松平定信(一)白河藩主から老中へ

松平定信(1758-1829)。天明七年(1787年)11代将軍徳川家斉のもとで老中となり、寛政の改革を断行しました。

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旗本の借金救済策として札差(ふださし)統制、農民救済策として七分積金(しちぶつみきん)。無宿人や浮浪者を集めての職業訓練の実施、賄賂の廃止、朱子学を幕府の正式学問とする「寛政異学の禁」など、改革は多岐にわたりました。しかし、あまりにマジメすぎたんでしょうか。おおむね不評だったようで、わずか六年で失脚しました。

白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼恋しき

そう言って揶揄されたのは、有名な話です。一方、私人としては文芸を愛好し、詩歌にすぐれた風流人でした。

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出生

松平定信は宝暦8年(1758)12月27日、田安家の祖・田安宗武の七男として江戸の田安邸に生まれます。幼名賢丸(まさまる)。祖父は八代将軍吉宗です。

八代将軍吉宗には子が四人いました。長男が家重、次男が宗武、三男は早世し、四男が宗尹(むねただ)です。

御三卿 系図
御三卿 系図

このうち長男の家重が九代将軍となり、次男の宗武が田安家の祖となり、四男の宗尹が一橋家の祖となります。その後、九代将軍家重の次男重好が清水家の祖となります。これら田安家・一橋家・清水家をあわせて「御三卿」といいます。

御三卿は御三家に継ぐ、いざ将軍跡取りが生まれない時のスペアでした。松平定信はその御三卿に生まれたということは、将軍になった可能性も高いということです。

幼年期の松平定信

幼年期の松平定信は熱心に学びました。田安家の儒学者大塚孝綽(おおつか たかやす)から漢学を。側近の水野為長から和歌を。狩野派の絵師狩野典信から絵を。漢詩は規則が難しいので和歌のほうが好きだったようです。16歳の時、ほまれ高い歌を詠んでいます。

心あてに 見し夕顔の 花ちりて たづねぞわぶる たそがれの宿

『源氏物語』の夕顔巻、光源氏の見初めた夕顔が、六条御息所の生霊に取り殺されるくだりに基づきます。この歌はとても評判がよく、定信はこれによって「たそがれの少将」「夕顔の少将」と呼ばれるようになりました。

定信は生涯『源氏物語』を愛好し、七度も書き写したということです。

源氏ものがたり計も七度かき、廿一代集二部、八代集一部、万葉集は両度、三代集のたぐひ、さごろも、いせものがたりなどいくつかきけん、忘れにけり。

『修行録』

白河藩主の養子となる

明和8年(1771)父宗武が57歳で死に、兄の治察(はるあき)が田安家を継ぎます。安永3年(1774)定信は将軍家治の命により奥州白河藩11万石藩主・松平定邦(久松松平家)の養子に出されます。20歳でした。

定信は田安邸を去り、八丁堀にある白河藩邸に移ることとなりました。田安家では涙ながらに定信を見送りました。

ところが同年7月、兄治察が死に、田安家が断絶の危機にさらされました。ふつうなら定信が実家の田安家に戻って家督を継ぐところですが、そうはなりませんでした。

一説に、定信を松平定邦の養子に出したのも、田安家に戻さなかったのも、田沼意次が横槍を入れたせいだということです。田沼は徳川宗家の家重・家治に仕えており、実力のある松平定信が御三卿を継ぐと一大事だ。いつか将軍となって立ちはだかると思ったのかもしれません(『楽翁公伝』渋沢栄一)。

白河藩士時代の松平定信は武芸の修行にいそしむ一方、読書と著述に明け暮れました。「一年のうちに四百巻ほども読みたり」と言っています。ことに歴史は深く学び、司馬江漢の『資治通鑑』その要約版である『通鑑項目』は繰り返し読みました。

白川藩主となる

天明3年(1783)10月、白河松平家の家督を継ぎ、26歳で藩主となりました。大変な時期に藩主になったのです。天明2年から6、7年にかけて記録的な飢饉が起こっていました。巷には餓死者が溢れました。さらに天明3年(1783)7月、浅間山が噴火。火炎を交えて立ち上る煙は江戸の町にまで灰を降らせました。煙で日照時間が短くなり、灰が降るので気温が下がり、関東・東北では秋になっても収穫がありませんでした。

「これは心してかからねばならない」

凶作は白河藩とて同じでした。そこで松平定信は家臣を集めて言うことに、

「質素倹約に励むのだ。私が自ら手本となろう」

おどろくべきにはあらず、凶には凶の備をなすぞよけれ。いでこの時に乗じて倹約質素の道を教へて盤石のかためなすべし

『宇下人言』

定信は藩士には質素倹約を、農民には荒れ地の開墾をすすめ、道路改修事業を行いました。飢饉対策として会津藩から米殻6000俵、大坂で尾張美濃の蔵米2千俵を買い付けました。やがて飢饉が深刻化してくるとどの藩も米を売り渋るようになりますが、定信はそれを見越して早めに買い付けたので、大丈夫でした。

こうして白河藩では挙国一致大成で飢饉を乗り越えました。打ち壊しはあったものの、餓死者はなく、他の藩に比べれば被害は最小限に抑えられました。

溜間詰となる

天明5年(1785)12月、定信は江戸城本丸溜間詰(たまりのまづめ)となります。

溜間詰とは有力な譜代大名が任じられる、最高の地位で将軍の政治顧問のような立場です。

松平定信は時の権力者・田沼意次に取り入って、この地位を手に入れたといいます。

しかし松平定信は田沼のことを嫌っていました。「殿中で刀を忍ばせて、田沼意次を刺し殺すつもりだった」とか田沼意次のことを「盗賊同然の主殿頭(とのものかみ)」とまで言っています。

松平定信の父は吉宗の次男・宗武。田安家の跡取りとして松平定信が将軍になっていた可能性も大いにあります。しかし田沼の横槍で、それは実現しませんでした。

つまり「田沼のせいで将軍になれなかった」という恨み。

のみならず、田沼がおしすすめる商業重視の重商政策、金権政治は、質素倹約を旨として農業主体の国造りを目指す松平定信には汚く、腐敗したものに見えたのでしょう。

老中首座

翌天明6年(1786)8月、将軍家治が病死。跡取りがいなかったので一橋家の家斉が養子となって跡を継ぎます。この時もし松平定信が田安家にいたら、将軍になっていた可能性があります。

田沼意次はここまで権勢をほしいままにしていましたが、その後ろ盾となっていた将軍家治の死によって没落。老中を罷免されます。しかし罷免後も田沼は雁の間詰(がんのまづめ)という高い地位を保っていました。田沼失脚から約10ケ月の間、田沼意次派と松平定信派の水面下での争いが続きましたが、勝ちを制したのは松平定信派でした。

天明7年(1787)6月19日、松平定信が老中に抜擢されます。しかも老中就任早々、首座(五六人いる老中のトップ)とされました。30歳でした。松平定信を後押ししたのは御三家と、一橋治済(はるさだ)でした。

老中就任2日後の6月21日、松平定信は政策の基本方針を発表します。

一、財政の主導権を特権的な富裕商人から幕府に取り戻すこと
一、すぐれた人材を登用すること
一、賄賂を絶つこと

すなわち田沼意次の行った重商主義の完全否定でした。

松平定信は田沼意次を激しく憎んでいました。「殿中で刀を忍ばせて、田沼意次を刺し殺すつもりだった」とまで言っています。「敵」とも「盗賊同然」とも罵ってます。それはもう、政策の違いとか考えの違いということを越えた、ドロドロした執念とも思えます。その憎き田沼が失脚した後は田沼が行ってきた政策のすべてをことごとく潰しました。

印旛沼の干拓事業も、蝦夷地の開発も、貨幣の鋳造も、すべて中止となりました。

松平定信は老中になった翌月に「寛政の改革」の断行を宣言。田沼時代の悪弊をただそうとしました。

将軍補佐役となる

とはいえ、老中の中には田沼派がまだ多く残っていました。田沼派を徹底して追い出さなければ改革はならない。そのためには大老になるのがいいが、若年の定信にそれは難しい。そこで定信は、御三家と一橋治済(はるさだ)にさかんに働きかけ、天明8年(1788)3月3日、将軍補佐役に任命されます。この時将軍家斉15歳。

こうして将軍の権威を手にした松平定信は、幕閣から田沼派(水野忠友(ただとも)・松平慶福(よしとみ)・牧野貞長(さだなが))を追放します。かわって自分と親しい者(松平信明(のぶあきら)・松平乗完(のりさだ)・本田忠籌(ただかず)・戸田氏教(うじのり))を登用します。

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解説:左大臣光永

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