松平定信(ニ)寛政の改革(一)

農業政策

では寛政の改革の、具体的な政策について見ていきます。

松平定信が政策の柱にすえたのは、一にもニにも農業です。

「貴金賤穀の風」を改めると言っています。

つまり、金を尊び米を賤しむ、利益ばかりを追求する田沼時代の政策を批判しています。

松平定信が老中になった頃、農業人口が低下していました。それは、天明の飢饉により農民が出身地から逃げ出し、浮浪人となったり、都市に流れ込んでいたのです。大問題でした。

そこで、農民が出身地に帰ることをすすめ(旧里帰農奨励令)、貧困な者には食糧や農具を支給しました。また農業人口の減少を防ぐため間引きを禁じ、育てられない者には子供の養育費も支給しました。

公金を裕福な農家に貸付け、その利子を農地復興のための資金に当てました。

囲米

飢饉対策も行いました。「囲米」です。全国の大名に一万石につき五十石を五年間、毎年、備蓄させました。また諸国に「郷倉(ごうぐら)」という倉庫を建てて、ふだんから米や籾殻を備蓄させました。

ただし備蓄した米や穀物は諸藩で自由になるものではなく、あくまでも幕府の所有です。それでいざ飢饉となった時には、幕府から藩に貸し付けるのです。

つまり、実質は増税です。増税なのですが、米や穀物の管理は国元で行うわけため、幕府から巻き上げられるよりも、手間もかからず、心理的なハードルも低かったことでしょう。

これら郷倉・囲米の制度は寛政期にはじまり、幕末まで続きました。

七分積金

都市部では七分積金(しちぶつみきん)というものを積み立てました。町の運営に必要な経費をこれまで地主に負担させていました(町入用(ちょういりよう))。この必要経費を徹底して削減し、浮いた差額のうち70%を積立ててるというものです。その積み立てた金は、備蓄用の籾殻を買ったり、低利息で貸し出したり、火事や飢饉の時の救助費用や、貧民救助費用に当てました。

人足寄場

治安維持にも務めました。

寛政2年(1790)火付盗賊改・長谷川平蔵の発案により、江戸石川島に人足寄場(にんそくよせば)が開かれます。浮浪人や軽い犯罪を犯した者をここに強制収容して、更生をはかりました。油絞りや牡蠣殻灰作りなどの軽作業に従事させたり、就職のための技能をつけさせたりしました。社会復帰への道を示すとともに、打ち壊しなどの犯罪を未然に防ぐ意味もありました。

棄捐令

寛政元年(1789)9月、棄捐令(きえんれい)が発布されます。武士が札差から借りている借金を帳消しにしたり、大幅に利息を下げるというものです。これによって借金まみれの武士の救済をはかりました。

ちょっと説明が必要です。

武士は給料を米で支払われていました。これを俸禄米(ほうろくまい)といいます。食べるぶんはいいのですが、何か買ったりするには金のほうが便利です。そこで札差という職業が出てきます。武士から受け取った米を金と交換し、米問屋に卸す商売です。

武士から俸禄米を買って現金にする時と、その米を米問屋に売る時の二度、札差は手数料を受け取りました。のみならず、札差は余剰資金を高い利息をつけて武士に貸し出しました。

結果、札差はどんどん金持ちになり、武士はどんどん貧乏になりました。札差の中には歌舞伎役者のような派手なりをして贅沢三昧を楽しみ、武士を下に見て人とも思わない者もありました。

そこで松平定信は、借金まみれの武士の救済として、札差からの借金を帳消しにする棄捐令(きえんれい)を出したのです。

当然、札差側は猛反発します。

冗談じゃない!大損害だ!もう武士には貸さないということになってきます。そこで幕府は札差への救済策も用意していました。

公金を低金利で貸し出したり、札差の運用資金を貸し出すための猿屋町貸金会所(さるやちょうかしきんかいしょ)を設置しました。

棄捐令が出されるや借金で苦しんでいた旗本・御家人は「夢ではないだろうかと小おどりして」喜んだといいます。

しかし、すぐに問題が生じます。

米価が下がったことと、札差はもう二度と武士に金を貸さなくなったことです。結果、棄捐令以前よりさらに武士は生活が苦しくなり不満があふれました。

出版統制令

また松平定信は出版統制令を出しました。当時、黄表紙や洒落本といって、時代を風刺したり茶化したりするものが増えていたのです。これを取り締まりました。滑稽本・好色本の類も、禁じました。

風紀の乱れをただし、文武を奨励するためでした。それにしてもおカタいですね。定信がインターネットを知ったら卒倒しそうです。この「文武」というのが定信の口癖で、何かにつけて文武、文武言っていました。大田南畝の有名な狂歌に、

世の中に 蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて 寝てもいられず

解説:左大臣光永