行われました。

2月21日の会合では人数は67名に増えました。

彰義隊 結成

2月23日。場所を浅草の東本願寺に移して四回目の会合が行われます。今回は130名集まりました。ここで会合の名が「尊王恭順有志会」と決まります。

慶喜が寛永寺で恭順していることをふまえての名でした。そして隊の名を義をあかす、義をあきらかにするという意味から「彰義隊」と定めます。また、慶喜を取り囲む「床几」…大将が座る腰掛の意味も持たせてありました。

この日の会合で人気を二分した2人がありました。

渋沢成一郎と天野八郎。

どちらも裕福な農民出身で武士になったものです。しかし渋沢成一郎と天野八郎は経歴も、性格も、大きく違っていました。

渋沢成一郎はおちついた理論派の風で、天野八郎は三国志の英雄豪傑のような、豪快な感じでした。

渋沢成一郎。

武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)の裕福な農家の出身。後に第一国立銀行や東京商品取引所を築いた渋沢栄一は従兄弟に当たります。

渋沢成一郎・栄一は当初、尊王攘夷の志士として活動し、横浜の外国人居留地焼き討ち計画を立てたこともありました。しかし縁あって一橋家に家臣として取り立てれたのが元治元年(1864)。

渋沢栄一は幕臣となった直後に慶喜に命じられてフランスに渡りますが、成一郎は国内にとどまり、幕府の奥右筆格として働きました。奥右筆は機密文書を扱う係です。

天野八郎。

上野国甘楽(かんら)郡磐戸(いわと)村の名主・大井田(おおいだ)家の出身。幕府の開国政策に憤り、江戸に出て学問や剣術を学びます。慶応元年(1866)定火消与力・広浜利喜之進の養子となりますが、翌年、広浜家の籍を抜け、天野八郎と自称しました。

一本気な性格で、槍などの持ち物に「香車(きょうしゃ)」の文字を入れていました。将棋の「香車」のように、横にも後ろにも退かない。前に進むだけだという意味です。

天野は渋沢とちがって、べつだん一橋家に恩は受けていないのに彰義隊に加わりました。その理由は、よくわかっていません。

渋沢と天野、投票では天野に人気が集まります。しかし天野は、

「頭取には渋沢さんがいいです。私は副頭取につきましょう」

そう言って渋沢が頭取に、天野が副頭取に就任します。

彰義隊はすぐさま彰義隊結成の趣旨を書状にしたため、幕府に提出します。いわく、

「慶喜公は尊王のお心が強いあまり君側の奸に利用され、天皇のお怒りを買ってしまった。ひたすら恭順して天皇のおさばきを待つお考えである。臣下の身分で何も言うことはできぬが、このまま黙っているわけにもいかない。死を決して同盟し、今回のことは冤罪であると、訴える所存である」

しかしこの書状は幕府から受け取りを拒否されました。君側の奸、死を決してなどと表現が過激すぎ、慶喜の恭順路線に反しているためでした。

それでも彰義隊結成の動きが知れたことで、参加希望者が集まってきます。

「ここですか彰義隊は」「私も入りたいのですが」「ええ、ええ、ではこちらにお名前を」「あのー、おいらも」

集まったのは幕臣だけではありません。藩が新政府に与したのを良しとせず浪人した者、町人や単なるヤクザ者まで、いろいろな者が加わり、彰義隊は千名を越える規模に膨れ上がります。

江戸市民に人気が高かった彰義隊

「まずい。今新政府を刺激するのは、いかにもまずい」

勝海舟以下の旧幕府首脳部は、彰義隊の存在が新政府に対する軍事組織と見られることを何より恐れました。

そこで、彰義隊を江戸市中の見回りに当たらせることにします。軍事組織ではない、見回りを行っているだけだというアピールです。また彰義隊の持つエネルギーを暴発させないようにという意味もあったのかもしれません。

エーンエーンと子供が泣いている。どうしたの、あのね、お母とはぐれちゃったの。おおそうか。でも安心しな。彰義隊のおいちゃんが、さがしてやるからよ。もしもーし、この子のお母さん、いませんかー。

そんな地味な活動にも励んだために、江戸市民の間で彰義隊は人気が出てきます。

また徳川時代への懐かしさも、彰義隊人気を高める原因でした。この頃の江戸市民の雰囲気として、いつかは新政府軍が負けて、ふたたび徳川の天下が来る。そう信じたいという気持が根強かったのです。

なにしろ彼ら江戸っ子は徳川260年のお膝元で暮らしてきたことに誇りを持っていました。

「あらお兄さん彰義隊なの。まあ彰義隊…素敵ねえ。頼りになるってかんじ。うんといいことしてあげるわ」

吉原では、こんなふうに彰義隊はモテモテでした。「情婦(いろ)にするなら彰義隊」という言葉までありました(『戊辰物語』)。

副頭取・天野八郎が「近頃は金にも困り申さず」と手紙に書いています。これは寛永寺のバックアップを受けるようになって懐がうるおったため金持ちだったんですね。

彰義隊、寛永寺へ

彰義隊がなによりの重大任務と考えたのが、上野寛永寺に謹慎している徳川慶喜の警護でした。

それで4月3日浅草東本願寺から上野寛永寺に屯所をうつします。慶喜を警護するためと、人数が増えすぎて浅草東本願寺では手狭になってきたせいでした。

「さようか。彰義隊ならば、寛永寺は大歓迎である」

寛永寺の責任的な立場にある輪王寺宮執刀・覚王院義観(かくおういんぎかん)は新政府に反感をもっており、彰義隊を快く迎え入れました。

しかし当の慶喜にとって、彰義隊の存在は、めいわくでした。

慶喜警護には遊撃隊という旧幕臣が1500人から1600人であたっていました。そこに、後から彰義隊が乗り込んできて、警護するというのです。

遊撃隊と彰義隊との間で縄張り争いが起こることは必定でした。そこで渋沢成一郎は、遊撃隊は境内を、彰義隊は外回りを警護させるということで争いを避けようとしました。

江戸城引き渡し

その間、旧幕府・新政府の間で虚々実々の駆け引きが行われますが、結局、江戸城は明け渡されることになりました。

慶応4年(1868)4月11日、東征軍参謀・海江田信義に率いられた薩摩・長州・尾張・熊本・岡山・大村・佐土原の七藩の藩兵が江戸城桜田門から入り、城内を点検。城郭は尾張藩の預かりとなり、武器と兵士は熊本藩が接収しました。


桜田門

しかし接収できた武器はわずかでした。武器の多くは江戸城明け渡し前に、武装解除に反発する兵士らによって持ち出されていたためです。

陸軍歩兵奉行・大鳥圭介は徹底抗戦を主張し、開城の当日、江戸城を脱出していました。海軍副総裁・榎本武揚は八隻の軍艦を率いてが安房の館山沖に向かっていました。彼らはあくまで新政府軍と戦う構えでした。

以後、戊辰戦争は関東一円へ、さらに東北へ飛び火していきます。

徳川慶喜の身柄については交渉が難航しましたが、実家である水戸藩にお預けと決まりました。江戸城開城当日の4月11日早朝、慶喜は寛永寺を出ます。これまで慶喜を警護していた幕臣200人あまりが護衛にあたります。

慶喜は憔悴しきっていました。髭はのび、黒木綿の羽織に小倉の袴をつけ、麻裏の草履をはいていました。

慶喜のその姿を見て、涙を流す者も多くありました。

一行は日光街道を千住まで進み、千住からは水戸街道を進みました。彰義隊は千住まで警護し、頭取の渋沢成一郎は松戸まで付き添いました。

慶喜は水戸に到着すると、藩校の弘道館で謹慎生活に入ります。

4月21日、東征大総督・有栖川宮熾仁親王が江戸城に入ります。以後、江戸城に新政府の総督府が置かれることとなります。

次回「大村益次郎、着任」に続きます。お楽しみに。

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66番前大僧正行尊~

解説:左大臣光永